家庭とは何か? 仕事とは何か? A.R.ホックシールド『タイムバインド――不機嫌な家庭、居心地がよい職場』解説より
記事:筑摩書房
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「はじめに」の終わりの方で、著者のホックシールドは「家庭とは何か?」「仕事とは何か?」という問いを投げかけている。たしかに本書は、ワーク・ライフ・バランスについてのみならず、この根本的な問いについて考える上で示唆的なエピソードをたくさん含んでいる。解説の場を借りて、この問いを追求してみたい。
本書では、著者であるホックシールドが「アメルコ」社員の生活を観察する中で見出した、ある重要な謎(パズル)が提示される。そのパズルとは、「会社のファミリーフレンドリー制度が充実していても、利用しようとしない人がいる」ということだ。
「アメルコ」社は、グローバルな企業間競争に打ち勝つ手段として、充実した社員教育を含む企業文化の創出(総合品質管理)に取り組んだ。その一環として短時間勤務やフレックスタイム制、育児休暇制度などのファミリーフレンドリー制度も導入された。しかし蓋を開けてみれば、労働時間の短縮を伴わないフレックスタイムを除けば、ほとんど利用者がいないという結果になった。著者は、「労働時間を減らして実入りを減らしたくない」「制度を利用した結果、やる気がないとみなされて解雇されることを恐れる」「職場の『男性的』目線が怖い」などの理由だけだと、どれも満足行く答えにはならないという。そして行き着いたのが、「そもそも職場にいる時間を減らしたくない、家にいたくない」と考える社員の存在だった。家にいる時間よりも、職場にいる時間のほうが充実している、というわけだ。
確かに、「社員に優しい」会社というのは、ふたつの側面を持っているかもしれない。ひとつは、「社員の家庭生活を尊重する」という側面、もうひとつは「社員の職場生活を心地よくする」という側面である。これらはときに矛盾することもある。「職場にいる時間を減らすこともできますし、他方で職場の居心地をよくします」というわけである。もし家庭が居心地のよくない場所であるのなら、居心地のよい職場で長い時間を過ごしたい、と考える人がいても全く不思議ではないだろう。
ホックシールドのこの謎解きは確かに、シンプルなワーク・ライフ・バランスの概念からはなかなか出てこない論点だった。
労働には、お金を稼ぐための有償労働と、家事・育児・介護などの無償労働がある。アメリカのように共働きが当たり前の社会では、無業の女性はかなり少なくなっており、男性でも女性でも有償労働と無償労働をそれぞれある程度こなすことが求められる。そして少なくとも一定の期間、子どもや高齢の親などのケアが必要な家族がいる。こういったケアから自由な人は、本書では「ゼロ・ドラッグ」と呼ばれており、一部の企業経営者にとっては理想的な人材だが、実はほとんど存在しない。ワーク・ライフ・バランスは、このような状況で求められた理念である。
ただ、「企業や政府は人々のニーズに合わせてファミリーフレンドリー制度を導入する。導入しなければワーク・ライフ・バランスが失われる」という単純なストーリーであれば、ホックシールドは本書を世に問う必要はなかったはずだ。言ってしまえば、問題は「仕事と家庭の時間配分のバランスを取ること」ではない、別のところにある。
そもそもどういう状況になれば「問題解決」なのだろうか。
家庭が居心地のよさ、生活の充実度といった点で職場に負けているのだから、職場の居心地が悪くなればよい、という考え方もあるかもしれないが、無論これは前向きな方向性ではない。では逆に、「家庭を職場と同様に居心地のよい空間にする」というのはどうだろう。
ホックシールドはここで重要な論点をえぐり出している。つまり、家庭が職場に勝つことが難しい理由を述べているのだ。そもそも有償労働の場は「対等」なわけではない。家庭と企業とでは、どちらかといえば企業が有利なことが多い。商店街にあるような家族経営の商店が大資本の流通・小売企業に淘汰されたのは、それこそ資本と組織力の差があったからだ。家族はこれらの点で企業より圧倒的に劣る。考えてみれば確かに、なにか問題が起きたとき、その解決のために専門スタッフや制度を配置すること、参加する人が心地よく過ごすための工夫をはりめぐらせること、「仲間との協同」の文化・雰囲気を醸成すること、各種の評価・報奨制度を作って「苦労が報われた」という感覚を作り出すことなど、企業は職場生活を改善するために効率よく動くことができる。アメルコのように、企業に「余裕」があればなおさらだ。
