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特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー後編「この日本という国では『やめる』という決定を誰もできない。撤退ができない国なんです」

記事:平凡社

坂本龍一さん(2013年5月撮影) 撮影:榎本佳嗣
坂本龍一さん(2013年5月撮影) 撮影:榎本佳嗣

【前編はこちらから】特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」

震災のことは、一日も忘れたことはない

――東日本大震災からすこし時間が経って(インタビュー時は2013年)、社会が平熱に戻った感じがします。被災地では、被災地だからこそ「ようやく震災や原発のことは考えず穏やかに過ごせる時間が増えた」という方もいるようですね。

坂本:うーん……。僕は、忘れるという感じはまったくありません。

――時間が経つにつれて、ふだんの暮らしと「変えていかなくちゃ」という気持ちとをどう両立させていくのかが大切なテーマだと考えるようになってきました。安倍政権に代わってから「原発を動かそう」というムードが強まっていますよね。けれど「どんなふうに暮らしていけば、おなじことを二度と起こさないですむのか」「仕事や生活のなかでできることってなんだろう」と考えている人は多いと思います。

坂本:僕はニューヨークに住んでいて日本にいない時間も長いわけですが、震災のことを一日も忘れたことはありません。こんなことをいうと「余裕があっていい気なものだ」といわれるかもしれないですが……、やっぱり頭からは離れないですよ。

福島の原発事故は、まるで傷口から血が流れつづけているような感覚

坂本:その理由は、ひとつには福島の原発事故がいまだにつづいているから。地震、津波というのはある短い時間に起こった災害でしょう。だけど福島の事故は処理ができず、いまもつづいている。これって人間の身体でいえば、なにか事故に遭ってケガをして、2年経ってもまだ血が流れつづけているような感じなんですよね、生身の感覚としては。だから痛いわけです。傷の処置ができていないから、ずっと痛い。血も出ている。どんどん悪くなっていきますよね、ふつうなら。

――そうですね。身体が傷ついてしまったような感覚はあります。たとえば汚染水のニュースだけを聞いていても、状況は悪くなっていっていて。

坂本:専門家でも「ああなっちゃった(使用済の燃料棒がメルトダウン、メルトスルーしている)以上、そもそも廃炉にするのがむずかしいんだ」という人だっています。

 そもそも「廃炉」というのは、事故を起こさずに役目を終えた原子炉を、廃棄物やいろんなものに考慮してなるべく環境中に放射能が出ないようにしながら、きちんと手順を踏んで解体する、埋める、ということでしょう。ところが福島第一では核燃料がいまも燃えていて、どこにあるかもわからない。そんな状態の原発の廃炉は、これまで人類は経験していないわけでしょう。だから、廃炉は不可能なんだ、と。

原発や改憲にNOという世論と、進めようとする安倍政権とのズレ

――それでも、日本政府は今後も原発を使いつづけようとしています。

坂本:ケガをして血が流れているのに、さらにケガの原因になりそうなことを始めるようなものでしょう。それなのに再稼働だとか原発輸出だとかいっている政権に移行してしまったわけで、これは不幸な状況です。

 憲法についてだってそうです。新聞の世論調査でも、7割ほどの国民は「改憲しないほうがいい」と答えている。けれど「改憲するぞ」といっている現政権(第2次安倍内閣)を支持している人が多い。これは理屈からいうと理解できないですよね。

――個別の課題についてのみんなの思いと、与党の政策とにズレがある。原発というテーマをとりだして質問すると、「できれば動かしたくない」と考えている人が多い。

坂本:2012年12月の総選挙で安倍政権になったあとにも、大手の新聞が調査をとっていましたが、7〜8割の人が脱原発を望んでいる。この3年間、その割合はずっと変わりません。選択肢は「いますぐやめる」とか、「10年後にやめる」、「25年後にやめる」などといろいろ幅はありますけれども。

 放射能はこわいし、原発はないほうがいい。そう思っている人が社会の7〜8割いる。いっぽうで「再稼働するぞ」といっている政権を支持する人が過半数なわけです。これは僕にはちょっと理解不能ですね。そういうズレは起こるんだろうな、というのはわかりますけど、理屈にはあわないでしょう。理屈にあわない状況に理屈でかえしても、うまくいかない気もします。

大衆、国民、生活者、消費者――呼び名は変わっても人間の本質は変わらない

坂本:というのは、2012年に亡くなってしまったけれど、吉本隆明さん(日本の思想家。坂本さんとの共著に『音楽機械論』。作家吉本ばななさんの父でもある)を僕は10代のときから好きでよく読んでいたんです。第二次世界大戦中、ふつうの日本人男性が兵隊にとられて戦いにいって、たくさん死んで、ある者は生きのびる。それが終戦を迎えると、きのうまでとは180度転換して軍の支給物資を平気でどんどん自分のリュックサックに詰めて故郷に帰ってしまう。

