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ビュトール評論集〈レペルトワール〉は「文学の精霊」顕現の場である——第3巻までの監訳を終えて

記事:幻戯書房

ミシェル・ビュトールの著作の数々。評論集〈レペルトワール〉(全5巻)の邦訳が、2020年、幻戯書房より刊行開始され、2023年1月に第3巻が刊行。〈レペルトワール〉全巻翻訳という事業は、翻訳や論文、自身の著作を通じて作家ビュトールの仕事を紹介し続けた仏文学者・清水徹氏の偉業を継承する、フランス文学のミームと言ってよいだろう。
ミシェル・ビュトールの著作の数々。評論集〈レペルトワール〉(全5巻)の邦訳が、2020年、幻戯書房より刊行開始され、2023年1月に第3巻が刊行。〈レペルトワール〉全巻翻訳という事業は、翻訳や論文、自身の著作を通じて作家ビュトールの仕事を紹介し続けた仏文学者・清水徹氏の偉業を継承する、フランス文学のミームと言ってよいだろう。

清水徹と『心変わり』

 日本において、ミシェル・ビュトールの名は清水徹(1931- )のそれと分かちがたく結びついている。新進気鋭の作家ビュトールの小説第3作が1957年に刊行されると、全編にわたって二人称の語りを駆使したその技法が注目を集め、フランス本国で書評が続出した。清水氏がビュトールを知ったのは、そうした書評の一つだったそうである。好奇心を掻き立てられた26歳の青年は早速、原書を取り寄せて一読し、第1章の翻訳を同人雑誌に掲載したところ、河出書房新社の編集者の目に止まり、全訳の刊行が決まったのだという。こうして、1959年、La Modificationは『心変わり』として日本の読者の前に現れた。

 以後、清水氏は、小説第2作『時間割』(原書初版1956年、邦訳1964年)、『仔猿のような芸術家の肖像』(原書初版1967年、邦訳1968年)、『合い間』(原書初版1973年、邦訳1984年)等の翻訳に携わり、その過程で「どうすれば語順を尊重しまた長い息づかいを生かしたまま、その恐ろしくながい独特の文章を翻訳することができるかがわかった」(『即興演奏 ビュトール自らを語る』の訳注より)。事実、ビュトールの散文は往々にして一文が長く、セミコロン等を介し、段落分けすら超えてどこまでも続く。「日本語には句読点が二種類しかないことを補うための一手段として、終止形で終わりながら、句点ではなく読点でつぎへとつなげてゆく試みは、たぶん私がはじめてやったものだろう」(同前)。清水氏の工夫が実って、複雑な論理構造の孕む錯綜や飛躍、語彙の豊富さ、鮮やかな比喩といったビュトールの文体的特徴は、見事な日本語に移し変えられていった。

二人称小説の記念碑的作品としても知られる長編小説『心変わり』、ミステリ読者にもファンの多い『時間割』など、仏文学者・清水徹氏が果たしたミシェル・ビュトールの作品翻訳、自著の数々。精力的にビュトールの作品を翻訳、紹介し、自著でもビュトールを論じながら、都市論、書物論へと結実させていった。
二人称小説の記念碑的作品としても知られる長編小説『心変わり』、ミステリ読者にもファンの多い『時間割』など、仏文学者・清水徹氏が果たしたミシェル・ビュトールの作品翻訳、自著の数々。精力的にビュトールの作品を翻訳、紹介し、自著でもビュトールを論じながら、都市論、書物論へと結実させていった。

〈レペルトワール〉全訳企画の始まり

 しかし、その清水氏にして、「おびただしい数におよぶ彼〔ビュトール〕の著作〔…〕のなかのごく一部」しか紹介できず、「とりわけアメリカを描いた『モビール』以後の、活字配置に工夫をこらした著作はほとんど紹介することができず、それが残念でならなかった」(同前)という。言い換えれば、『絵画のなかの言葉』等の評論や、散文連作〈夢の物質〉の数編は別にして、清水氏の訳業は、全12巻のビュトール全集のうち、《長編小説(ロマン)》と題された第1巻を出られなかったのだ。この第1巻の収録作はすべて翻訳されている以上、いかに身の程を知らぬ企てになろうとも、その先に進むことが後続の者に課せられた務めであろう。

