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『ガロ』創刊のころ 神保町界隈  ――『神保町「ガロ編集室」界隈』(高野慎三 著)より

記事:筑摩書房

『忍法秘話』10号奥付け掲載、『ガロ』広告。本文記述参照
『忍法秘話』10号奥付け掲載、『ガロ』広告。本文記述参照

長井勝一さんとの出会い

 千代田区神田神保町1‐55。そこがかつて『ガロ』を出版していた青林堂が所在した番地である。いまは、同地に29階建ての「東京パークタワー」がそびえている。いつごろ竣工したのか記憶が曖昧だが、十数年前だったのだろうか。この十数年で東京はどこもかしこも大きく変貌したように思うが、そうした事情にまったく興味がないため、数十年前に目撃した風景とともに過ごしてきた感がある。だから、ときたま1950年代、60年代、あるいはもっと古く戦前の風景に遭遇したとしても「懐かしい」といった感情を抱くことはない。それはたぶん、目撃したすべてが「昨日のこと」のように思えるからかもしれない。

 生まれて以来、最初に神保町へと向かったのは、1950年頃だったろう。しかし、目的地が神保町であったわけではない。都電の終点である須田町に近い交通博物館に遊びに行くとき、渋谷発の都電は神保町を通り過ぎた。いまよりだいぶ道幅の狭い靖国通りの急坂道を神保町へと、まるで急降下するように前進する都電がスリリングに思えた。九段下から駿河台下にかけて古いビルが建ち並んでいた。建物の一階で多くの古本屋が店を営んでいた。まだ小学生だったから古本屋への関心はなく、この町はB29の爆撃から免れたのだろうか、という疑問を持ったにすぎなかった。

 都電の神保町の停留所に降り立ち、古本屋を手始めに町中をくまなく歩き出すのは、それから十年ほどしてだ。交通博物館への関心も薄れた頃、渋谷から新橋行きや浜町行きの都電に乗り、都心の映画館へと向かった。あらためて須田町行きに乗るようになったのは、58、9年からだ。毎週、いや毎日のように、神保町の停留所に降りて交差点を渡った。その頃、神保町に近い私大に通学していたのである。だから神保町の「思い出」には事欠かない。大学を卒業してからも就職先の仕事関係で毎週二度三度と神保町に出かけなければならなかった。いや、それ故に青林堂に接近することになったのだった。

神田神保町の風景(東京都千代田区)
神田神保町の風景(東京都千代田区)

 青林堂を初めて訪ねたのは、1964年の冬か65年の春頃だった。『ガロ』創刊号が刊行されたのは、64年の7月だった。青林堂の存在についてはもう少しまえに知った。当時、自宅や勤め先周辺の貸本屋にしばしば足を向けた。白土三平、水木しげる、つげ義春、佐藤まさあきらの貸本マンガを借りるためだ。そのなかに白土が巻頭を飾る短編誌『忍法秘話』シリーズがあった。白土作品は連載ものが多い。しかし、『忍法秘話』を揃えた貸本屋は少なく、困った。ところが、渋谷の大盛堂書店に寄ったとき、最上階の児童書コーナーの片隅に『忍法秘話』を含めた青林堂のマンガ単行本が並んでいた。

 そのときに青林堂の出版物が貸本マンガとはいささか異なる種類に属することに気づいた。もちろん貸本屋にも『忍法秘話』は並んでいたのだが、版元である青林堂は、単行本の流通を新刊書店に定めていたのだろう。だからこそ貸本マンガにはほとんど記載されることのない発行年月日が奥付けに印刷されたのだと思われる。そして、新刊書店で手に入ることがわかると、あちこちの貸本屋を巡らなくても済んだのである。

 『忍法秘話』に次々と発表される白土作品は、『忍者武芸帳 影丸伝』以来の衝撃があった。『忍者武芸帳』が完結したのが1962年なのだが、翌年には『忍法秘話』が出版されたし、『サスケ』はもっと前から出版されていたようだ。どうやら『忍者武芸帳』を出版していた三洋社(発行人は長井勝一)が倒産した頃には、すでに青林堂は存在していたのかもしれない。当時、出版に関連する小さな新聞社に勤めていた関係上、出版社とその経営者に少なからず関心があった。白土三平の愛読者であってみれば、次々と白土の新作を生み出す『忍法秘話』の版元に興味を抱くのは当然だった。奥付には、発行者として長井貴久子や加藤大助の名があった。

 そうこうするうち、『忍法秘話』には月刊雑誌『ガロ』の広告が載るようになる。『ガロ』の創刊は1964年9月号だ。『ガロ』を宣伝するためか『忍法秘話』は65年の9月まで刊行され続けた。

 そして、『ガロ』に「カムイ伝」が5回、6回と発表されても、『忍法秘話』の発行人は長井貴久子のままだった。ちょうどその頃、勤め先の同僚である水沢周が『ガロ』に白土作品についての短評を綴っていた。その彼が「『ガロ』のおやじはなかなか面白い人物だよ」と語った。「おやじ?」女性ではないのか、それとも加藤大助という人なのか、「一度訪ねてみるといいよ」という水沢の言葉に従い、青林堂に赴くことにした。

 新宿区の東五軒町から都電に乗り終点の九段下で下車した。歩いて十分ほどで神保町である。都内地図を頼りに神保町1‐55を目指した。すずらん通り裏の喫茶店「ラドリオ」や「ミロンガ」にはよく通っていたが、その近くに青林堂があるなど想像もしていなかった。数坪の小さな書籍問屋が密集する路地を曲がると青林堂があった。一階の入り口のガラスドアには文林堂と書かれている。高校の頃に読んでいた『航空ファン』の発行元である。その『航空ファン』の二階が青林堂だった。いや、『航空ファン』の編集部も2階にあるらしい。つまりは2階建てのビルに2社が同居していることになる。