 それは理屈にあわないわけですよね。きのうまで「天皇陛下のために死ぬ覚悟です」といっていた人たちが、きょうはもう自分と家族のために軍のものを略奪する。「だけどそれが大衆の原像なんだ」と吉本さんはずっとしつこく書いています。僕のなかでは吉本さんのいうこの「大衆の原像」が大きく残っていて、原発についての世論と政権のズレを考えていると、それを思い出します。

 そのとき吉本さんが書いていた「大衆」といまの日本国民とがおなじだとは限らなくて、すこし質の違うものなのかもしれない。けれど、いつの時代になっても生活している人間というのはそういうものなのかもしれません。呼びかたは大衆だったり、国民だったり、生活者だったり、消費者だったりと変わっていきますけれど。

――そうですね。人間の本質が数十年でそんなに変わるとはあまり思えません。

坂本:理屈で勝ったり負けたりしているのは、知識人とか批評家とか学者とかそういう人たちであって、生活している人にはそんなこと関係ない。だから原発事故を忘れたかのように生活しているおおかたの人たちを見ても、非難する気にはなれません。

人間だって自然の一部なのに、都会にはそれを実感できる場所がない

坂本:東京には、人が木を植えた場所はあっても、自然とふれあえるところってあまりないでしょう。自分も自然の一部だ、と感じられるような環境がほぼない。だから人間が「自分は自然とは違うものなんだ」と錯覚してしまう。

(編集註:都心では貴重な、長い年月をかけて育てた樹々とふれあえる場所として、神宮外苑の保全を坂本さんは亡くなる直前まで小池百合子都知事や永岡桂子文部科学大臣らに向けて訴えました)

――そうですね。都会では、自然は「別物」というか、隔たりがある。

坂本:いってみれば自分たちで檻(オリ)をつくって、その中に閉じこもっているわけです。その檻はとてもエネルギーを食うから、そこで暮らすにはじゃぶじゃぶエネルギーを使うことになる。なのに都会の人間の多くは「檻の中がいい。ここに住んでいたい」と思っていて「この檻にエネルギーが供給されないような事態になると非常に困る、やめてくれ」というわけなんです。

 だから、事故以前まで、原発が供給していた電力っていうのは多いときでも全体の25%くらいなのに、どうしても「原発はないと困る」と思いたがる。人工的な環境がそうさせるんでしょうか。都会人のほうがエネルギーについては保守的ですよ。何々が止まったら嫌だとか、そんなことばかり考えていて。

――街には電力を使う施設があふれています。都会には、山や浜や海のような電力のない空間がほとんどないんですよね。

マッチョな成長を目指す男性に「原発推進」が多いのは理解できます

――地域差のほかに、性差による反応の違いもあるかもしれません。電力や原発についての態度を見ていると、男性のほうがやや右寄り、保守傾向が強いような。ジャーナリストの津田大介さんが「ツイッターで原発の話をしたときに過剰に反論してくる人の95%は男性」と話していて。

坂本:日本というのは世界で唯一、核攻撃を受けた国で、大きなキノコ雲を見ているわけですよね。だからあの戦争中に生きていた人も、それから戦後生まれの僕たちにも、あのキノコ雲というものがすごく大きな恐怖やあらがえない力の象徴として頭に焼きついているんです。

――原子力産業に携わる人たち、高速増殖炉もんじゅを扱っているJAEA(日本原子力研究開発機構)の人たちを見ていると、原爆を落とされた歴史がコンプレックスとして根源にあって、それが「原子力を自分たちのものにしたい」というモチベーションになっているんじゃないか、と思うときがあります。

坂本:そのとおりじゃないですか。力の象徴なんですよ。あのキノコ雲によって軍事的には骨抜きにされたわけです。もう抵抗できない力でやられてしまった。

――まさに見せつけられた。原爆の使用は終戦のために本当に必要だったのか。そこには議論の余地があります。日本に対してだけでなく、アメリカ国内に向けて、また他の列強に向けても圧倒的な新しい破壊力を見せつけた核兵器使用だったともいえますよね。

