国家暴力を問う米軍「慰安婦」とその闘い ——『韓国・基地村の米軍「慰安婦」』訳者解説より
記事:明石書店
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本書は、基地村で米軍「慰安婦」として生きてきた金貞子さんが、長年基地村女性たちを献身的にサポートし、厚い信頼関係を築いてきた活動家の金賢善さんと二人で韓国の各地にある基地村を訪ねながら交わした対話で構成されている。ロードムービーのようにそれぞれの基地村での経験を語っていく証言のスタイルと語りの中に滲んでいる口振り、ため息、泣き声は、読む側も旅に同行しているような感覚に導く。
疎外されてきた彼女の声を聴くためには、彼女の経験を貫通していた時代(戦争と冷戦、軍事同盟)と性搾取を支えた社会システム(階級問題、家父長性主義)が、私たちの日常とどのような関係性を持つのか、彼女の抑圧を不可視化させてきた(いる)社会的規範に対する問いかけから始めなければならない。
「慰安婦」と聞くと、多くの人々は日本軍「慰安婦」を思い浮かべるだろう。米軍「慰安婦」という名称は、韓国政府が1950年代から1980年代まで基地村女性たちを指して使っていた用語である。1957年に制定された「伝染病予防法施行令」の性病健康診断を規定している第四条の条項の中に「慰安婦」が明記され、米軍を相手にする女性を指す用語として使われた。しかし、1990年代に日本軍「慰安婦」問題が本格的に提起されてから、「慰安婦」という言葉は日本軍「慰安婦」被害者を指すようになった。本書の証言者も、基地村の女性たちは米軍の「慰安婦」であり、米軍の「慰安婦」制度が実在したことを主張している。実際、アメリカと韓国政府の基地村に対する介入と統制の実態は様々な資料と研究によって明らかにされてきた。
世界的に認知されている日本軍「慰安婦」の問題に反して、米軍「慰安婦」の問題は多くの人々にとって馴染みのない問題である。基地村の女性の存在について知っていたとしても、彼女たちは貞操観念を持たず、自発的に体を売っている紊乱な女性たちだと見なされてきた。すなわち、国家暴力としての「慰安婦」は、日本植民地支配だけに存在したことだと見なされていた。「洋公主」「洋カルボ」のような基地村女性たちに対する蔑視的な名称は、彼女たちに対する韓国社会の認識体系を表している。こうした表現を使うことで、彼女たちが受ける被害は彼女たちの責任として転嫁されてきた。
日本の植民地支配から解放後、米軍の占領ともに駐韓米軍基地の周辺には米軍を相手に飲食を提供するや基地村が形成された。朝鮮戦争中は、韓国政府の主導のもと韓国軍「慰安所」とUN軍「慰安所」が運営され、朝鮮戦争以降はUN軍「慰安所」だけが制度化された。
1950年後半までは、アメリカ当局の持続的な要請にもかかわらず、韓国政府は基地村の女性に対する強力的な措置を取っていなかったために、米軍が直接基地村への統制と管理に介入した。しかし1960年代以降、軍事クーデターで執権した朴正照政権は不安定な政権維持のためにアメリカの支持と米軍の駐屯を必須と見なし、莫大な予算を投入して米軍「慰安婦」制度を体系化していった。米軍「慰安婦」政策の主要内容は、「慰安婦」に対する公式的な許可と登録、「愛国教育」による「慰安婦」の動員、性病管理の強化と性病管理所(落検者収容所)の設置であった。1969年「ニクソン・ドクトリン」による駐韓米軍の減縮を引き止めるために、朴正照政権は「基地村浄化事業」を実施し、基地村の女性に対する統制を一層強化していった。基地村の女性たちに対する教育と落検者収容所の運営は1990年代まで続いた。
本書が韓国で出版された翌年の2014年、122人の米軍「慰安婦」原告たちと「基地村女性人権連帯」、セウムト、国家賠償訴訟共同弁護人団が韓国政府を相手に国家損害賠償請求訴訟を起こした。訴訟対象として原告たちが最初に考えたのは、性の購買者である米軍であったが、その共謀者が韓国政府だったことから、韓国政府に対する賠償訴訟から始めることになった。原告たちは、一、国家が基地村を醸成し管理・運営したこと、二、性売買の取締りを免除し不法行為を放置したこと、三、組織的で暴力的な性病管理を行なったこと、四、「愛国教育」を通した性売買を正当化・醸成した行為が原告たちの人権を侵害したことから国家の責任を求めた。