ホックシールドは、(アメルコの)「職場では優しさの社会工学が実現されている」と書いている。家庭にはそういった仕組みが貧弱だ。利害が対立しても調停してくれる理解のある上司はいないし、公平に処遇するためのルール作りもできないことが多い。家庭の「経営者」は、たいていの場合夫と妻のみであり、企業ほど資本もなければ組織力もない。「外注」することはある程度可能だが、管理するのは自分たち自身だ。そこで問題が起これば、自分たちだけで解決せねばならず、しばしば解決しないままストレスだけが蓄積していく。解決したとしても、その功績が十分に評価されないこともある。昇給・昇級などのみえやすい目標もない。夫と妻の両方が、「自分は家事や育児をちゃんとしているのに、何が不満なのか」と考え、ズレてしまった「当たり前の基準」をすり合わせる仕組みはない。企業からすれば、家庭の問題解決能力の欠如は驚くべきほどであるかもしれない。
もちろん、アメルコのように家庭を超える精神的環境を持つ職場が実現できるのは、その企業に経営上の余裕があるからだ。ギリギリの経営をしている会社が社員にきつい働き方を要求したとしよう。その社員は家庭に経済的・時間的余裕があるのなら、離職してしばらくのんびり過ごす、という選択肢がある。家庭では、組織がないゆえに、柔軟に自由に行動できると感じる人もいるだろう。企業に余裕がなければ、ファミリーフレンドリー制度が貧弱であるのは無論のこと、職場の人間関係のストレスは解決されず、評価も不公平だと感じることも多くなるかもしれない。この場合、職場は家庭に「負ける」かもしれない。
なかには共働きで小さな子どももいるのに、家庭も職場もうまく行っており、どちらかが魅力で勝っているのでそちらで長く過ごす、というわけではないような幸運な人もいるだろう。他方で、家庭はストレスフリーだが職場はそうではない人、その逆の人(本書でとりあげられているパターン)、そして不幸なことに、家庭と職場のどちらにもいたくない人もいるだろう。
どういうグループが多くなるのかは、それこそ環境に依存する。極度の経済不況になれば、余裕のある企業がなくなり、また働きたくても働けない人が増えるため、企業としてはコストをかけて「居心地のよい」環境を整備することをしなくなるだろう。EU加盟国のように労働時間に比較的厳しい上限規制がある場合や、育児休業がなかば義務化されているようなことがあれば、職場がいくら魅力的でも、好きなだけそこで過ごすというわけにはいかなくなる。ホックシールドがフィールドにしているアメリカは、政府・行政の役割が小さいので、家庭と職場が直接対決の関係になりやすい、という構造的要因もあるのだろう。
ホックシールドは「充実したファミリーフレンドリー制度がなぜ利用されないのか」という問いに取り組んだ。この先に、次のような問いを追加してもよいだろう。すなわち、「そんなに職場が楽しいのなら、いっそのこと家庭を捨てて職場だけで生きていけばよいのでは?」という問いである。本書でいう「ゼロ・ドラッグ」人材になり、精神的に充実した人生を職場で実現する、という生き方である。
あるいはいっそのこと、みんながそれぞれの帰るべき家庭を持つのをやめて、会社こそが生きる上でのコミュニティになるようにしたらどうか。このアイディアは、ロバート・オーウェンやシャルル・フーリエなどの空想的社会主義者がかつて描いたような、職場と家庭が一体となったコミュニティに近い。集団組織の力を発揮し、「社会工学」を駆使して問題解決にあたることができるのならば、職場に「はりぼての家庭」を構築することなどせず、いっそのこと組織(職場)に家庭を包摂させてしまえばよいのでは、という考え方である。
ただ、この構想は、少なくとも資本主義社会では実現の見込みが薄い。私企業が提供するコミュニティは、企業の経営状態に左右される。いくら「家族のような」職場の人間関係であっても、会社がそれを支援する仕組みを縮小したり、あるいは整理解雇に走ったりすれば、人間関係もうまく行かなくなり、場合によってはそこで関係が終わる。解雇された人には何も残らない。本書16章で述べられているように、アメルコもやがて「競争するアメルコ」に方針転換し、ファミリーフレンドリー制度は縮小され、自慢だった職場の居心地のよさも消えていった。
もちろん、同じようなことは家族にもある程度あてはまる。世帯が経済的に余裕があるうちは、楽しく、将来を見据えながら家族が一緒に生きていける。しかし所得が失われる、重すぎるケア負担がのしかかるなどの理由で、家族関係が終わることもありうる。ただ、その場合でも、多くの人は何らかのかたちで家族を持ちたいと思うだろう。理由のひとつは、やはり家族のほうが企業よりも、人生を包括的に保障すると人々が考えているからだ。
