なぜこんな旋律が浮かぶんだろう——。
これまで数えきれないほど繰り返した自問の先には、坂本龍一さんがいる。私はずっと、坂本さん——教授——の虜だ。
ピアノを習っていた姉がファンで、子どものころから生活の中に教授の音楽があった。シンプルで美しく、作品はジャンル分けできないほど幅広い。自らの想像力の枠外にいる人を天才と呼ぶのなら、教授は私が最初に出会った、そして今なお頂きにいる天才だ。
最新アルバム「async」のキャッチコピーは「あまりに好きすぎて 誰にも聴かせたくなかった」だが、私も教授のことが好きすぎて、これまで彼に関する原稿を書いたことがなかった。どの時代の、どの思いを切り取ればいいのか分からないからだ。しかし、本コラムの「大好きだった——音楽編」という企画趣旨を考えれば、教授を外すわけにはいかない。
大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の公開が四歳のときで、アカデミー賞作曲賞を受賞した「ラストエンペラー」が八歳のとき。我が家に初めてCDラジカセがやってきたのは、確か小学低学年だったか。音楽、読書、お笑い——私はエンタメの基本を姉から学んだが、姉の部屋から流れてくる教授の音楽を聴きながら、あれこれ考え事をするのが好きだった。野球をしているときや自転車に乗っているときも、自然と頭の中にメロディーが流れた。
中学一年生のある日に、初めて買ったCDも当然、教授のアルバムだ。「戦メリ」のゴールドディスクがほしくて一生懸命お小遣いを貯めたのだが、緊張していたせいか間違って「Esperanto」を買ってしまった。今はよく聴いているが、当時の私には難解なアルバムで、泣いて悔しがった。そして、父親に「このアルバム、めっちゃいいから買い取って」と強引に交渉し、父が小銭入れから出してくれた硬貨をかき集めて、再びレコード店に走ったのだった。
私はこれまでに十一作の小説を発表しているが、作品ごとにテーマ曲を決めている。執筆中、その曲を繰り返し聴きながら自分の世界に入っていくのが習慣で、つい最近、十一あるテーマ曲を並べて驚いた。
教授の曲が一つもないのだ。
今さら気づくのも間抜けな話だが、これは結構ショックだった。そして丸一日、仕事もしないで理由を考えた結果「小説の執筆は非日常への旅で、教授の音楽は私にとってあまりに日常的だからではないか」という単純な答えにたどり着いた。虚構の世界で疲れ果てた私を、冴えない現実に連れ戻してくれる——教授の音楽には、そんな薬みたいな効能があり、もう心身の奥深くまで染みついているのだと実感した。
数々の傑作を生み出した背景には、小学五年生のときから学び始めた作曲の音楽理論があるのはもちろん、YMOに代表されるように、常にテクノロジーを先取りしてきたこと、鋭い美的感覚、いち早く取り組んだ環境問題、飽きっぽい性格など複数の要素が相互作用していると思われる。中でも読書家であることは大きい。だからこそ教授の作品には、テーマに対する深い思考がある。
先述のアルバム「async」は、同期全盛の時代に非同期を表現している。旋律の中にさまざまな音が独立して存在し、融合せずに収斂するという十四曲を八年かけてつくり上げた。雨の日に頭からバケツをかぶって雨音を録音したり、ヴァイオリンの弓でシンバルを奏でたり、ひたすら音を採集し続ける教授の姿を映像で観て、頭が下がる思いだった。
幼少からずっと憧れている人が六十代になった今も真剣に創作と向き合っている。これほどのお手本があるだろうか。私が新作の冒頭の一文を書くのに未だ緊張するのは、紛れもなく坂本龍一の影響だ。