18世紀最大のベストセラー作家の全貌に迫る 『トマス・ペイン──『コモン・センス』と革命家の生涯』
記事:白水社
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【著者動画:Thomas Paine and the Clarion Call for American Independence】
トマス・ペインの言葉は本のページを飛び出し、読者──それどころか、世界中の人々──を魅了し、彼らの生き方や統治方法や王、神さえも変えるよう説きつけた。話したり書いたりが唯一のコミュニケーション手段だった時代に、ペインの言葉は他の追随を許さぬほど強く人々を行動に駆り立てた。生まれが変われば権利や特権も変わるということが神話にすぎないとペインの言葉は暴露した。さらに、その言葉は革命的な新概念を人々の心に植えつけた。それは人が生まれながらに平等だという概念である。
ペインの言葉は王侯貴族の宮殿や庶民の家、貧民の掘立小屋、都会や田舎に響き渡った。それは専制君主を没落させ、小作農にも権利を与え、革命を引き起こした。それは西洋世界の基本構造、歴史の方向性、人々の生き方を変えた。それは今も昔も世界中に響き渡っている。
啓蒙時代の他の哲学者──ロックやルソー、ヴォルテールなど──も知識人や教養ある政治家に訴えかけたが、トマス・ペインはあらゆる人々に訴えかけた。文字が読める人にも読めない人にも、金持ちにも貧乏人にも、貴族にも生まれの卑しい人にも。
「いったいなぜある人物は先王の息子だからといって我々を支配できるのか」を教えてくれとペインは迫った。彼は自答し、この概念は不条理だと評し、それが常識に反すると断じた。
1776年当時、ペインの言葉は異端だった。結局、神自身は王に絶対的な統治権を与えてこなかったのではないか? 王は王権が神授だと信じた。教会や聖職者もそう信じた。臣民の大部分もそう信じた。だが、トマス・ペインは違った。そして、彼の単純明快な真理を見聞した世界中の数多の一般庶民はすぐに同意した。アメリカでは、庶民が銃を取り国王の統治に反抗し想像を絶することをやってのけた。その10年後、フランス人もアメリカに続いた。その100年後、王権神授による統治は地球上から絶滅しつつあった。
アメリカ人ジョン・アダムズはこう断じた。「この30年間にトム・ペインほど世界の人々や出来事に大きな影響を与えた人物はいないだろう。したがって、この期間をペインの時代と形容しよう」と。
ジョージ・ワシントンもアダムズの意見に同意した。農夫から成る素人の軍隊がイギリス軍の追撃を逃れながらニュージャージー州を通過し、デラウェア河畔で寒さに震えていた際、ワシントンはトマス・ペインの言葉を全軍に読み聞かせるよう命じた。
その際のペインの言葉は以下のようだった。
「現在は人間の魂が試される時代である。温暖湿潤な恵まれた環境でのみ戦う兵士や愛国者ならば、現在の危機において祖国に奉仕したいとは思わないだろう。だが、(……)地獄と同様に、専制政治も易々と打倒される代物ではないのだ。(……)戦いが激しければ激しいほど、勝利も一層誉れ高きものになる」。
説教の名人のように、ペインは兵士全員の心に刺さる励ましを述べてようやく、ワシントンの軍隊は軍隊らしくなった。兵士たちは声にならない怒りを噛み締めながら、真夜中に筏で氷に覆われたデラウェア川を渡った。その夜明けに、ペインと兵士たちは銃を打ち鳴らしながらニュージャージー州トレントンに雪崩れ込み、装備に優れたドイツ人傭兵の大軍を圧倒した。それまでの数か月間、屈辱的な連戦連敗を喫していたので、トレントンの戦いでの勝利は国民全体の士気を高め、アメリカ軍は独立戦争での勝利を確信するようになった。
ジョン・アダムズは「ペインのペンの力がなければ、ワシントンの剣術も無駄だっただろう」と叫んだ。ワシントンもこれに賛成し、こう指摘した。ペインの言葉のおかげで「[イギリスからの]独立の妥当性を決めかねる」アメリカ人はほとんどいなくなった、と。