「青林堂さんは階段を上った左手ね」と文林堂の事務の人がことばをかけた。小さく青林堂と書かれたドアを開けた。入り口のわきは『ガロ』や『忍法秘話』や『サスケ』が天井近くまで積まれていた。その向こう、道路に面してふたつの机があった。机に向かっていた男性が振り向いて、「あ、どうぞどうぞ」と言って微笑んだ。それが「面白い人物」、青林堂社主・長井勝一さんだった。

長井さんと居酒屋にて

 貸本屋を知ったのは、疎開先から東京に戻った1949年である。B29の空襲を逃れて埼玉の親戚筋に疎開したのが敗戦4ヶ月前の45年4月末だった。疎開先の町は脇街道に似つかわしく映画館や旅館などが軒を並べていたが、すぐ近くに陸軍飛行場があったため安閑ともしていられなかった。敗戦後、占領軍が進駐したこともあって、町はかつての賑わいを取り戻したが、「街道」にも路地裏にも貸本屋はなかった。いや、舞い戻った都内の地区にもそれまで、つまり戦前・戦中を通じて貸本屋はなかったと思う。

 初めて知った貸本屋は、小学校の門前にあった。小学校は空襲に見舞われ、急遽、校庭の片隅に平屋の木造校舎が増築された。だが、全校生徒を収容しきれないから、午前・午後の2部授業となる。昼の給食までの授業と、昼の給食からの授業とにわけられた。午後の部の子どもたちは、給食の少し前に登校し、校門前の貸本屋で立ち読みをして時間を費やした。このころまだ貸本マンガは登場していない。

 店内は3坪程度で、両側に書棚があり、書棚の下に平台があった。左棚が子ども向け、右棚が大人向けとなっていた。子ども向けの棚には、「怪盗ルパン」シリーズ、「シャーロック・ホームズ」シリーズ、「怪人二十面相」シリーズなどが並んでいたが、いちばん多かったのは少年講談本と少女小説だった。平台には、『少年クラブ』『少年』『おもしろブック』『野球界』などの雑誌が置かれていた。実家は食品加工業だったから本などという代物はない。空襲を免れた幼児向けの絵本が5、6冊あるだけである。したがって、高学年ともなると貸本屋の読みものを借りることが多くなる。さきのシリーズ本や講談本のほとんどをその店で借りた。

 そのような貸本屋に夢中になった時期があったので、それはひとつの原体験といえるかもしれない。しかし、それはわずか2、3年の期間に過ぎなかった。1953年から貸本マンガが登場することになるけれど、ちょうどその頃から映画に夢中となり、貸本屋に向かうことはなかった。結局、貸本マンガの最盛期に当る50年代から60年代初めにかけての10年間、リアルな貸本屋体験からは遠ざかっていたことになる。そして、62、3年頃から再び貸本屋に通うことになった。そこには、白土三平という大きな存在があった。

 白土三平の『忍者武芸帳』を60年安保のアナロジーとして論じた藤川治水さんの衝撃的な「忍者残酷物語『忍者武芸帖(ママ)』論」が『思想の科学』に掲載されたのが1963年である。それと相前後するように貸本屋から『忍者武芸帳』や佐藤まさあきや水木しげるの貸本マンガを借りるようになった。いや、正確には三軒茶屋の古本屋に並んでいた『忍者武芸帳』との出会いが、端緒といっていいだろうか。ともかく、『忍者武芸帳』のような優れた作品が貸本マンガに存在することに目を見張った。

 白土三平の貸本マンガとの出会いから再び貸本屋に出入りすることになる。前に述べたように、『忍者武芸帳』を出版していた三洋社(仲御徒町から神保町近くの三崎町に移転)にはじまり、『忍法秘話』を出版していた青林堂へと辿り着き、やがて『ガロ』の創刊広告を知ることになるのだが、どれにも長井勝一という人物が関わっていたことに大きな関心が働いた。『ガロ』の編集室を訪ねたのは、60年代半ばだったが、そのとき長井さんと何を話したか記憶がない。初対面の挨拶をしたあと、白土三平さんについていくつかの質問でもしたのかと思う。

 夕方近くなったのでおいとましようとすると、長井さんが「近くの飲み屋に行きませんか?」と誘った。喫茶店の「ラドリオ」と「ミロンガ」に挟まれた路地を抜けたところに小さな居酒屋があった。十人もいれば満席の居酒屋だ。こちらは酒はほんの少ししか飲めないけれど、長井さんにおつき合いすることにした。水木しげるさんが長井さんの声を評して「障子の破れる音にも似て」とどこかに書いていたが、そのガサガサした声が次第に甲高くなり、そして饒舌になっていった。話の内容は白土さんに関することではなく、自身の体験談だった。そこで聞いた戦中・戦後の体験談は後日、『「ガロ」編集長』(ちくま文庫)に収録されるが、ともかく聞いていてただただ楽しかった。

 冒険譚を読むような痛快感があったものだから、それからひと月しないうちに青林堂を再度訪ねた。こんどは、靖国通りの神田日活とパチンコ屋「人生劇場」に挟まれた路地裏の居酒屋へ誘われた。長井さんは三洋社時代のことをも話したかったのだろう。パチンコ屋の経営者は、三洋社時代の共同出資者だとのことだった。もう一人の出版(取次)関係の友人と三人で貸本マンガの出版社をつくろうということで、三洋社と名付けたのだという。そして、貸本マンガで大もうけしたことなどを楽しそうに語った。

高野 慎三『神保町「ガロ編集室」界隈』(ちくま文庫)書影
高野 慎三『神保町「ガロ編集室」界隈』(ちくま文庫)書影

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