破局のなかで私たちの生を問い続けるために:デュピュイ『カタストロフか生か』(西山雄二さん・評)
記事:明石書店
記事:明石書店
「破局」や「大惨事」を表す「カタストロフ」の語源はギリシア語に遡り、その含意は「転覆」「転倒」である。「土台をひっくり返す」というその意味合いから、カタストロフは、物語の劇的な終末を告知する決定的な転換を示す演劇用語として広く用いられた。2020年以来進行している新型コロナウイルスの世界的流行は、まさにカタストロフと呼ぶべき事象だ。私たちの日常生活が一変し、あたりまえのささやかな行動さえもが制限されたり禁止されたりしているからだ。この先にもっと酷い終末的局面を迎えるのではないか、ウイルスの世界的流行はその先触れとしての転換ではないか。数々の行動制限やワクチン接種が効果を発揮しているとはいえ、私たちは結末の見えない脚本のなかに放り込まれて舞台上を彷徨う役者のようだ。
ジャン=ピエール・デュピュイは、斬新な破局論を展開していることで知られるフランスの哲学者だ。理工科学校(エコール・ポリテクニーク)で学んだデュピュイは理系の素養を身につけており、科学的知見に裏打ちされた高度な哲学的思索を積み重ねてきた。日本ではとりわけ、2011年の東日本大震災と原発事故のあとに彼の著作が広く読まれるようになった。カタストロフに関する哲学的考察として、『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳、岩波書店、2011年)、『ありえないことが現実になるとき――賢明な破局論にむけて』(桑田光平/本田貴久訳、筑摩書房、2020[2012]年)が日本語に訳されており、破局的出来事を経験した私たちに思想的な指針を与えてくれた。ほかにも邦訳書は多く、ルネ・ジラールの思想に関する研究として『物の地獄――ルネ・ジラールと経済の論理』(ポール・デュムシェルとの共著、織田年和/富永茂樹訳、法政大学出版局、1990年)、『ジラールと悪の問題』(ミシェル・ドゥギーとの共編、古田幸男/秋枝茂夫/小池健男訳、法政大学出版局、1986年)、市場万能主義に陥った経済活動を批判した『経済の未来――世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳、以文社、2013年)、文明批判の書として『聖なるものの刻印――科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修/森元庸介/渡名喜庸哲訳、以文社、2014年)などが訳されている。
本書は、新型コロナウイルスの感染拡大に際して、デュピュイが執筆した断章的な文章群である。各章には日付が付されており、2020年5月から12月までの思索日記となっている。ちょうどヨーロッパで第一波のピークが訪れ、各地で厳しい外出制限や隔離政策がとられた時期である。フランス語原著の副題は「パンデミックについての断想」となっているが、まさに日々移り変わる情勢のなかで、異なる主題についての思索が綴られている。この時期、医学や公衆衛生の分野だけでなく、多くの人文学者も感染症拡大による文明的な危機や人間社会の激変を論じた。感染症に迅速かつ実効的な対策をとるために、政治や医療の観点から多くの議論が費やされたが、人文知もまた、ウイルス時代の人間のあり方を考えるための有効な手段となったのだ。ヨーロッパの人文学者たちがこの時期に公刊したテクストに関しては、拙編『いま言葉で息をするために――ウイルス時代の人文知』(勁草書房、2021年)にまとめたことがある。カタストロフについて洞察を深めてきたデュピュイの分析は大変興味深く、今回の日本語訳の刊行をまず喜びたい。渡名喜庸哲が若手研究者と連携して練り上げた訳文は大変読みやすく、長文の訳者解題は実に有益である。
タイトルが示すように、本書では感染症の世界的流行という「カタストロフ」と「生」が論じられている。カタストロフはこの場合、「死」と言ってもよく、破局的状況における生と死が主題となっている。破局が引き起こす死からいかに生を守るべきか。医療的手段が限られていて、すべての命を救えない場合、生の選別をどう考えればいいのか。感染対策によって社会的生活が著しく制限され、ただ単に生き長らえる状態が生じてしまうが、そうした生とはいかなるものだろうか。そもそも、死から守られる生とはいったい何なのか。デュピュイは公衆衛生における生の倫理の考察だけでなく、生物学的な生の本質論にまで思索をめぐらせている。