坂本:言葉は悪いですけれども、国民全体がレイプされたような状態になった。でも、それから経済成長を遂げて復興していくときに、その象徴が逆に自分たちに力をつけてくれるような錯覚におちいる。だから「Atoms for Peace(アトムズ・フォー・ピース 原子力の平和利用)」という言葉はほんとうにうまくできています。軍事力としての核ではなくて、これから経済力としての核を自分たちは持つんだ、と。ファルス的な象徴なんだと思うんです、キノコ雲ってファルスの象徴ですから。

――たしかにそのイメージはあるかもしれません。

坂本:そういうマッチョな成長をめざす男性のほうに「原発を推進しなければ」という傾向があらわれるのは、よく理解できるんです。

失敗ばかりでも原子力の無謬性を信じる姿は、カルトのよう

――そうですね。高速増殖炉の研究をしている方たちにもんじゅについてたずねると、あれだけうまくいっていないにもかかわらず少年のように目を輝かせて話をしてくれるんですよ。ほんとうにポジティブに、ナイーブに、原子力の善良さと無限の可能性を信じている方が多い。

坂本:ふしぎですよね。あれだけ失敗しているのにまだ信じているというのは、ちょっとカルトっぽいですよ。

――はい、宗教的だと思います。そう考えると「原子力ムラ」とひとつにくくると見えなくなるものがあるんじゃないでしょうか。原子力の研究者、経産省、電力会社、プラントメーカー(三菱重工や東芝など)……それぞれの立場や行動原理はちょっとずつ違うはずです。

 原子力を発電の「手段」として持たされている電力会社やそれをすすめてきた経産省なんかは、しかたなくなりゆきや体面で原発をやっているところもある。本音では「こんなもの損するからやめたい」という気持ちもなきにしもあらずだと思います。かつて「核燃料サイクル計画はもうやめよう」という会合が両者のあいだで開かれたという事実もありますから。でも研究者には、原子力の無謬性をピュアに信じている人が多い。

悪い情報が隠されているから、「原発は必要」と思い込まされてしまう

坂本:小出裕章さん(工学者、元京都大学原子炉実験所助教。原子力発電に異議を唱える)でさえ当初は「夢のエネルギー源だ」と思って原子力の世界に入ったそうですから、その気持ちはわからなくはない。一般の人が「いや、よいエネルギーなんだ。事故さえなければ」と思うのはしかたのない面もあります。でもそれは、やっぱり情報が少ないからですよ。悪い面がずっと隠されてきて、ちゃんとインフォームドされていないんだから。

――いま実際には、日本では原発はほとんど動いていないけれども生活は成り立っています。そのことはあまり強調されていません。冬がくれば「原発なしでは冬を乗りきれない」、夏がくれば「夏を乗りきれない」といわれ、そんなことをなんどもくりかえしていますがその都度乗りきっています。だけど「乗りきった」という報道はさらっと終わってしまうから、「乗りきれない」という事前警告だけが印象に残るんです。

坂本:SNSなんかを見ると、いまだに「原発がないと電気がなくなっちゃう」と思っている人がいるみたいです。ふしぎですよね。

――そういう人はたくさんいると思います。たとえば物理学者さんでも「原発いらないんですか。じゃあ、江戸時代レベルの暮らしに戻ってもいいんですか」なんて極端な発言をする人がいます。日本に原発ができたのって1960年代終わりの話だから、もし脱原発で単純に時代が後退するとしてもそれはせいぜい1960年代だと思うんですけれど。無邪気なのか、意図的にミスリードを誘っているのか、ちょっとわかりません。

坂本:僕はもう、そういう意見はまったく見ていません。人を批判するならもうちょっと情報を得てからいってほしいなぁ、と思います。

――ただ、積極的に情報を探さないかぎり「原発がなくても電力は足りている」という報道にふれる機会はとても少ないんです。たとえニュースになっても一回きりで、扱いも小さい。それにくらべて震災直後の「原発が止まって電気が足りない!」という騒ぎは強烈でしたから、そのときに植えつけられたイメージが呪いのように解けないままの人もたくさんいる。

(編集註:2023年4月10日現在、資源エネルギー庁の発表によると、日本にある全60基の原発のうち、廃炉・廃止が決まっているものが24基で、稼働しているのは8基のみです)

1950年代の日本の原発導入には、アメリカの意志も大きく関わっていた

――原発をやめるには、けっきょく政治が決めるしかない。決定がさきに立たないと、個別の政策もそう変わりません。菅直人さん(第94代 内閣総理大臣。東日本大震災発生時に総理大臣で、原発事故の当初対応にあたった)にインタビューしたときに印象的だったのは「民主党の惨敗を反省するとともに、7〜8割が脱原発を望んでいるのにその受け皿を政治の側が用意できなかったのが問題だと思っている」という言葉です。あれだけの事故がいまも進行中で一種の緊急事態なわけですから、原発についての政策だけでも党を超えて議論されるといいんですが……。どうすれば政治的に「やめる」という判断がなされるのか、わかりません。