ディフェランス社より刊行されたビュトール全集(全12巻)。評論集〈レペルトワール〉は第2巻および第3巻に収められている。
ディフェランス社より刊行されたビュトール全集(全12巻)。評論集〈レペルトワール〉は第2巻および第3巻に収められている。

 その際、前出の『モビール』を含む諸巻――《土地の精霊》と題された第5巻、第6巻、第7巻、第8巻前半――は、実験的な大作が目白押しになっているだけに、真っ先に目を惹くのは確かであるが、順番としては、《レペルトワール》と題された第2巻と第3巻が先に来るべきであるに違いない。清水氏が翻訳を準備しながら断念せざるをえなかった『モビール』とは異なり、同じく清水氏を中心に全訳刊行が企画されていた評論集〈レペルトワール〉全5巻が未刊に終わったのは、1巻あたり21篇という収録数の多さ、それに伴って必然的に多くならざるをえない共訳者の原稿を期日までに揃えることの著しい困難といった物理的障害によるところが大きかったものと推測される。この種の障害が乗り越えられるかどうかは、ひとえにタイミング次第と言えるだろう。そして、かかる大がかりな企画の場合、一度逃したタイミングはそうそう戻ってこない。

華麗なるレパートリー

 1970年代後半に新潮社からの近刊が再三予告されたとおり、このタイミングで〈レペルトワール〉全巻の邦訳がなっていれば、現在よりも多くの読者に恵まれていたであろうことは想像に難くない。企画の頓挫が原著のためには悔やまれる次第だが、そのおかげで監訳者の栄誉を担うめぐりあわせとなった者として、まったく身勝手な言い方をお許しいただくなら、これほどの僥倖は考えられない。もちろん、容易ならざる企てであることは当初からわかっていたつもりだったし、全5巻中の3巻目までを出して折り返し点をすぎた今、予想を超えて大仕事になっていることをひしひしと実感している。なにしろ、一人の人間にこれだけ多様な対象が自在に論じられるというのは改めて驚くしかない。既刊分に限っても、小説論、錬金術、地理学、考古学、ジョン・ダンからセルバンテス、キェルケゴール、ドストエフスキー、ジョイス、パウンド、フォークナーに至る外国文学と来て、フランス文学に及んでは、ラブレー、ラシーヌ、ルソー、ディドロ、シャトーブリアン、バルザック、ユゴー、ヴェルヌ、プルーストといずれも大物ばかりが並ぶ壮観さ。ここに第3巻以降、抜群におもしろい美術批評が加わる。

〈レペルトワール〉の既刊I・II・IIIの目次。各巻21篇の論考からなっている。〈レペルトワール〉全巻購読者には、特典冊子『Itérologie butorienne』(ビュトールの旅学)を用意している。
〈レペルトワール〉の既刊I・II・IIIの目次。各巻21篇の論考からなっている。〈レペルトワール〉全巻購読者には、特典冊子『Itérologie butorienne』(ビュトールの旅学)を用意している。

〈レペルトワール〉全5巻は、ミニュイ社から刊行された5巻本を底本としている。全5巻のうち第3巻までを刊行。これから刊行予定の第4巻、第5巻は以上のような目次内容である。
〈レペルトワール〉全5巻は、ミニュイ社から刊行された5巻本を底本としている。全5巻のうち第3巻までを刊行。これから刊行予定の第4巻、第5巻は以上のような目次内容である。

