旧統一教会問題であらためて問われる「カルト」:『オウム真理教の精神史』は「カルト」の発生源たる近代の闇を暴く
記事:春秋社
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ずいぶん前のことではあるが、筆者にもかつて大学時代というものがあった。右も左もわからないぴかぴかの新入生の私は、入学式のあと、新入生向けのオリエンテーションまで時間があったので、キャンパスを見学がてらぶらぶら歩いていて、突然声をかけられた。「生きていて空しくありませんか?」。私が「いや、別に空しくありませんけど」と言うと、「でも、人間は絶対に死ぬんですよ。空しいじゃないですか」と食いさがってくる。少しイラッとして「空しくなんかありませんよ」、相手は「いや空しいはずだ」と押し問答になり、しばらくすると相手は呆れたように、「あなたには用はありません!」と捨て台詞(?)を吐いて、唖然とする私を置いて、すたすたと歩き去っていった。
「カルト」とか「宗教」と聞くと、どうしても思いだしてしまう記憶である。もちろん当時から大学の宗教系サークルは問題視され、「気をつけろ」と注意は受けていた。当時私がとくに名をあげて注意を呼びかけられたのは、原理研究会(統一教会)と歎異抄研究会だった。
しかし注意されていても、その後も宗教団体に関わらずにいることはできなかった。統一教会のビデオセンターにも連れていかれたし、高価な印鑑を売りつけられそうにもなったし、「聖書に興味はありませんか」とアパートを訪ねてくる年輩の女性と話をすることにもなった。最寄り駅の近くで、結構ハンサムな外国人の青年に、「英会話に興味ありませんか」と声をかけられたこともある。無料で英会話を楽しめるサークルがあるといい、パンフレットをくれたので裏返すと、下のほうに、アメリカ発祥のキリスト教系宗教団体の名前が書いてあった。これはなかなかうまい作戦だなと感心したものである。
いわずもがなであるが、「カルト」と呼ばれるような宗教団体はしばしば社会と軋轢を起こす。それは最近問題になっているように、多額の寄付や献金を求められることかもしれないし、家族が家に戻ってこなくなることかもしれない。あるいは「輸血拒否問題」や「合同結婚式」のように、その団体の教義や行動が(非科学的というより)反科学的だったり、一般社会の通念に反していることかもしれない。
しかし宗教団体が起こした軋轢の極北がオウム真理教事件であることはまちがいない。1995年の地下鉄サリン事件だけでも13人の死者と6000人以上の負傷者を出した。松本サリン事件は死者8人と負傷者約600人、さらに坂本弁護士一家殺害事件で家族3人が殺され、そのほかの信者や関係者の殺害を加えると、いったい何人が犠牲になったのかわからない。しかもサリンやVXといった化学兵器を製造し、機関銃の生産を試みるなど、規模も反社会性も類例を見ないものである。私の学生時代にあんなに有名だった統一教会は、90年代のはじめこそ芸能人の合同結婚式などで衆目を集めたが、オウム事件以後はすっかり影が薄くなり、先日の安倍元首相殺害事件まで、正直、名前を聞くことすらなくなっていたと思う。
本稿で紹介する『オウム真理教の精神史』は、そんなオウム真理教事件がなぜ起きたのか、その背景を探る著作である。ただし、オウム真理教という個別の教団の成立史や思想の変遷ではなく、いわば世界史的な視点からオウムへ至る流れをとらえようとするので、その分析はオウムという一宗教団体をはるかに超えた射程を持っている。
本書の最大の特徴は、「カルト」の発生を近代社会のありかたそのものに見る点にある。近代主権国家という疑似宗教が成立したことによって、西欧社会の基盤をなしていたキリスト教が骨抜きにされ、信仰は「私的で主観的な次元のものに矮小化」(p.44)させられた。しかし近代主権国家という疑似宗教は「死」を排除する(ないし「剥き出しのまま放置」する)ことしかできず、「他者の死を記念し、その生を引き継ぐこと、すなわち他者=死者との「つながり」のなかで生きること」(p.227)という人々の根本的で切実な宗教的欲求には応えられない。そのため排除された死の問題は幻想をまとって回帰し、ロマン主義、全体主義、原理主義といった思想潮流を生み、その結果、「私的な妄想と区別のつかないさまざまな「宗教」が、数多く発生・繁茂するという傾向を生じた」(p.45)というのである。