坂本:1950年代に原発が日本に導入されたときもそうですけど、こんな事故を起こしてもまだやめられていないってことを考えると、日本国の意志だけじゃむりなんじゃないかとも思えてきます。だって、導入したときは日本の意志じゃなくて、アメリカの意志ですから。

「主権の日」に出席された天皇皇后両陛下のお姿、おいたわしく感じた

――正力松太郎(政治家、アメリカCIAの協力者として知られる。元読売新聞社社主、元日本テレビ代表取締役社長、読売ジャイアンツ創立者)という人がいて、さまざまな政治工作があって。

坂本:アイゼンハワー(第34代アメリカ大統領)の意志でしょう。いまもかんたんには足抜けできないのは、日本が一国としては決められない立場なのかな、と思います。

 このあいだ「主権回復の日」(2013年に第2次安倍内閣が、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効に基づいて制定した記念日。1945年の終戦以降、停止していた日本の主権が沖縄を除いて回復した日であり、沖縄にとっては「屈辱の日」でもある。これを記念日とすることに対しては沖縄県内から多数の反対意見が表明されていた)という式典があったそうで、おいたわしいことに天皇皇后両陛下が駆りだされて……、沖縄の基地を見ていたら、ぜんぜん主権やなんかは回復していないんですよ。原子力政策もそうなんじゃないですか。日本が「嫌だ」といっても、親分が「やめてもいいよ」といわないかぎりはどうもやめられないんじゃないかな。だんだんとそう思えてきたんですけれども。

「やめる」ことを決められない国、日本

――さきほど戦争の話が出ました。太平洋戦争当時、国の上層部にいて政治をとりおこなっていた人たちはとても優柔不断だったんじゃないかと思います。負け戦だと本音ではわかっている、でも建前があるから「戦争をやめる」という決断ができない、責任をとりたくない、だから終戦をどんどんさきのばしにして損害が拡大する……。原爆が落とされるかなりまえから「戦局は厳しい」ということを陸軍も海軍も外務省も認識していたのに、だれもそれを天皇に奏上できなくて決められなかった。

 これは原発をやめられない現状と似ているように思うんです。福島で事故が起きて、原子力政策が失敗だったのはわかっているのに「ここまで投資してきたから、ここでやめたらもったいない」とサンクコスト(撤退しても回収できない、すでに投下したコスト)に気をとられて、政治も経産省も電力会社も決断できない。このふたつの構図は似ています。

坂本:すでに「やる」と決まったことについて、この国では「やめる」という決定をだれもできないんですよ。撤退ができない。だから、全滅するまでまえにすすんでいっちゃうんですね。

 これはちょっと悲劇ですよね。このまますすんでいったら水に落っこっちゃうとわかっていても突きすすんでいくネズミの群れがあるそうですけど、そういうもののような……。ちゃんと自分自身もふくめて国民全体のことを考えている指導者なら「ここはもうひきかえそう」とか「違う道をいこう」といわなきゃいけないはずです。だけど、そういう指導者がいない。不幸です。

 だから戦争中も、意地でも「撤退」といわないで「転進」といったりするんですよね。でもね、べつに「転進」でもいいですよ。言葉を代えてそれで犠牲がすくなくなるならそっちのほうがいいでしょう。(編集註:太平洋戦争において、日本軍は戦況が悪くなり逃げることを「転進」といいかえた)

――そうですね、原発もそんな感じですね。

坂本:だから、原発も「廃炉」が嫌ならなにか言葉を考えて(笑)。

――あたらしい、響きのよい名前を(笑)。

坂本:そうそう。原子力ムラが納得しやすい、受け入れやすいような言葉を考えて「こうしましょう」って。それですむんならそれでいいと思います。

やっぱり政策に影響をあたえることはできる、それが民主主義だと思う

――高速増殖炉のもんじゅもうまくいかないのは目に見えているので、なにかほかの目的のための研究炉にする、みたいな案がときどき出ます。いちばんいいのは廃炉だけれど、世間体のためにそれができないのなら研究炉でもなんでもいいから呼び名を変えて、ちゃんと予算や人員も減らして、じわじわとフェードアウトしていくのでもいい。