その10年後、ペインの言葉はフランスにも同様の影響を与えた。はるかに後のイギリスでもそうだった。彼はジェファソンにこう述べた。真理のなかには自明なものもあると思う。例えば、「自然法則と自然の神」は万人を平等に創造し、彼らに神聖不可侵な権利を与えたという真理だ、と。彼は自由人の世界的連帯を想像し、『人間の権利』と題した代表作でこういう権利を定義してみせた。『人間の権利』は第1部をアメリカ革命の英雄ワシントンに、第2部をフランス革命の英雄ラファイエットに捧げられた。
ペインは彼が生きた時代に最も多くの読者を獲得した政治パンフレット作家だったが、彼自身は100年以上も時代を先取りし、前代未聞の社会改革を案出、要求した。そして、その改革は現代の共和主義社会の不可欠な要素となった。その要素とは、例えば、政府の補助金や貧者用の公的住宅、無料の公的義務教育や出産前後の女性保護、全国民対象の安全保障(50歳以上の全員への政府支払いなど)だった。彼は金持ちと貧者の不平等を是正するために相続税や貴族の不動産への課税、所得への累進課税を求め、金持ちを怒らせた。さらに、彼は奴隷制や君主政の廃止も求めた。
ペインは「普通の職人になるにもある程度の才能は必要だが、王になるには人間の獣性だけがあればよい」と嘲笑した。
トマス・ペインは温かく陽気な人物で元詩人だったので、イギリスやアメリカ、フランスの最上流の人々のなかに同志を見出した。アメリカにおいて、彼はベンジャミン・フランクリンやトマス・ジェファソンと親しく付き合ったが、「独立宣言」はその影響を大いに受けている。ペインはジェイムズ・マディソンとも付き合ったが、「権利章典」もその影響を受けている。さらに、ペインは大陸会議によって閣僚に任命された。ペンシルヴァニア州は彼を市民だと承認した。ニューヨーク州はニューヨーク市の北方にある277エーカーの農地を彼に与えた。そこで彼は発明家としての才能を発揮し鉄橋を改良した。また、ペインの助力のおかげでロバート・フルトンは最初の蒸気船を開発した。
アメリカが自由で独立した国家になると、ペインはフランスに渡り、ラファイエットらリベラルな政治家と共に君主政から絶対的権力を分離し共和国フランスを樹立した。この政体はペインの『人間の権利』を基礎にしていた。
ペインは『コモン・センス』のおかげでアメリカと同程度にフランスでも高く評価されていたので、国民議会選挙に当選した。議会で彼は死刑に反対し、フランス国王ルイ16世の処刑に反対論陣を張った。それに憤慨した急進派は王族の斬首を貪欲に求めペインを投獄したので、彼はギロチン刑を待つのみとなった。ペインは刑死に直面しながら、傑作『理性の時代』の執筆に取り組んだ。この著書で彼は『コモン・センス』や『人間の権利』で擁護してきた自由の原則を宗教に応用し、宗教が君主政と同様に人々を恐怖、隷属させるための人工的な構築物だと形容した。
だが、宗教を批判したせいで、西洋人のほとんどはペインを敵視するようになった。それまでの友人や崇拝者もペインから距離をとった。敬虔なキリスト教徒はペインと彼の著作を軽蔑し拒絶した。さらに、ペインはすんでのところで暗殺を免れた。1809年、かつて「建国の父たち」全員の父とされたペインが病に斃れ72歳で亡くなった際、そのことを認識した人はごく少数だったし、それに関心を示した人はずっと少なかった。ある愚かなイギリス人がペインの遺産に侮辱の上塗りをせんと、彼の遺骨を掘り起こしイギリスに運んだが、それはそこで行方不明になった。そして、一連の火事もペインの書き物の大部分を破壊した。
だが、火事や検閲があったところで、ペインの言葉が無に帰すことはなかった。これに続くページにはトマス・ペインの言葉が再提示され、依然人間の魂が試されている。
(ハーロー・ジャイルズ・アンガー『トマス・ペイン──『コモン・センス』と革命家の生涯』所収「イントロダクション」より)