古琉球王朝の歌謡集『おもろさうし』は何をうたうのか
記事:平凡社
記事:平凡社
古琉球期16世紀頃、王府による討伐に敗れた者たちのなかに、王府の奉仕者、とくに王宮儀礼における御拝者(祀り人)となった者たちがいたと推測される。本書は、かれらが何者であり、そこで何を行っていたのか、その実態を、祭祀歌謡集『おもろさうし』所収の王宮儀礼歌を中心において考える。
史料的制約のあるなかで、より高い可能性を示すことを目指すひとつの試みである。
もう少し詳しくみていこう。古琉球では、尚真王(在位1477~1526年)による、久米島・八重山征伐や、次の尚清王の(在位1527~1555年)の大島征伐によって、中央集権的な統治が完成し、官人組織「引」(ヒキは父系親族の意)や、祭祀儀礼制度が整っていった。そのような首里城の聖域「京の内」が整備された時代における、王宮の祭祀儀礼の実態及び祭祀歌謡オモロがうたうさまざまな事柄がある。王府による討伐という、政治的な大事件の後に成立し、実行されていった古琉球期の王宮儀礼、とくに稲祭りや五穀の祭りミシキヨマその他の貢納儀礼、その一部としての儀礼歌としてのオモロは、果たして何をうたうのか。本書はそれを明らかにする試みである。
特に本書では、オモロ解釈の基礎的問題を検討し、今まで否定的な見解が多かった伊波普猷氏の解釈を妥当としたうえで(Ⅱ・Ⅲ章)、従来説とは視点を変え、久米島討伐が王宮儀礼とオモロに及ぼした影響を考える。
敗者となった、久米島のイベ(神)を祀る者たちが、ヒキ官人として主要な王宮儀礼を行ったこと、かれらをうたうオモロが『おもろさうし』の主要部分を占めていることを、史料を読み解きながら推定した。
本書を通して、現在一般的な解釈とはなってはいないが、古琉球のオモロ歌唱者をヒキ官人「勢頭」と解釈した伊波普猷氏、オモロと「ヒキ」との直接的関係をみた仲原善忠氏の視点を引き継ぎ、それら解釈の裏付けを行った。
本書で用いるのは、主に15世紀半ばの「朝鮮王朝実録琉球史料」(以下「王朝実録」)、17世紀成立の『中山世鑑』ほかの史書、18世紀の『琉球国由来記』(以下『由来記』)・『琉球国旧記』・「女官御双紙」と、『由来記』の参考資料としての久米島の旧記三史料である。
王宮儀礼の基本史料『由来記』によれば、王宮の稲祭とミシキヨマ(五穀の祭)は「物参り」と呼ばれ、これらの儀礼を行う者が官人ヒキである。ミシキヨマと稲祭の一部(西之御殿の稲祭)は、首里大アムシラレが主宰し、ヒキ官人「当・勢頭・里之子・筑登之・家来赤頭」が行った。
御唄役が巻22の、王宮の稲祭オモロをうたうのは、下庫理で行う古い型の稲祭に限られ、ここに首里大アムシラレの関与はなかった。久米島の稲祭に関する久米島の旧記「君南風由来記」の内容は、王府編纂の『由来記』のそれとは大きく異なり、久米島の古い型の稲祭儀礼と歌謡を収めるものであり、オモロ研究に大きな影響を及ぼすものである。
官人組織「ヒキ」は三司官(王府の役人機構の頂点)の支配下にあり、大島征伐の際の俘虜もここに組み入れられていた。
屋良座森碑文ほかの16世紀半ば頃の碑文は、首里城外の築造と御拝を行う家来赤頭を記録しており、かれらは、ミシキヨマや航海儀礼の御拝役として祭祀を行う者たちでもあったと考えられる。ミシキヨマもこの頃に行われていたであろう。