坂本:直接かかわってきた人たちが、正直に「うまくいかないからやめる」とはいいにくいでしょうね。自分たちの人生をかけてきちゃったし、情熱もお金もかけてきたし。だからこそ、やはり外からの力でやめさせてあげないと。その力は政治の決断なのかもしれませんし、あるいは日本が民主主義国家だというのなら、市民の声、国民の声で「もうやめていいよ」と肩をたたいてあげるやさしさが必要ですよね。

――はい。外発的な理由がないと決められないだろうから、みんながすこしずつソフトな外圧になっていく。ひとりひとりが圧力をかける。

坂本:ええ。だから、2012年の3月からはじまった官邸前の抗議は、もちろんいまでもつづいていますけど、あれは効果がなかったわけじゃない。安全点検ならとっくにすんでいるはずの原発が、2012年、2013年を通して福井の大飯原発2基しか再稼働できなかったのは、その民の声がきいているからということがあるでしょう。だから、やっぱり政策に影響をあたえることはできる、それが民主主義だと思います。

――菅さんも、あの抗議は霞が関・永田町ですごくきいていて、あれで変わってきた部分もあるとおっしゃっていました。「だから、やっている人たちは自信を持ってつづけてほしい」と。

NO NUKESフェスには、音楽の好きな若い人たちが集まってくれた

――坂本さんの呼びかけで脱原発をテーマにした音楽フェス、NO NUKES 2012とNO NUKES 2013が開催されました。

 2度とも参加させていただきましたが、第1回では会場に入るまえにすこし緊張していたんです。というのは、まだまだ原発の話って日常生活ではしにくいでしょう。だから、脱原発でフェスってほんとに大丈夫なのかなって。

 それが幕張メッセに着いて驚きに変わりました。思っていた以上にいい意味でごくふつうの、音楽の好きな若い人たちがたくさんきていた。「原発って嫌だよね」って思っててもみんなふだんはなかなかいえないし、いうにしたって軽い緊張を強いられる。それがあの場では自然に口に出せていて、自由な空気がありました。

坂本:うん。若い人たちが反応してくれましたね。

――2度やって、手ごたえに変化は感じましたか?

坂本:うーん、やっぱり2012年12月の衆院選総選挙で、社会全体の空気がちょっとひんやりしたかもしれない。それは感じます。でも癪だから、ちゃんと「僕らの(脱原発への)勢いはぜんぜん衰えてない」っていうのをこれからも見せたい。

 2013年は、いろんな人がいろんな場所で多発的にっていうやりかたを採ったんです。「坂本龍一が声をかけたから集まろう」じゃなくて「自分たちで主体的にやってくれ」と発破をかけたの。それで夏には難波章浩君(ミュージシャン。Hi-STANDARD、NAMBA69のボーカル、ベース)が中心になって、渋谷でも。

 なのでどうしても、去年にくらべるとひとつひとつの規模はちいさくなっちゃう。

――第1回は会場も幕張メッセでしたし、季節も夏だったのでいかにも「フェス!」って感じがありましたね。

坂本:そうそう。それとくらべて「去年はあれだけ盛りあがったのにね」って印象を持たれると癪だから、もう2014年のことを考えてる。みんな合同でおおきくやろうと(笑)。

――ドーンと(笑)。

坂本:そうそう。ちゃんと派手にぶちあげよう、と。

――いいですね。

脱原発のフェスの目標は、こんなフェスやらなくてもいい社会をつくること

坂本:2度目のフェスを開いた2013年3月9日、10日というのはほかでもたくさん集会がありましたから、それもあって分散して規模が小さく見えたと思います。そのわりにはたくさんの方にきていただけました。

――あのフェスではその場でその時間を楽しむとともに、みんななにかを日常生活へ持って帰っている。そういう実りが確実にあると思います。

 またそれとはべつに、よのなかに対して盛りあがり感を発信するってことも大切ですよね。「みんなこんなにNO NUKESって思ってるよ!」とアピールすることも目的のひとつ。

坂本:うん。集まったミュージシャンみんなで、打ちあげの席で話しあったんだけど、NO NUKESのフェスは「このフェスがなくなること」自体がテーマなんだよね。こんなことやらなくてもいい社会をつくるのが目標。だから、ほんとうはもう来年だってやりたくない。

――ああ、そうですね。脱原発が達成されていれば、わざわざ「NO NUKES!!」というためのイベントもいらない。

坂本:そうなんですよ。だからみんなで「このフェスって変だよね」「フェスがなくなることがゴールなんだから」って話してた。

――ふつうのフェスならはずっとつづいていくことをめざすけれど、その逆。

坂本:やらなくてよくなったらみんなで「万歳!」という。そういうフェスなんですよ。

――ちょっとふしぎですね。僕も、もんじゅ自身の廃炉を願って活動してますから。さっさと廃炉になれたら、こんなふうに活動しなくていいんです。

坂本:ちょっと似てますよね。

――そうですね、僕の廃炉もなかなか決まらないですけど(苦笑)。

(編集註:この後、高速増殖炉もんじゅは2016年12月に原子力関係閣僚会議で廃止措置への移行が決定され、2022年10月には廃炉の第1段階である燃料棒の取り出しが完了している)