 当然ながら、すべてを精読し、読みこなすだけでも並大抵ではない時間と労力を要する。が、それらを凌駕する喜びが与えられるのだ。正直なところ、原書で読んでいた時には、次々に移り変わる話題についていくだけでも精一杯で、個人的関心に合致するエッセイしか読み込めていなかった。その時々の注文に応じて、媒体の制約に合わせて個別に書かれたこれらのエッセイを21篇ずつまとめていくという趣向は、単行本書き下ろしの(狭義の批評ではない)「主著」と比べれば、偶然の余地が多くてどこか軽業師めいており、とはいえ派手な概念装置を振りかざすわけでもなく、全体像がつかみにくい。そんなこんなで、代表作とされながらもやや軽視されてきた(あるいは敬遠されてきた)嫌いがないでもなかったように思う。仮に事実としてそうであったならば、この上なく不当な事態と断ぜざるをえない。

過去との共作が生む“新しさ”

 1篇ごとに趣向が凝らされ、読み応えがあるのは間違いないが、それ以上に、過去の奥からやってくる「新しさへの衝迫」にビュトールが全面的に身を委ねている結果として、しばしば批評としても異例なほどに長大な引用文――それはビュトールを読みたいと思う向きには、煩わしいとすら思われかねない――が、ビュトールは当然として、原著者からさえも解き放たれて、「文学の精霊」によって語られている言葉のように思えてくる――どうしようもなく特異的な個々の歴史的存在を通じて初めて、その普遍性を表現できる「文学の精霊」によって。ビュトール本人が読みたいという向きには、美術批評が用意されている。長編小説を四作しか書かなかったビュトールにとっての真の中編小説が、文芸批評以上に純粋な形でそこにある。

 実際に、ビュトールはこれらのエッセイの多くを執筆するに当たって、まずは講演ないし講義の形で聴衆を相手に「物語って」いたのであり、その「地の文」の意味内容はおそろしく明快であって、翻訳作業の過程で最後まで不透明なままに終わる箇所が毎回ほとんどないのは、実に驚くべきである。が、ある作家がかつて言ったように、明快であることと平易であることとは異なる。時として拍子抜けするほど「当たり前」に思われることをまっすぐ言葉にする勇気を備えていたビュトールのような書き手の場合、とりわけ彼の作品に慣れ親しんでいない間は、この両者の混同を犯しがちで、平易な文章のつもりで明快な文章に当たると、文体に乗り損なって原意を外してしまう。監訳者としては、そうした「逸脱」の調整に多くの時間を要しているものの、それはまた、誤読を明快さへと解きほぐす愉悦でもある。

ビュトール『レペルトワールIII[1968]』収録「七面体ヘリオトロープ」の本文の一部。色囲み部分は本論で論じられるアンドレ・ブルトンの作品からの引用文である。ビュトールの地の文は、読点やダーシを用いて、何段落にもわたり、引用文を自由に挟み込みながら、時にはページをまたぎ、織り上げるように展開されていく。夥しい数のブルトンの引用は、ブルトンをそこに召喚し、ブルトンをして読者に語らせるかのようである。「文学の精霊」を召喚する、教育者ビュトールの姿勢がうかがえる。
ビュトール『レペルトワールIII[1968]』収録「七面体ヘリオトロープ」の本文の一部。色囲み部分は本論で論じられるアンドレ・ブルトンの作品からの引用文である。ビュトールの地の文は、読点やダーシを用いて、何段落にもわたり、引用文を自由に挟み込みながら、時にはページをまたぎ、織り上げるように展開されていく。夥しい数のブルトンの引用は、ブルトンをそこに召喚し、ブルトンをして読者に語らせるかのようである。「文学の精霊」を召喚する、教育者ビュトールの姿勢がうかがえる。

 だが、そうして全体を見渡す監訳者の目に入る真に驚くべき事態は、ばらばらに書かれたはずのエッセイが対象の年代順に配置される時、一巻ごとに異なった構成原理を発揮する点にある。ビュトールと過去の作家たちの共作によって、彼らが思ってもみなかったなにかが、確かに一書として生成している。極めつきにスリリングなこの読書体験を、一人でも多くの読者に味わっていただきたいと思う。


ミシェル・ビュトール〈レペルトワール〉全五巻の購読者には、監訳者らが翻訳する特典冊子『Itérologie butorienne』(ビュトールの旅学)を差しあげる予定です。詳しくは幻戯書房news、小社直販部の案内をご覧ください。

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