スマホ・デトックスの基礎知識 アテンション・エコノミー(関心経済)にご用心!
記事:白水社
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肝心なのは聴衆を目覚めさせることだという。
壇上の男は自信たっぷりだ。彼の背後にある巨大なスクリーンには、金魚鉢が映し出されている。すべての文章には、クエスチョン・マークが付されている。インスタグラムの写真のように、この画像にはさまざまな加工が施されている。スクリーン上を泳ぐ金魚の丸い目は、聴衆に催眠効果を放つ。
壇上でプレゼンテーションする30歳代の男は、ピタっとしたシャツとスリムなパンツを身に着け、パステルカラーのスニーカーを履き、小粋な無精髭にラフな髪型という、クールでシックな出で立ちだ。高級そうな眼鏡をかけ、ワイヤレスのマイクを使ってアメリカ英語でまくしたてるこの男は、プレッシャーに耐え、鋭敏な知性を活かして世界的な成功者になった。それもそのはず、彼は世界最強の企業グーグルの社員である。ヨーロッパのメディア企業の社員たちにデジタル化の心得を熱弁するために、カリフォルニアのマウンテンビューにある本社からやってきたのだ。
グーグルは年に数回、世界中でこうした会議を企画し、この分野のプロたちと交流を図る。これらの機会を利用して、グーグルのツール、技術、研究を周知させるのだ。パリ、ロンドン、ベルリン、マドリッド、ローマ、ストックホルムであろうと、会議の内容はどこも同じだ。
デジタル・ライフを支配するカリフォルニアの大企業グーグルは、被支配民との「パートナーシップ」を強化する。「《最大多数の利益のために》情報をより迅速かつ正確に共有するには、アメリカ流にやるべきことと共有すべきことがたくさんある」と確信するグーグルは、参加者にお土産を配り、休憩ごとに盛りだくさんの料理をふるまい、こうした崇高な理念を強化する。
ところが、正反対の効果が生じている。会議が開かれるたびに、グーグルと参加者たちとの溝は深まる一方なのだ。グーグルとの力の差は歴然としている。数年前では大きく引き離された状態だったが、現在ではその隔たりは計測不能であり、グーグルの姿はわれわれの視界から消えた。より正確に述べると、グーグルの築いた新たな世界は、日々われわれの世界から遠ざかっている。
会場の参加者たちは、この男のプレゼンテーションに耳を傾ける。グーグルが圧倒的な地位を築いたのは、想像力あふれる技術者たちが並外れた演算能力をもつ人工知能を苦労して開発したからだ。この人工知能という魔法の言葉の背後にあるのは、データと数式だ。これらを駆使することによって、機械に少しずつ学習、認識、分析させ、説明を見出すことが可能になる。だが、人工知能を機能させるには、優秀な技術者が莫大な量のデータを適宜処理する必要がある。
この男は、巨大画面に映し出された金魚について語る。人間は、鉢の中を飽くことなく泳ぎ回るこの愚かな生き物を見て安心するという。記憶力と注意力をほとんど持たない金魚は、狭い鉢を泳ぎ回るたびに新たな世界だと勘違いする。金魚にとり、乏しい記憶力は災いどころか恵みであり、乏しい記憶力こそが単調な繰り返しを新たな体験に変えてくれる。つまり、金魚は小さな牢獄を無限に広がる世界だと思っているのだ。この有名な「金魚の記憶」は逸話に過ぎないのだろうか。ほとんどの人々は、自分が不注意だったときに冗談めかして「自分の記憶力は金魚のようだった」とぼやくが、この問いを真剣に自問しない。
この男によると、グーグルは金魚が継続して集中できる時間を、デジタル技術を駆使して突き止めたという。これが有名な注意持続時間だ。その時間はわずか8秒未満だ。8秒後には別のことに関心を抱き、金魚の精神世界はリセットされる。
この男のプレゼンテーションの内容は、金魚の生態に関する発見だけではない。グーグルはミレニアル世代の注意持続時間の推定にも成功したという。タッチパネルとともに育ち、われわれと同様、ポケットの中のスマートフォンの振動を感じながら暮らし、物心ついたときから常時オンライン状態にあるのがミレニアル世代だ。公共交通機関での移動中、彼らはスマートフォンの画面に釘づけになる。この男によると、この世代の注意持続時間は9秒間だという。9秒を超えると、彼らの脳の働きは低下するので、新たな刺激、シグナル、警報、勧告が必要になる。金魚よりもたった1秒長いだけだ。