日本語訳では、本書の趣旨を明瞭に伝えるために、副題が「パンデミックについての断想」から「コロナ懐疑主義批判」となっている。実際、本書の文章はコロナ禍に関する断想であるだけでなく、強烈な批判の調子に満ちている。批判の的となっているのが、「コロナ懐疑主義」と呼ばれる考え方だ。懐疑主義者らは、感染症が拡大している最中にもかかわらず、眼前のカタストロフの重大さを過小評価したり、そもそも信じようとしない。感染症への公衆衛生行政、経済活動の制限、厳格な医療対策などが疑問視され、十分な社会的効果に見合ったものかどうかが問われる。そんな言説が流布する事態にデュピュイは唖然とし、批判を繰り出しているのだ。これほど厳しい対策をとれば、感染症による死者よりも、経済的貧困によってより多くの死者が出るのではないか、という言説はたしかに日本でも溢れていた。
デュピュイは、大衆の漠然とした猜疑心ならまだしも、教養ある「知識人」がこうした懐疑の声を堂々と上げていることに批判の矛先を向ける。たとえば、ジョルジョ・アガンベンは、厳しい隔離政策によって例外状態をつくりだす統治権力をめぐって、社会的生活を奪われた「剥き出しの生」しか残されない状況を批判している(『私たちはどこにいるのか?──政治としてのエピデミック』高桑和巳訳、青土社、2021年)。あるいは、本書でたびたび指弾されている哲学者アンドレ・コント=スポンヴィルは、新型コロナウイルスによる致死率は低いのだから、これほど大げさな政治的・経済的対策を講じる必要はあるのか、と喧伝する。これら「コロナ懐疑主義者」をデュピュイは酷評しており、「無知」「盲目」「愚か」といった形容を用いたり、アメリカのドナルド・トランプ大統領とその支持者のような極右勢力と同列にさえ見なしている。
「コロナ懐疑主義」に対してデュピュイがかくも批判するのは、単に社会批評的な立場によるものではなく、この懐疑論が彼の思想の核心に抵触するからだ。本書でも彼独自の「賢明な破局論」の主張が明快に提示されている。デュピュイの破局論において、不幸の預言者は逆説的な立場に置かれる。預言者は破局が確実に到来することを予告しつつも、この未来が実現しないようにしようとする。予言が確実であるがゆえにこそ、人々は破局を予防する行動に駆り立てられる。本書の表現にならえば、「自己無効型の預言」だ。預言者は予言が外れることで威信を失うが、人々の生命が少しでも救われたことに納得するのだ。デュピュイの考え方に対して、破局論者は確実に到来する大惨事という側面しかみないし、逆に、反破局論者は、これまで通り人間は上手く切り抜けられるはずだという楽観論しか持ち合わせていない。デュピュイの破局論はより繊細な理路に基づいて、私たちの知性と行動に訴えかけるのである。
本書でデュピュイは自らの「賢明な破局論」を再検討している。予言されることなく、コロナ禍はすでに起こってしまっており、彼は破局的状況の渦中で破局論を練り直さなければならなくなったからだ。本書の結尾で示されるのは、ニアミスと少数派の事例だ。予測されていた大惨事が起こらなかった場合、予測自体が間違っていたと考えるのではなく、間一髪で助かったのだと心に留めておく。こうしたニアミスの考え方から、私たちは適度な緊張感を持って破局に備えることができる。そうした意識を持ち続けられる人々は少数派かもしれない。だが、少数派の預言を受け入れられる社会こそが、破局に対する抵抗力を持つことができるのだ。
デュピュイは、すでに破局のなかに完全に浸っている状態で破局論が妥当性を持ち得るのか、と内省的に問う。思い返してみると、それは私たちの経験でもあった。2011年、予期せぬ東日本大震災が起こったあと、破局的状態が続くなかで、多くの日本の読者が彼の「賢明な破局論」と出会った。こうした経験を踏まえれば、未来への予言ではなく、忘れ去られてしまう過去の記憶と想起が重要になる。
コロナに限らず、破局的出来事に対する懐疑主義の誘惑は大きい。もう悲劇的局面は過ぎ去ったのだから、そこまでしなくてもいいのではないか、日常を取り戻そう、と思いたくなる。ただカタストロフが収束して生が回復することに安堵するだけでなく、カタストロフと生を同時に思考し続ける粘り強い姿勢も必要だ。本書でデュピュイが示しているのは、こうした真摯な姿勢と思考にほかならない。