歌唱者(御唄役の前身)がヒキであったことを記す家譜があり、家譜の残らない多くの歌唱者についても、『由来記』勢頭役記事(ヒキの職務の人員内訳)と巻5・8の歌唱者オモロ群との対応関係がみとめられる。よって歌唱者は、防備、操船、築造・時取や占い、物参りする者、轎夫や作事(細工)たちの元締として、ヒキの「勢頭」、「引頭」と呼ばれる者であり、ヒキの周辺には奴婢的な者がいたと推測される。
伊波普猷氏は、エトオモロを戦闘のうた、労働の掛け声とし、仲原善忠氏は侍衛軍士(前ヒキ)の農歌のような唄歌として、「ヒキ」とエトオモロの関係を示唆された。
本書では、巻11(首里エト)と巻21(久米島オモロ)との間にある多数の重複オモロが、軍士・軍、築造や航海、オモロ歌唱、神降り(憑依)、カナイ(貢納)に分類され、これらが「ヒキ」の職務(Ⅰ章・Ⅱ章)と重なることを指摘した。
エトオモロとはヒキの多様な職務をうたうオモロであり、『おもろさうし』が示す、この首里エトと久米島オモロの重複は、アオリヤヘ・サスカサ・センキミなどを祀る者や、久米のコイシノ・久米のヨヨセキミなど、久米島出自の者が、首里城のヒキ官人として歌われていたことを示すものである。
王宮の稲祭には、新旧二つの型があり、首里大アムシラレ主宰の首里城西之御殿の稲祭とミシキヨマは新しい型、首里大アムシラレの関与しない、首里城正殿下庫理での稲祭は古い型であり、稲祭の儀礼歌オモロ巻22は、古い型の下庫理の稲祭で御唄役がうたった。
この稲祭りオモロにはキミテズリ百果報事オモロ群との重複があり、双方ともヒキ官人をうたうという意味で、エト的オモロであり、新旧二つの儀礼にはとくに久米島出自のヒキ官人が深く関わってことを推定した。
新しい儀礼成立の背景にあるのは里主(職田をもつ者)とその妻女(大アムシラレなどの女官)の台頭であったと思われる。
本書は久米島旧記史料に多くのページを割いて解説を試みたが、これらの旧記は討伐後の同島の祭祀状況と、仲里城按司自害後にその家来頭「堂の大や」が城主となり首里で働いたことを記している。
クミヤシマキヨの大屋(根屋)である堂の大やは、仲里城按司の築城以前の、支配者的存在であり王府軍に敗れた後は、按司の遺児の養父として仲里城按司、あるいは久米島の総地頭となった者と伝えており、イベ・アオリヤヘを祀る者として下役を従えて、ヒキ組織に入った者と考えられる。
イベ・アオリヤへ・サスカサ・オモイキミヨヨセキミを祀る者、即ち、イベを信仰する者が、「ヒキ」に属し、物参りを行う者となり、王宮の稲祭やミシキヨマを行い、オモロを唄ったのであろう。
ヒキ官人の、物参りやオモロ歌唱を含む儀礼や多様な職務をうたうオモロがエトオモロであるなら、同様に、稲祭やキミテズリオモロ群や、これまで神女オモロと呼んできたアオリヤヘ以下のものも、エト的オモロと呼んでよいだろう。
また、巻5と巻8もヒキ官人をうたうものであり、これらもやはりエト的オモロといえよう。
エトオモロは『おもろさうし』の18パーセントを占めるといわれる。さらにこれらのエト的オモロを加えればヒキ関係のオモロの割合はさらに大きくなる。これらから祭祀歌謡集『おもろさうし』の特徴として、久米島出自のヒキが重要な役割を担っていたことが挙げられる。
まだまだ謎の多い『おもろさうし』だが、その全貌を明らかにしていくために、本書が役立つことを願うばかりである。
1章 古琉球の王宮儀礼とオモロの背景
2章 歌唱者オモロ解釈の基礎的問題を中心に――ヒキ官人とエトオモロ
3章 神女オモロ論の検討
4章 古琉球における久米島出自のヒキ官人の職務とイベ信仰
5章 古琉球のヒキ官人による儀礼――稲祭・雨乞儀礼・航海儀礼ほか
6章 古琉球のキンマモン信仰・火神信仰・イベ信仰
終章 オモロとは何か