この9秒間をどう克服するかが、巨大企業グーグルの挑戦である。つまり、T・S・エリオット〔1888─1965、英国の詩人〕が述べるとのころ「気晴らしによって気晴らしから気晴らしする」世代の関心をどう保ち続けるかだ。彼らの関心を常時満たすには、どんなツールと数式、そしていかなる提案が必要なのか。この難問を前にしても、グーグルは慌てない。若者をこのような状態に貶めた責任を担うグーグルは対応策を心得ている。個人データを活用して彼らが退屈する前に彼らの関心を再び呼び起こすのだ。
われわれがデジタル通信技術に抱いた夢は、このわずかな時間によって打ち砕かれた。デジタル通信技術は、われわれに無限の世界を約束した。サイバースペースを制限するのは人間工学の限界だけだと喧伝された。ところが、われわれはスマートフォンの画面という鉢に閉じ込められ、プッシュ通知とインスタント・メッセージに隷属する金魚になってしまった。現代人の精神は、ツイッター、ユーチューブの動画、スナップチャット、電子メール、ライブ配信、プッシュ配信、アプリ、ニュースフィード、自動発信メッセージ、アルゴリズムによって加工された画像、フェイクニュース、トレンド入りした話題などに翻弄されている。
現代人は金魚と同じく、自分たちはいつも新たな世界を彷徨していると考えている。デジタル・インターフェイスに閉じ込められた現代人に、無間地獄に陥ったという自覚はない。現代人は自分たちの最も希少な資源をこの無間地獄に託した。すなわち、自身の時間である。
【著者による朗読】
本書のテーマはこの9秒間だ。
科学誌『社会臨床心理学ジャーナル』に掲載された研究によると、SNSなどでインターネットの利用時間が30分を超えると精神に異常をきたす恐れがあるという。この研究が正しいとすれば、私の精神状態は危惧される。というのは、私は「スマホ漬け」の日々を送っているからだ。とはいっても、これは私だけの問題ではないだろう。世の中にはインターネット中毒患者があふれているからだ。
私を含めたデジタル・ユートピアを信じた者たちに後悔の時が訪れた。たとえば、ウェブの「考案者」ティム・バーナーズ=リー〔1955─〕は、新たなインターネットを構築して現在のインターネットを消滅させようと試みている。
当時の理想は実に麗しいユートピアだった。このユートピアの元には、ピエール・テイヤール・ド・シャルダン〔1881─1955、フランスの古生物学者・哲学者〕の信奉者や大麻を愛好するカリフォルニアの絶対自由主義者たちが集まった。
こうした推移は忘れられている。新たな帝国は、われわれの気づかないうちに利用者の自発的な従属を促すモデルを構築した。彼らのやり方は容赦なかった。帝国の原動力の中核にあるのは、技術的な決定論ではなく収益プロジェクトだった。そしてこのプロジェクトは新たな資本主義となって突如現われた。すなわち、アテンション・エコノミー(関心経済)である。
新たなデジタル資本主義は、世の中の一般的な変化が加速した産物であり、こうした加速を生み出した張本人でもある。この資本主義の目的は、時間の生産性を高め、そこからさらなる価値を引き出すことだ。空間を狭めた後は、時間を削減しながらも時間を引き延ばして無限の瞬間をつくり出すことが課題になった。こうした変化の加速により、習慣と満足は関心と中毒になった。そしてこの収益モデルの工作機械の役割を果たしたのがアルゴリズムだった。
われわれのあらゆる指標は、アテンション・エコノミーによって徐々に破壊されている。メディア、公共空間、知識、真実、情報との関わりも、この破壊から逃れられない。
情報が錯綜し「フェイクニュース」があふれ、ヒステリックな議論が横行し、社会に疑念が蔓延するようになったのは、デジタル・テクノロジーそのものに原因があるのではなく、また人類共同体の文化が損なわれたからでもない。情報が崩壊した主因は、インターネット業界の巨人たちが選択した収益モデルにある。
アテンション市場は、情報と民主主義の面で疲弊した社会をつくり出し、デジタル信号によって哲学的な考察を封印する。
しかし、アテンション・エコノミーは利益最優先主義に基づく規範に過ぎず、これを修正することは可能だ。これはデジタル社会においても、データ経済の発展においても、本質的な規範ではない。闘いのときが訪れた。デジタル文明を拒絶するのではなく、その本質を変革し、デジタル技術黎明期のユートピアの原動力だった人類の理想を再び見出そうではないか。
【『スマホ・デトックスの時代 「金魚」をすくうデジタル文明論』(白水社)所収「第1章 九秒間」より】