震災後に生まれたコミュニティ

坂本:震災後のひとつの動きとして、人が地方へ移動してそこであたらしいコミュニティができている、というのがあるんじゃないかな。福島から避難した方々が日本各地にいるわけでしょう。そして地元の人たちと交流して、生活全般にかかわるコミュニティができていく。北海道とか九州とか、いろいろなところにできつつあるみたいですね。

――そうですね。福島からは人数でいえば山形への避難がいちばん多いそうです。でも、かなり遠くへ引っ越す方もいますし。福島からにかぎらず、東北・関東エリアから西のほうへ移住したという人もいますよね。

坂本:出身の違う人たちが出会って、いろいろなテーマについて意見をかわす。そこには食、住、男性と女性の役割、性、子育て、それから教育……、さまざまな問題が出てくるわけです。

 原発事故というネガティブな理由で移住するわけですが、あたらしい土地で暮らしだすと生活全般にわたるいろいろな問題が浮かびあがってきて、そこに人と人との結びつきが生まれてくる。避難のことなので「おもしろい」とはいいにくいですが、この変化自体はとてもおもしろいことですよね。

――希望を感じる変化ですね。

地方移住、帰農など、20世紀末からあった流れが、原発事故で加速した

――避難や引っ越しによって、暮らし全体をいやがおうでも見なおすことになる。そこで孤立せずにコミュニティができていくことには、なんというか、人の強さを感じます。

坂本:それがこれからどういうムーブメントになっていくのか、興味を持って見ています。福島から福岡に避難した、亀山ののこさんという女性カメラマンがいるんです。彼女は『100人の母たち』(南方新社、2012年)という写真集を撮りおろしていて、会ってみると彼女のまわりには地元の人との輪ができつつある。

――すごくきれいな写真集ですよね、どのお母さんもいい顔で。

坂本:そう。ほかにも、福島で農業をやっていたけれども札幌に避難して、現地の有機栽培農家といっしょに食の研究所のような場所をつくった人がいたり。

――あんざい果樹園さんの「たべるとくらしの研究所」ですね。

坂本:そんなふうにさまざまなひろがりがある。個別に見ると、避難のためにやむをえずそういう活動をすることになったわけですよね。だけど20世紀の終わりから帰農する若者がすこしずつ増えていたり、地域に根ざすあらたなコミュニティをつくろうという動きがあった。これはそのおおきな流れの延長上にあるんだと思うんです。

 残念ながら原発事故という理由のためではあるけれど、2011年以降、比較的おおきな人の移動があったことで、その流れがいっそう目立ってきているんじゃないかな。

タンポポの綿毛のように、変化はふわりと広がっていく

――そうかもしれませんね。東北だけではなく、関東からも移住した人はそれなりにいるようです。たとえば震災をきっかけに東京から長崎の五島列島に移った美容師さんにお話を聞いたことがあります。お子さんが小さいので放射能のことも心配だったし、震災であらわになったいろんな矛盾にもう我慢ができなくなったと。手に職があるから月の半分は東京で仕事して、半分は地方で過ごして。

 思いきって家族全員で引っ越してみると、現地には震災をきっかけに移住してきた人たちがほかにもいて、そのなかにはデザイナーとか写真家とかライターとか、クリエイティブ系の仕事をしている人もけっこう多いそうなんです。能登半島に移住した人、小豆島に移住した人からもおなじような話を聞きました。

坂本:ああ、そういう職業で引っ越した人は多いですよね。

――志向の違いもあるでしょうが、フリーランスなら仕事場所に融通がきくというのがおおきいんでしょうね。会社員や公務員だとなかなかそうはいかない。(編集註:2019年からの新型コロナ流行により、リモートワークが一般化。現在では大都市の企業に在籍したまま地方に移住するオフィスワーカーやエンジニアさんもいます)

 たいへんなこともあるはずだけど、あたらしい土地で出会って情報交換をして、地域の名産品をリプロデュースしたり、お店のロゴや商品のパッケージをデザインしたり、移住者だからできることがあるそうなんです。いきいきしてます。

