「自立」を良しとするがゆえに
今、社会は大きい。大きすぎると言っていいほどだ。きっと、この新聞の他の頁には、グローバル経済とか、地球規模の気候変動とか、想像するのも難しいほどに大きなものの動向が書かれているはずだ。
それに比べると、ケアは小さい。あなたのためにこの新聞をポストまで取りに行ってくれた家族の動向はあまりに小さい。
赤ん坊のおむつを替えたり、知人の個人的な相談にのったり、うまく食べられない人の口元に食事を運んだりするとき、私たちに必要なのは体育館のようなだだっ広い空間ではなく、狭くて安全な部屋だ。同じように、保育も、教育も、看護も、介護も、カウンセリングも、そして家族の間で交わされる様々なお世話も、手を伸ばせば体に触れられる距離でなされる。
ケアのこの小ささは、それが身体レベルを離れることがないことによっている。数兆円を稼ぐCEOだって、眠るためにバスケットコートのようなベッドを必要とはしないように、赤ん坊や老人の世話をするとき、あるいは心身に傷を負った人を支えるとき、身体サイズの時間と空間こそが必要だ。
だけど、この小さなケアの中には、大きな社会の矛盾や葛藤が渦巻いている。母親が子供の世話に疲れ果ててしまうとき、教師がうつになって学校から離れるとき、援助者であった人が自分の仕事と利用者を憎むようになるとき、彼らを追い詰めているのは、自身の資質ではなく、社会の歪(ゆが)みだ。
もちろん、社会がケアの中に姿を現すやり方は様々だ。ケアをめぐる制度の問題も経済構造の問題もあるだろう。だけど、いずれの場合もその根底にある核心的問題は「ケアの見えなさ」だと、私は思う。
大きな社会は、小さなケアを見失う。なぜなら、私たちの社会は「自立」を良しとし、個人が自分の足で立っていることを前提としているが、ケアとは誰かが誰かに頼り、必要なものを提供してもらうという、本質的に「依存」を原理とした営みであるからだ。
自立した人は、依存の価値を見失いやすい。誰かに依存していることを忘れるほどに依存できている状態が自立であるからだ。良き世話は感謝されない。いちいち感謝されないほどに、うまく依存をさせているのが良いケアだ。あなたが新聞を読みながら、いちいち座っている椅子に感謝しないのと同じだ。
自立を原理とする大きな社会にあって依存を原理とする小さなケアは不可視化されやすい。そして、その不可視性がケアという営みの内側に侵入するとき、ケアされている人は自分を悪い人のように感じ、ケアする人たちはむなしさに襲われる。そこでなされているケアの価値が見えなくなるからだ。
そして、そのときになって、自分を自立した人だと思っていた人たちは、足場が崩れていたことに気が付く。自分の足で立っていられたのは、ところどころに見えないほどに小さな椅子がきちんと用意されていたからなのだとようやく気付く。
「面倒を見る」という表現があるように、「見ること」はケアの根本にある。目をつけるのではなく目をかけること、監視ではなく見守ること、それがケアしている人とケアされている人を支える。ケアをケアする。
『居るのはつらいよ』は小さくて見えづらいケアを描いた本だ。そういう本に大きな社会を論ずる論壇賞をいただいたのは、小さなケアが大きな社会の問題であり、小さなケアの中に大きな社会の問題があることが「見られた」からだと思っている。=朝日新聞2020年1月22日掲載