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大人へ続く、ほろ苦い階段 イヴァン・ツルゲーネフ「はつ恋」

桜庭一樹が読む

 初恋を覚えてますか? と聞きつつ、自分のはどうも思いだせません。本を読み過ぎたか。
 ツルゲーネフは十九世紀のロシアの作家。若くてハンサムで貧乏な父と、年上の女地主とのあいだに生まれ、大人になるとフランスに移住した。
 代表作『はつ恋』の主人公ヴラジーミルは、そんな作者自身とそっくりの育ちだ。伊達な美丈夫の父になつき、女地主の母のことを恐れている。十六歳のある日、近くに越してきたうつくしい貴族の娘ジナイーダと出逢(であ)い、恋に落ちる。
 若い男たちをはべらせ、小悪魔的に振舞(ふるま)う彼女――。ロシアの小説なのに、まるでフランスの恋愛映画のようなおしゃれな空気をまとう物語だ。
 ジナイーダには父親がいなかった。そのためか、成熟した大人の男たるヴラジーミルの父にひとたまりもなく落とされる。二人のラブアフェアが始まるが、うぶな息子はぜんっぜん気づかず、時は過ぎゆく……。
 やがて、「俺は恋しているのだ、これがそれなのだ、これが恋なのだ」とひとりごちるヴラジーミルのみずみずしい初恋は終わりを告げる。だが、「わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ」と強がるジナイーダの恐ろしい初恋のほうは、終えることができない。
 それでもようやくすべてが終焉(しゅうえん)を迎えたかに見えた後、ジナイーダは父と再び出会ってしまう。初め、対等な態度でかき口説かれても相手にしなかったジナイーダが、白い腕をビシリと鞭(むち)で打たれるやいなや、再び父に屈服するシーンは、女の悲しい美に満ちている。彼女の初恋は、失われた父親(神)をみつけることだったのだろうか? そしてヴラジーミルのほうは、二人に慈愛を感じて、赦(ゆる)すことで、大人の男へと成長する。
 こんな話を読んだら自分のことなんて忘れてしまうわー、というのは冗談ですが。恋をしてる人にもしてない人にもお勧めのほろ苦い古典です=朝日新聞2017年6月18日掲載