誰も奪えない、何も失くさない/わたしの心地よい身体
記事:明石書店
記事:明石書店
いつからだったか、太った、痩せたと言うのをやめた。
正月に実家へ帰り、たらふく食べていたら東京に戻ってから身体が重い。コロナ禍でしばらく続いた筋トレ時代、乗り気にならなくてもとりあえず運動してみたあとのさーんとした爽快感を思う。たいてい続かないたちなのであの時代がいつ終わってしまったのかは忘れた、でももう一回やってみてもいいかな、とぼんやり考える。
正月帰省最後の日、京都で友だちと会いそんな話をすると、うんうん、そうなんだとその人は肯定も否定もしなかった。わたしがなんとなく、痩せたいとかっていうよりね、運動をしたときの身体の気持ちよさを味わいたいんだと言ってみると、「うん、見た目はどうでもいいよ」ときっぱりとした口調の返事があった。あまりにきっぱりとしていたので、内心わたしは少し驚いて(というのは、ほかの友人に話すとき、こんなふうに返してもらったことがなかったからだ)、一呼吸おいて、地に足がつくような感じがした。わたしがどういう思いで一言付け足したのかその人はわかっていて、そこにある言葉にならなさを拭うようにきっぱりと、大丈夫だよと態度で伝えてくれた。健康になりたいよね、とわたしたちは言う。なんか、強くもなりたいよね、とその人が言う。小さい頃のチドにも、こんな友だちがいたらどうだっただろう。
『ダイエットはやめた』は、ナチュラルサイズモデルやYouTuberとして活躍するパク・イスル(チド)が、「この世で一番の外見至上主義だった」自分から「ダイエットをやめた」現在まで、どんな苦しみや葛藤があったのか、どんな悲しさを抱え、どんな癒しと希望を経験したのかを、親しみやすい筆致で書き記したエッセイだ。加えて、わたしたちにかけられたとても強力な呪いについての本でもある。「痩せている」ことがよしとされるメインストリーム文化に触れ続けたわたしたちにとって、ダイエットをやめることはけっして楽な選択じゃない。苦しみながらその選択をしてきたチドは、みんなにダイエットをやめなさいと言うのではない。そうではなく、彼女自身の「劣等感の歴史」と、なかったことにしてきた違和感の存在を受けとめ、それらを生んだ呪いをどう解こうとしてきたのか、その闘いの過程を分かち合ってくれるのだ。
YouTubeやInstagram、電車内にあふれるダイエットや脱毛・スキンケアの広告は、たいてい「そうすれば○○が喜ぶ/そうしなければ幻滅される」というオチ付きなのでうんざりする。いつからかわたしが自分の身体について太った、痩せたと言えなくなったのは、自分がいったい誰の機嫌を伺っているのかがわからなくなったからだ。太るも痩せるも、ある一つの基準がなければそもそも概念として存在しない。けれど、その基準を作ったのはわたしだっただろうか。違うと思う。顔のないその人は、ほんとうに、いったい誰なんだろう。答えはそもそも人じゃない。資本主義とか、そんなもののような気がする。
誰かと自分の「美しさ」を比べる目をチドがまだ持たなかった頃、久しぶりに会った大人が彼女にこう言った。「あら、見ない間になんでこんなに太ったの?」「痩せていた子がなぜこのようになってしまったのか」「食を少し減らすべきだ」。たった11歳だったチドは心臓がばくばくして、生まれて初めて自分の身体を「恥ずかしいと感じた」。恥は恐れになり、恐れは強迫観念になって、チドは他者に対しても自分に対しても見た目評論をやめられなくなる。
のちに両親に対して、過去にかれらの発言によって自分が傷ついたこと、そうした幼い頃からの見た目に対する評価が、長く自分を「不十分」だと思う理由となっていたことを打ち明けたとき、両親は自分の子どもを苦しめたことを悲しみ、どこか気まずそうにしたという。その気まずさは、かれら自身も順応してきた「美の基準」──それに準じないものを軽んじてよいとする許可証付きの──が隠し持つ、するどい刃に気づいた者たちが陥る混乱のようなものだろう。その後友人たちにも摂食障害だったこと、ダイエットへの強迫観念があることを話すと、驚いたことに、同じ経験をしている友人が何人も、何人もいた。そこでチドは、母も父も友だちも、そして彼女自身も、同じ一つの虚像に取り憑かれていたのだとはっとする。
ダイエットをやめてからも、チドはまた別の暗黙の基準にさらされ(プラスサイズモデルになるためには「もっと太らないとインパクトがない」etc.)、自分のなかから思いがけず飛び出してくる恐れにおののきながら(愛されなかったら? 結婚できなかったら?)、次々と挑戦を続けていく。YouTubeへの動画投稿や「サイズ差別のないファッションショー」の開催。
これ以上、私の体がからかいと恥ずかしさの対象になることを許さない。
それは彼女の、彼女による、彼女のための決意だ。そしてその決意が「わたしたち」の勇気へとつながることを、彼女はのちに知るようにもなる。
わたしたちは今やっと、大文字の社会が提示する一元的な美の基準や、それを求めない者は「怠惰」だとレッテルを貼るような、脅迫めいたメディアのありようを批判できるようになってきた。少しずつ呪いから覚めて、わたしはわたしのいちばん心地よい身体で生きたいと思う。まだ、どんなふうかはっきりとは分からないけれど、それはわたしの、わたしによる、わたしのための願いだ。ほかの誰のためでもなく。自分の身体から目を逸らしたいような日はある。でも、美しいと感じる日だってちゃんとある。そうだ、あるようになってきた。自分の身体を、いつもそんなふうに見つめられたらどんなに自由だろう。わたしもチドのように、自分を愛するために闘いたい。わたしが決める「心地よい身体」の感覚を、誰も奪うことはできないから。