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〈他者〉を文学する――『魯迅を読もう』の読者に寄せて(2)

記事:春秋社

雑誌『新青年』に掲載された『狂人日記』
雑誌『新青年』に掲載された『狂人日記』

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文学――言葉による言葉への抵抗

 魯迅は、文学の社会的効用を微塵も信じていなかった。「軍閥を追いやったのは武器であり、文学ではない」と彼は繰り返し強調している。この点で、魯迅の言説は意外にも小林秀雄のシニカルな発言に響き合っている。文学と戦争の関係について、いざという時、文学者は筆を捨てて銃を取るべきだと小林はかつて述べた。ちなみに、小林は魯迅のことを「作家としては一流ではない」と厳しい評価をしているが、「あの人の演じた人生劇はいたましく立派です」と補足している(小林秀雄『小林秀雄全集』第八巻、新潮社、2001年、34頁)。

 魯迅にとって、文学は社会的効用を持たないどころか、そもそもその営みは事物を如実に表象することでも、情報を伝えることでもなかった。むしろ彼にとっては、言葉を「透明な媒介」として使うこと――すなわち言葉の日常的な使い方にあえて抵抗することこそが文学である。けれども、文学は言葉によってしか言葉に抵抗できないことに鑑みると、文学の契機はすでに言葉の日常的な使い方に内包されているということになる。これはどういうことか。

 われわれは言葉を、情報を伝達するためのニュートラルなツールとして、日常生活で使っている。しかし一方で、言葉が日常生活において果たしているもうひとつの役割を見過ごしがちだ。われわれは常時、言葉をもって、不意に現れてくる「他者」との遭遇(とそれがもたらすショック)を、自らの経験のうちに回収・安定化しようとしている。けっして難しい話ではないので、魯迅の小説『祝福』(1924)から一例をとってみよう。

言葉から「他者性」を掘り出して

 『祝福』には、お金持ちの家で働いている女中の祥林嫂しょうりんそうという人物が登場する。彼女は無理矢理再婚させられた男に先立たれて、ひとり息子を大事に育てている。けれどもある日息子は、外で遊んでいる時に狼に襲われて死んでしまう。あまりに強いショックを受けた祥林嫂は、この悲惨な話を毎日繰り返すようになった。祥林嫂はけっして狂ったわけではない。むしろその逆である。彼女は物語ることで、この堪えられない「他者」としての経験に、必死に秩序をつけようとした。しかし、うまくはいかない――それゆえに彼女は永遠に同じ物語を繰り返さなければならない。

 思うに、われわれはこのエピソードに「文学的な瞬間」を読み取ることができる。ただしここでいう文学の契機とは、繰り返されている「物語」というより、祥林嫂の「繰り返し」それ自体に存する。彼女は、言葉でもってこの恐ろしい事件に秩序をつけなければ堪えられない。しかし他方で、秩序をつけることは同時に、事件の事件性を抹消し、死んでしまった息子を裏切ることにも等しいがゆえに、それもまた同じく堪えられない。言葉がうまく機能しないとわかりつつも、言葉に頼らなければならない――ここに、文学的な営みの真髄が潜んでいる、といってもよい。われわれは「他者」に遭遇すると、常に言葉の「故障」または「逸脱」が起こるといえる。もしそうであるならば、逆に言葉に力を入れて吟味することは、スムーズな叙述(=言葉の連鎖)からショックを引き起こす「他者性」を掘り出していくことにもなりうるだろう。「他者性」がけっして単なる言葉の意味のレベルに収まらないということを、祥林嫂の例が見事に示してくれているのである。

 周知のように、「他者」とは実に不気味な表現である。レヴィナスやデリダなどの哲学者の著作を読まずともわかるように、「他者」を「他者」たらしめるのは、この表現の裏に潜んでいるものの不気味さ、恐ろしさ、曖昧さにほかならない。魯迅にとって、「他者」とは何だったのか。それは、当時の中国社会であり、彼が出会った民衆であり、留学先の日本人学生であり、国民政府のイデオロギー的言説であり、彼自身の経験や記憶である。簡単にいうと、「他者」とは彼が言葉で向き合わなければならない現実そのものである。この点においても、『祝福』はまた示唆的である。

新たなコミュニケーションの可能性へ

 『祝福』の語り手として登場している「私」は、都市から帰省した知識人という設定である。「私」は祥林嫂と出会い、彼女に死後の世界や魂のことを問われたが、答えられず誤魔化すしかなかった。皮肉なことに、言葉を操るのに長けているはずの語り手は、結局祥林嫂という「他者」に面した時、コミュニケーションのための言葉を失った。「私」は彼女の質問に答えられなかったし、彼女を慰められなかった。

 言葉の「過剰(祥林嫂)」と「過少(「私」)」からなるこの構造は、例えば1920年代の中国社会における知識人と民衆との隔たりを浮き彫りにしたのみならず、言葉の機能が崩壊してはじめて現れてくる様々な異質な「他者」との出会いのありようをも露呈させているのである。いうまでもなく、以上に述べてきた構造は『祝福』のすべてではなく、このテクストへアプローチするための入り口にすぎない。この構造が『祝福』のなかでいかに配置され、展開されているかについては、読者に自ら確認していただきたい。

 言葉それ自体への敏感さと反省を、魯迅は数多くのテクストで見事に示してくれている。繰り返し強調するまでもないが、「他者」との遭遇は既存の言語構造や意味作用をいったん無効にし、またショックや驚異を引き起こす。このような驚異にあえて言葉を与えようと試みた魯迅文学の営みにおいては、内容レベルでの表象はむしろ背景へと退く。しかし、希望のないところにこそ希望があるという魯迅の考え方に従っていうならば、コミュニケーションのための言葉を失ったその瞬間にこそ、われわれは新たな言葉・新たな人間関係を築き上げていく可能性を獲得するのである。

 現代に生きるわれわれは、魯迅が生きた時代よりはるかに、コミュニケーションの不可能性を日々体験しているのではないか。SNSでの「ブロック」機能がいかに活用されているかについては、もはや多言を要しない。では、この状況に対して文学に何ができるのだろうか。はたして文学は、われわれが向かい合っている「他者」への同情を培ってくれるのだろうか。魯迅はそう思っていないだろう――「人々は互いに心が通じ合っていない」と彼は述べる。けれども、もしも言葉がわれわれを互いに隔てているならば、われわれを繋げるものも言葉でなければならない。

 われわれの日々使う言葉の限度を問い、その反省のプロセスを物語るという魯迅文学の営みは、われわれを「他者」との新たな関係性へと導く手引きとなるのかもしれない。思うに、それは魯迅を読む意義だけでなく、言葉の過剰と過少が同時に現れているこの理不尽な時代を生き抜くための重要な「知の技法」でもある。

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