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科学技術史とAI研究者のオーラルヒストリー

記事:春秋社

エジプトみやげを彷彿させるAIと数学
エジプトみやげを彷彿させるAIと数学

エジプト文明の始まり

 私の机の上に、ペクトナイトと思われる水色の石を削って作ったピラミッドのみやげものが置いてある。15年前に、カイロの市場で購入したものだ。このみやげものの底面正方形は歪み、上から見ると4つの三角形の不揃いで幼い子供が作ったようでほほえましいと今では思えるが、買ったときは、エジプトみやげのピラミッドにしてはあまりの不格好さに、「あんな巨大なピラミッドが建造できるのに、なんでこんな小さなピラミッドがきちんと作れないの!」とカイロの街を案内してくれていた若いエジプト考古学に不満をぶつけてしまった。すると「古代、文明が栄えた場所で、今、文明が栄えているところありますか?」と何を言っているのかという顔で考古学者に問い返された。

数学の発祥とエジプトの運命

 紀元前2500年頃クフ王の大ピラミッド建築にかかわった名もない技術者が、縄を片手で振り回しながら現代のみやげものを作る職人の前に現れ「へぇー、君は直角をちゃんとつくることも出来ないの?」とからかう姿が目に浮かぶ。古代エジプトの技術者は、縄の長さを3:4:5に内分する点に印をつけた縄を握っている。この縄で辺の長さが3:4:5の三角形をつくると直角三角形になり直角が得られる。古代エジプトでは毎年ナイル川が氾濫して土地の区画がわからなくなり土地を測量し直す必要があった。古代エジプトでは測量士は「縄を延ばす人(縄張師)」と呼ばれていた。「幾何学はエジプトに始まる」とギリシャの歴史学者ヘロドトスは述べている。

 クフ王ピラミッドの建設に関わった縄張師は、きっと相応の報酬を得て測量の仕事に誇りを感じていただろう。クフ王ピラミッドは現代日本の建設会社の専門家が見ても驚くべき精度なのだ。(*1)、一方、みやげものピラミッドを作る現代の職人は、底面の正方形の正確さなど気にしない、観光客がピラミッドだと思って買ってくれさえすればよい。石を削る仕事は糊口をしのぐものなのだろう。科学者、技術者そして職人の仕事ぶりは、その時代の権力者や国家の経済力、文明社会の影響を受ける。一つの場所に強大な権力経済力を誇る国家、文明が発展し続けた例はないといってよい。古代エジプト人は実用に関心があり、厳密な計算や数学の理論には興味がなかったと言われている。幾何学は古代エジプトで始まったが、数学としての幾何学は古代エジプトでは発展しなかった。古代エジプト王朝の滅亡とともに縄張師は消えていった。

本書が伝えるもの

 コンピュータサイエンス分野の研究者、武藤佳恭氏の2021年慶應義塾大学の最終講義を基にまとめられた本『AIとオープンソースで真贋を見る目を養う――素人の発想力・玄人の技術力』は、私にカイロでみやげものを買ったときのことを思い出させ、長い科学技術の歴史をつくってきた膨大な数の科学者、技術者たちへの思いをめぐらせる。それはこの本が、この40数年間コンピュータサイエンス、AI分野で研究と教育に取り組んできた武藤氏のオーラルヒストリーだからだ。論文執筆や研究開発の過程から、身の回りの気になること、解決のために工夫したことなど公的に記録されない様々なことが語られ、武藤氏の考え方と生きてきた時代の空気が伝わってくる。

AI研究者のオーラルヒストリー

 一AI研究者のこの40数年間のオーラルヒストリー、すなわち社会のさまざまなシステムにAIが導入され、近い将来AIが人間の知能を超えるかもしれないと言われる大きな変化が起きつつある時代の個人の記憶は、将来、科学技術の歴史のなかで、どのように扱われるのだろうと想像する。

 近未来、AIが人間を管理する世界の歴史書のなかで『「デジタル情報社会の中でAIに囲い込まれて何気なく過ごしていると、しだいに視野や発想が狭窄したり、思考をAIに乗っ取られてしまう」と警鐘を鳴らすAI研究者も一部にはいたが、多くの研究者や技術者は、理想的国家の管理体制を強化したい国家や、経済性を徹底的に追及する大企業のために技術開発に邁進した。』と引用されるかもしれない。

 あるいは、第三次大戦と地球規模の環境破壊によって人類滅亡の危機に直面したとき、AIを活用して人類滅亡を乗り越えた未来の人たちが『かつて一研究者が語った「AI技術を含む新しい技術的独創物を手に負えないフランケンシュタインにしてはいけない。そのために、私たちのなかに、未来社会のあるべき姿とそれに対する倫理観や道徳観を明確にする必要がある。」という言葉を我々は真摯に受け止めなければならない』と語るかもしれない。

 いずれにしろ、一AI研究者の言葉は、科学的根拠と数学の論理に基づいた個人のもので、その時代の同調圧力に屈した意見でも、ある集団のプロパガンダでもないものとして扱われるだろう。

(*1) 「四つの角は完全な直角だ。方位や角度を正確に得るのは現代でもなかなか困難で、どうやって算出したものかいまだに定説はない。」
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_01_idea.html

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