 外からやってきたり、いちど都会に出てから地元に帰ってきたりすると、地元の人が見過ごしてしまうその土地の魅力にも気がつきやすいかもしれません。そんなふうに、いろんな人たちがタンポポの綿毛のようにふわりふわりとあちこちへ飛んでいって、めいめい降り立った場所であたらしい花を咲かせているような印象があります。

スローフードのはじまりは、チェルノブイリから

坂本:金曜日の官邸前抗議というのは有名になりましたね。けれど、ああいう場所にはいかないけれども実際に(東北・関東から)引っ越しちゃったり、いま話したようなコミュニティが各地にできていたりと、「声は上げないけれど行動そのものが意思表示になっている人たち」というのがけっこういるみたいなんです。

――生活そのものを変えてしまったわけですね。

坂本:そうそう。暮らしを変えてしまった人はずいぶん多いみたい。

――デモみたいないわゆる活動っぽい活動も必要ですが、じつはそういうこと(移住や転職など)がいちばん根源的だしきくのかもしれませんね。

 世界的なムーブメントである「スローフード」という考えかたがありますよね。ファストフードの反対で、時間をかけることをいとわず、伝統的な食べ方や地場の食材を大切にする。あれはイタリアからはじまったものですけれど、きっかけはチェルノブイリだったと聞きます。

 原発事故で食料が汚染されると、野菜、肉、乳製品……口にするものすべてについて「これはどこからきたものなのか?」と気にしなくちゃいけなくなる。そうすると、どこか遠くで大量につくって運ばれてきた安い食材を買うんじゃなくて、目の届く地域のなかでつくって食べるってことがシンプルですごい安全保障だった、とわかるわけですよね。地産地消やスローフード、トレーサビリティといった発想のルーツには、そういう切実さがあると思います。

 いま日本もそういう変わり目にある気がします。食の安心というものの価値、それに払うべきコストというのが、事故によってはっきりしてしまいました。もちろん、以前から輸入食材などについては問題視されていましたが。(編集註:2011年、原発事故のために日本では一部の水道水や野菜から放射性セシウムなどが検出され、大きな問題となった)

坂本:うん。生活者、消費者といわれる僕たちのほうが、永田町にいる人たちなんかよりもずっと、食のこともそうだし、いろんな社会の問題をよくわかっているんじゃないかな。

原発事故で、生活を変えざるをえなかった人がおおぜいいる

坂本:ああいう(原発事故という)外からの力で生活を変えなきゃいけない人たちがこれだけたくさん出たっていうのは、たぶん戦争以来のことでしょう。痛ましいことだけれど、こういう事態が起こって気がつくことがたくさんある。住む場所が変わって、あたらしい土地であたらしい人間関係ができて、人から助けられるような場面もたくさんあって……。そういう経験をとおしていろいろな知識や知恵が身についていっていますよね。

――避難、移住、出荷制限、除染、外で遊べない……、そういう具体的な被害を受けなかった人でも、震災直後のあの3月に「このまま日本はどうなってしまうんだろう」というリアルな恐怖を味わったこと自体が、ひとつのおおきな経験なんだと思います。あんな事故は起こらないほうがよかったに決まっているけれど、起こってしまった以上、それ以前とはなにかが変わってくる。

 食だけじゃなくって、エネルギーについても意識は変わってきていますよね。これまで電気って使うばっかりで、どこからくるのか、どこでどうやってつくられているのか、みんな気にしていなかったと思うんです。

坂本:震災以前はそうでしたね。

――それが、事故のあとからエネルギーの市民ファンドに出資する人が増えています。家庭での太陽光パネルの設置も増えました。ふつうの人が電気を「使う」だけじゃなくて「つくる」側にまわっているんですよね。

 太陽光だったり風力だったり、市民ファンドでお金を集めて発電所をつくる例は2000年代に入ってから全国でじわじわと増えてきていたんです。それが震災後にいっきに関心が高まって出資が集まるようになった。また、これまでは市民ファンドというと太陽光と風力が多かったんですが、最近では種類がひろがって小水力発電もスタートしています。

住民の安全がないがしろにされた原発事故に、地方の首長は怒っている

坂本:永田町の政治家ではなく、より生活者にちかいところにいる地方の首長さんたちが集まって、脱原発の会議をやっていますよね。

――「脱原発をめざす首長会議」ですね。加盟している全国の市長さんや町長さんがどんどん増えています。

坂本:僕も「more trees」の活動で地方にいくことがよくありますが(編集註:more treesは、坂本さんが代表を務めた森林保全団体。東日本大震災では岩手の地元木材を活用した仮設住宅の費用を負担するなど、被災地支援活動も行なっていた)、ほぼみんなそうですね。more treesで出会う地方の首長さんって、市長、町長、村長、みんな「脱原発だ」という。原発事故にたいへん怒っているんです。