家族と企業では、たしかに後者に有利な点も多いが、家族は企業よりは永続性や包括性を「期待できる」点では優位である。企業と被雇用者の関係は、結婚の誓いのように「健やかなるときも病めるときも」「死が分かつまで」続くことはない。家族関係でも、もちろん失業して家族が離れていく、といったことはありうるが、企業のようにいやおうもなく関係が上から左右されてしまうことはない。家族は、仕事をやめても続く、あるいは続くことが期待される人生の基盤である。
以上から、家庭が職場に包摂されることは考えにくい。いくらアメルコが魅力的な職場を提供し、人々がそこで情緒的な満足を得ながらストレスフリーでやりがいをもって働いていたとしても、アメルコはグローバル環境で利益を追求する組織である以上、人々の人生を丸抱えすることは決してない。「そんなに職場の居心地がいいのなら家庭なんてなくてもいいのでは」という考え方は、なかなか成り立たない。職場の居心地がいくらよくても、そして反対に家庭がいくらストレスフルでも、家庭が職場よりも永続的な関係基盤である以上、人は家族を持とうとするし、一日の終りには楽しい職場からそれほど楽しくもない家に帰ってもくる。
職場は、私たちが生きていく上で必須のお金を人質に取る。家庭は、やはり私たちにとって重要な永続的人間関係を人質に取る。結局私たちは、家庭と職場というふたつの領域の両方ともにコミットして生きていくしかない。ホックシールドが話を聞いてきた人々が直面する葛藤は、このように根源的な構造に起因するもので、おいそれとは解決しない。
ここからは本書の範囲を超えてしまうことをいとわず、さらに上記の論点を突き詰めてみよう。企業に家庭を包摂させるという構想は、少なくとも資本主義社会では困難なのであった。だから職場がいくら魅力的であっても、人は家庭に帰る。人々は、根本的に企業に人生を預けることはしない。会社をやめても継続する家族関係は、人々にとって重要だと考えられている。ただ、職場が魅力的ならば、できるだけ家庭にいる時間を減らしたい、と考える人が多くなり、本書が描き出したような葛藤が生じる。この葛藤を抑制するには、すでに述べたように職場にいる時間を制限する公的な仕組みを導入し、企業が自由に「職場滞在時間獲得競争」を展開することを不可能にすればよい。代償として企業はある程度の生産性の低下を受けいれなければならないかもしれない。ホックシールドも、集合的に行動することでしか問題は解決しないことを示唆している。
方針転換後のアメルコのように、魅力的な職場を提供することが難しい場合でも、家族が永続的人間関係を人質に取ることで人々がそこに参加し続けるように、企業は賃金を人質に取ることで組織への参加者を確保することができる。ただ、あまりに働く環境がひどくなった場合はどうしたらいいのだろうか。
ここでも政府・行政はひとつの解決法になる。失業時の公的な生活保障がしっかりしていれば、あえてブラックな職場にしがみつく必要もなくなる。つまり、政府は企業雇用に「勝つ」。このバランスが崩れている、つまり企業による劣悪な雇用が政府に「勝って」しまうのが日本の雇用環境の特徴だ。
そもそも現代資本主義社会で、生活保障における政府・行政の役割が重視されるようになったのは、企業が子どもや高齢者などの「依存者」を積極的にケアする役割を引き受けず、一時期は女性(社員の妻)が引き受けていたのが、共働き社会化が進む中でそうもいかなくなったことが背景にある。政府は、企業のように業績に応じてサービスを縮小する可能性が少なく、また家族以上に継続的・安定的なサービスを期待できる。また、雇用を離れた場所でも生活保障がしっかりしていれば、企業は政府との勝負に勝つために、充実した職場環境の提供に努めるようになるだろう。それがかなわない企業は、市場から消えていくことになる。スウェーデンなどの一部ヨーロッパ社会では、こういった考え方が意識されている。
もちろん話は単純ではない。政府は、家庭(家計)と企業から資金(税金)を調達しないと充実したサービスを提供できない。政府による企業活動の規制が厳しすぎれば、逆に政府は余裕のある生活保障を人々に提供できず、企業による厳しい労働環境の供給を抑えれらなくなるかもしれない。
家庭と企業と政府が、それぞれ適度なバランスをとって「競争」するような環境が実現すれば、よりよい社会を実現できるかもしれない。手探りを続けながら、私たちは変化していくしかない。本書は、多くの人が時間に余裕をもって安定した生活を送るにはどうしたらいいのかを考える上で、避けて通れない問いを突きつけている。
(A.R.ホックシールド 著 坂口緑/中野聡子/両角道代 訳『タイムバインド』(ちくま学芸文庫)解説を転載)