カリブ海から世界へ――混ざり合う世界を体現する作家が紡ぐ、「さすらい人」の物語(『犬が尻尾で吠える場所』)
記事:作品社
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本書のあらすじ
パリの街外れに生まれ、父がルーツを持つカリブ海のグアドループ島とは肌色と休暇時の記憶のみでしか接点を持たない若い女性である「姪」が、家族のルーツを求めて自身の父と父方の伯母たちに話を聞きながら一族の歴史を掘り起こし、自らの混血としてのアイデンティティを練り上げていく——。
私が本書の翻訳企画書を書いていた頃、世界では「ブラックライヴズ・マター」が声高に叫ばれ、日本では、とあるCMにおける大坂なおみ選手の「ホワイトウォッシュ」が問題となり、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチが折に触れて噴出していた。
そうした問題のすべてが今となっては片づいているというつもりはさらにない。国家レベルで見ると韓国と日本はいまだに仲違いすることがあるし、イタリアでは民族主義と結びついたナショナリズムを掲げる右翼政党「イタリアの同胞(FDI)」を率いるジョルジャ・メローニ党首が首相に就任するなど、分断をあらわにする動きが見られる。
それでも、世界は確かに変わっている。本作の原書の出版年である2018年から遡ること3年、2015年に活動を開始し、世界的スターになるのも間近といわれている、マリ共和国(元フランス領スーダン)生まれ、フランス育ちの歌手アヤ・ナカムラは、アーティスト名に日本語の姓を取り入れ、アフリカ的オノマトペや英語などの混ざったフランス語の詞を歌い、文化・国家間の序列や境界を軽やかに乗り越えていく。そしてそのミュージック・クリップの撮影地には、おそらくはパリ郊外と思われる、ルーツや文化的背景を異にする様々な人々の暮らす場所がしばしば使われている。
日本でも昨今は普通になりつつある光景だ。私の生活圏内には韓国の軽食とケバブの両方を供するスタンドがあり、カウンターには、中東かどこか出身と思われる中年の男性と、韓国ファッションに身を包んだ若者が並んでいて、脇のテラスでは、パキスタン系と思われる客たちが談笑しながらケバブにかぶりついているときもあれば、おしゃれな高校生や大学生が数人で和やかにオッパチーズボールを分け合っているときもある。
本書も、もしかすると、そんな時代の空気のなかで出版されるべくしてされたのではないかと不意に思った。作品には気負いがない。いい意味で、「イズム」がない。あるのは、あらゆる人や物、現象が惑星規模で共振し、影響を与えあい、混ざり合っていく世界にあって、それをそれとして受け止める、透徹していながらも優しく、節度のある眼差しだ。
この節度は、しかしどこから来るのか。おそらくは、個に留まろうとする姿勢だろう。個人には到底理解の及ばない複雑なこの社会を描き尽くしたいという欲望や、そこにおいて全き他者を代弁する試みは傲慢であるうえ、多くの場合頓挫する。
一方で、そうした欲望や試みを手放したとしても、社会は「わたし」に反映される。私小説的な一人称小説を発表し続けてきた2022年のノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの言葉を借りるなら、「社会的、歴史的であり、性や言語(仏:languages)に関係し、絶えず世界との対話のなかで行われる経験ならびに決定行為の総和」(『L’Écriture comme un couteau』, p. 148)が「わたし」だからだ。
『犬が尻尾で吠える場所』でも、語っているのはほぼ常に一人称の「je(私/俺)」だが、その語りは確かに、フランスの海外県となっているアンティル諸島からフランス本国へ「移民」した人々の内面を映し出している。そして、彼らの内面に声や姿を与え、聞き取られ、見られるものにすることは、その声を聞く側の人々に改めて「世界を見せる」(本書、278頁)ことでもある。
彼らが暮らしていたカリブ海域は、様々なルーツの人々が流れ、あるいは流されてきては、いくつもの言語を混ぜ合わせ、クレオール語を生み、育てていった場所で、労働力をはじめとする様々なものの供給地として、また、国をまたぐ権力闘争の舞台として、世界史の動力源および駆動機の役割を担っていたが、その事実はしばしば不可視化されてきた。それを見ずして私たちは世界を知り得ないにもかかわらずだ。
ただ、本書の「je(私/俺)」は、作者エステル=サラ・ビュルの似姿と思われる「姪」以外にも複数人いて、作中の節ごとに「je(私/俺)」が誰なのか決まっており、それが節のタイトルに明示されている。実際に作品を書いているのが作者一人である以上、こうした書き方が「代弁」よりもさらに巧妙な「成り済まし」に堕してしまう危険はないとはいえないし、意図的にそうしていると思われてしまう可能性もないとはいえない。
だからだろうか、「姪」は、作中で「je(私/俺)」を用いて語る自分以外の人々、つまり、自身の父と父方の伯母たちから聴いた話を物語っているとあらかじめ断っているし、それが「成り済まし」にならないよう努めてもいる。彼女は言う。「彼らが喜びや信頼とともに丁寧に伝えてくれたことに精一杯寄り添い、私のために再現してくれた場面ややり取りはできるだけそのまま残すようにした」(本書、16頁)
書き手が他者を分かったつもりになり、結果、他者の心を踏みにじる危険を冒すのを避けるには、自身の似姿としての「je(私/俺)」一人に語らせ続けるのがおそらくは最も効果的かつ慎み深い態度だろう。エルノーが証明したように、この社会に触れるにはそれで充分だ。ただ、あらゆる人や物がつながる一方で、分断が人為的につくり出されもするこの時代、「わたし」一人ではたどり着けない場所もある。だから、聴く行為を通じて複数の「je(私/俺)」を飲み込んで、宿らせて、語らせる。
フランスの日刊紙『ル・フィガロ』は本書を「この本は単なる小説などではなく、切り出されたグアドループの暮らしそのものだ」と評していたが、この言葉は、同地にルーツはあるものの、そこで生まれも育ちもしていない作者が、そこでかつて確かに暮らしていた「je(私/俺)」たちに、作品を通じて語らせるのに成功したことを示している。
『ル・フィガロ』はまた、本書で用いられている「標準フランス語の性質とクレオールの口語性に橋を架けるような作者独自の言語」についても評価している。私には、それは、作者の独自性が生み出したものであると同時に、彼女が誠実な聴き手だったがゆえに生み出されたもののようにも思える。
自身の父や父方の親戚たちの言葉から決して消え去らないグアドループのクレオール語の痕跡と、グアドループを訪れるたびに彼女の耳へ流れ込んでいった同言語の集積は、彼女の内で響き合い、それを聴き書く彼女の手を伝っていって、彼女の言葉が印刷された紙の上で躍るのだ。私はその波動を、揺らぎを、損なわず伝えられているだろうか。どうか一人でも多くの方々に読んで確かめていただき、カリブ海の潮騒の只中で世界を語る声に耳を澄ませていただきたい。