ロマン主義は「本当の自分」という生死を超えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに「強固で緊密な共同体」を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される「神との結びつき」を求めることによって生み出される幻想なのである(p.277)
こう述べると、本書の分析は、西洋の「カルト」やキリスト教系の宗教団体にはあてはまっても、仏教やインド思想をベースに教義をつくりあげてきたオウム真理教にはあてはまらないのではないかと感じるかもしれない。ところが、オウム真理教の成立史を調べると、教祖は正統な仏教やインド思想を研究・修行したわけではない。彼が読んでいたのは「一般に「オカルト」と見なされるような書物」あるいは「ニューエイジ思想、そして日本の精神世界論に属する書物」(p.48)にすぎなかった。
そして本書が、近代の黎明から現代へとつづく3つの思想潮流を丹念に追っていくうちに、西洋のロマン主義の流れのなかで、心理学者ユングや神智学そのほかが、ヨーガや梵我一如の思想に関心を持ち、積極的にとり入れようとした事実などが示されると、オウムのいかにも東洋的と見えた要素はむしろ、東洋思想をとりこんだ西洋近代の宗教思想のありかたを、日本という東洋の集団が内面化したものと考えたほうがよいとわかってくるのである。
加えて、オウムは超人類によるユートピア国家の樹立をもくろみ、ハルマゲドンを誘発しようとしたとされる。ハルマゲドンはもちろんキリスト教の原理主義的な終末論に由来するし、「最終解脱者が率いる超人類による国家建設」という発想は、本書のオビにも引用されているアドルフ・ヒトラーの超人思想とも軌を一にするものだ。
天地創造は終わっていない。少なくとも人間という生物に関するかぎり終わっていない。人間は超克されねばならぬものである。人間が神になる。人間は生成途上の神である。……(ヒトラーの言葉、p.152より)
かくして神智学からニューエイジや精神世界と呼ばれた宗教潮流と、ナチズムをはじめとする全体主義にひそむ超人思想やユートピア主義、キリスト教原理主義の聖書無謬説(さらに聖書無誤説)と終末論の強調など、近代思想の大きな流れがオウム真理教に向かって収斂し、その過程で、宗教哲学の祖シュライアマハーから、トランスパーソナル心理学、近隣住民との対立から戦争に備えて武器を備蓄し、さらにサルモネラ菌を散布するに及ぶなど、規模こそ小さいがオウム事件そっくりの軌跡をたどったラジニーシの教団、ハルマゲドン幻想にとりつかれ、アメリカ政府と壮絶な銃撃戦をくりひろげて壊滅したブランチ・ダビディアンなどが紹介され、あたかも近現代の宗教的事件を一望しているような壮観さを示すのである。
本書の多くの部分はオウム事件に至る近代の宗教思想の潮流の解説で占められ、オウム真理教とオウム事件の経緯については第5章に簡潔にまとめられるだけである。が、この章は実に濃密であり、オウム真理教事件の全容をつかむに適切であるだけでなく、一気に読むと、ふしぎな高揚感をおぼえるものだ。それはオウム真理教の活動期間は約10年にすぎないのに、「オウムが展開した活動の多様さ」や「発揮された熱量の大きさ」(p.275)が凝縮されているからだろう。事の善悪を別にすれば、まさに時代を駆け抜けた観がある。
オウム関連事件のほとんどは1995年以前のことだし、2018年7月に事件関係者13人が一斉に処刑されたこともあって、多くの人にはすでに過去の出来事という感覚があるかもしれない。若い人だと、そもそもオウム真理教も事件も知らないということもあるだろう。しかし本書を読めば、オウム事件がいかに日本社会を震撼させたか、社会的事件としてだけでなく、思想的にも人々の心を揺すぶったか、を体感していただけるはずであるし、何よりも近代社会が内包する「カルト」を生みだす構造的欠陥について、考察を深めていただくことができる。これは現在の「カルト」問題についても重要な分析の視座を与えてくれるに違いない。
なお、本書が復刊するにあたって、初版刊行後に判明した事実について触れた「12年後の追記」が増補された。オウム真理教の裏の教団組織について、坂本弁護士殺害事件に対する警察の捜査がなぜ緩慢であったかについて、そして公安組織の活動の不可解さについての考察である。ここで紹介するには紙数が足りないが、きわめて重要な問題を含んでおり、ぜひお読みいただいて、「カルト」や宗教団体の問題に対処するにはどのような方針が必要か、あらためて考えていただければと思う。
(文・春秋社編集部)