 住民の安全というものに責任を負う立場の人たちだから、福島でそれがないがしろにされていることに対してものすごく腹を立てている。新潟県の泉田裕彦知事もそうで、原子力規制庁へいってカンカンに怒っていたでしょう。ああいう感覚ですよね。ほんとうに怒っている人は多いですよ。

――事故が起きた2011年の夏ごろかな、ネット上で見ていると、東京など都市部在住の人には「なんで避難しないんだ」と福島に住みつづけている人に対してやや怒ってるというか、責めるような意見も見られました。「子どもがかわいそう」「親はなに考えているんだ」って。

 それも理屈ではわかるんです。でも、たとえば僕の暮らす福井みたいな地方に生まれて、そこで育って大人になって、いちど仕事を得てしまうと、もう外にいくことってなかなか考えられない。住まいも職業も流動的な都市部とは、バックボーンも行動原理も違うんです。

地元の自然が壊される痛みを、政治家や官僚はわかっているのか

――都会に住んでいる人って、かなりの割合でよそから引っ越してきているでしょう。職業だってそれほど土地に密着していない。エンプロイアビリティ(雇用される能力)が高いというか、よそにいって履歴書を見せて面接を受けて「はいどうぞ。あすからきてください」っていわれて中途入社もできる。だから、なにか環境に問題が発生したら「外に出る」という選択肢が「あり」なんですよね。

 でも農業とか漁業とか、地方自治体の役場とか、地場の工場とかで働いてきた人にとっては、そのハードルってとても高いんです。

坂本:地方というのは一次産業(農業・漁業・林業)の比率がおおきい。そういう職業の人たちは、自然が壊されるとつぎの日からもう食い扶持がなくなります。耕す土地がなくなる、あるいは牛も飼えない、そしたら生きる糧がなくなるわけですから、どうやって暮らしていくんだ、という話でしょう。

――仕事が成り立たなくなるのにくわえて、アイデンティティが壊されるような感覚もあるんじゃないでしょうか。

 いなかに長く暮らしていると、地域の風景と自分とがすごく密接になるんです。ここが自分の土地、あれは自分の山、自分の海……っていう感覚があるんですよね。お年寄りになればなるほど、風景とアイデンティティとが一体化している人は多い気がします。

 その景色を見るだけで心がほっとする。反面、それが傷つけられたり、もう元に戻らないということになると、自分自身が損なわれたような気にさえなる。悲しいんです。

坂本:それは地方の行政の人たちもよくわかっていますね。首長さんや役所の人は、ずっと一次産業にたずさわる人たちと接してきたわけですから。身体感覚としてそういう痛みをともに感じているんじゃないのかな。でもそれは、永田町や霞が関の人にはわからないみたいですね。

原発事故を小さく見せたい気持ちがあるんでしょう

――失ったものはお金ではとりもどせない。けれど、せめてまとまった生活再建費用だけでも出ればいいのにと思います。

坂本:移転費用を出すなんていうのは、ほんとうはあたりまえのことなのにね。いくら日本が狭いといったって、何十万人くらいなら移動できますよ。

 なぜやらないのか。それには事故をちいさく見せたいという気持ちもあるんでしょう。

――事故は「不可抗力だった」って言葉は、ずるいですね。

坂本:責任をとりたくない、責任をとったらそれは罪を認めることなんだ、という理屈だよね。

――そうですよね。この態度がいまの日本の「原発をやめるという決断ができない」状態にもつながっています。

坂本:うん、決断ということは責任をとるということだから。そうすると、そもそもそういう事態をひきおこした者の責任を認めることになりますからね。だからやらないんだろうけど、はがゆいね。これが、さきほど話していた「日本はいちどはじめたらひきかえせない国だ」ってことにもつながる。

――何かを「やめる」というのは、過去の方針を間違いだったと認めること。それができるようにならきゃ変われない。先ほども坂本さんがおっしゃっていたように、日本が本当に民主主義国家だというのなら、市民の声、国民の声で「もう原発はやめていいんだよ」と政治や自治体、電力会社などの肩をたたいてあげることが必要なんですね。 (了)



坂本龍一さんの好きな音楽と本についてたっぷり語って下さった【前編】はこちらからお読みいただけます



註:インタビューは2013年に行われており、当時の情報をもとにしています。書籍からWEB原稿に改めるにあたり、漢数字を算用数字に改め、10年が経ち意味が伝わりづらくなっている用語については一部補うなど修正を加えました。

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