2017年1月20日、一審の判決がソウル地裁で下された。一審では、1977年の旧「伝染病予防法の施行規則」が施行されるまで「組織的で暴力的に性病を管理したこと」だけを国家の責任とし、当時強制的に隔離された女性たちだけに限定して賠償が命じられた。1977年の旧「伝染病予防法施行規則」の前までの国家主導の性病検診と強制治療だけが法的根拠のない措置として判断されたのである。被害の範囲を強制収容とそれによる精神的被害だけに限定し、国家の責任を過小する判決であったことから、原告たちは控訴した。
2018年2月8日、控訴審の判決が下された。二審のソウル高等裁判所の判決では、一審の判決で一部認めた組織的・暴力的な性病管理と定義する範囲を拡張し、一審より国家の責任を幅広く認めた。判決では、旧「伝染病予防法施行規則」に制定された以降も、性病の疑いがあるだけで医療診断のない人を強制的に隔離収容所に収容した措置は、公務員が守るべき人権尊重の義務に違反し、客観的な正当性がなかったという点から違法と判断した。そして、二審の判決では、一審で否定された基地村の醸成・管理・運営と性売買の正当化・助長に対する国家の責任も認められた。公務員が「愛国教育」を実施し、アパートの建設や老後保障などの噓の約束をして原告たちを騙したこと、また外国軍の士気を高め、外貨獲得を積極的に追求したという点から、基地村の運営、管理全般に渡って国家が性売買の助長・正当化行為を行っていたことが認められた。しかし、原告は二審の一部の敗訴判決に不服とし、最高裁に上告した。二審判決では、公務員の「不法行為の放置」については原告の陳述だけでは認められないと棄却され、「国家の保護義務の違反に対する主張」に関しては、原告は積極的に国家に保護要請しなかったとして認められなかった。また、この判決は時期によって被害の軽重を区分した内容であり、一部の原告たちは「国家の強制性病治療と違法的な隔離収容において原告たちの被害は同一である」と強く批判した。
2022年9月29日、最高裁の判決が確定した。最高裁の判決では、基地村における性売買の運営、管理に対する国家責任と国家による女性への人権侵害が初めて公認されたこと、原告たちの被害経験が信頼できる証拠として認められたこと、普遍的な人権の価値の確認と国家責任を明らかにしたことに大きな意義を持つ。何より、「自発/強制」という二分法を超えて性売買が人間の尊厳性を侵害する構造であり、そうした重大な人権侵害的な犯罪行為には控訴時効がないと判断したことは、日本軍「慰安婦」問題においても大きな意義を持つといえる。
日本の読者にとって本書が持つ重要な意味の一つは、今も続く日本軍「慰安婦」問題をめぐる言説と論争を考える上で、示唆に富む知見が多く得られることである。
1990年代から日本軍「慰安婦」のサバイバーたちが日本政府の謝罪と賠償を求めて起こしていた裁判は、国家無答責や除斥期間、二国間条約等で解決済みという理由で、全てが棄却された。事実認定がされた訴訟もあったが国家責任は問われず、日本政府も日本の法的責任を否定している。日本軍「慰安婦」は「自発的」な「売春婦」で、「性奴隷」ではないという日本政府や政治家、一部の研究者たちの主張は、 日本社会に今もなお根強い「強制/自由意志」と「処女/売春婦」という二分化した思考方式と相通ずる。その認識の根底には、「売春婦」の女性を「落ち度がある」「汚れた」「問題のある」女性とみなし、「被害を被っても仕方ない」「救済に値しない」女性として位置付けることに正当性を与える社会の家父長的な性規範がある。その性規範に組み込まれ、女性たちの暴力に沈黙・傍観することで、私たちもその暴力の暗黙の協力者になる。女性の「性」を活用する発想は、戦時だけでなく戦後も続いていた。敗戦3日後の1945年8月18日、内務省警保局長は各府県長へ進駐する占領軍用の「慰安施設」についての通達を出し、占領軍から「大和撫子の純潔」を保護するために「一般婦女子」の「防波堤」として「特殊女性」を募集した。こうして設置されたRAA(Recreation and Amusement Association =特殊慰安施設協会)によって、「特殊女性」たちは占領軍の相手をさせられ、強制的な性病管理と統制が行われた。こうした暴力的な措置は、「社会秩序の保持」「一般婦女子の安全」という名のもと、「必要悪」として正当化された。
そして、2013年5月13日、橋下徹(当時大阪市長)は、「慰安婦制度は、軍の規律を維持するためには、当時必要」と発言し、米軍普天間基地司令官に「風俗業の活用」を勧めた。 海外からの批判を受けて、「不適切な表現だったので撤回するとともにお詫びする」としたが、お詫びの対象はアメリカ軍とアメリカ国民に向けられ、基地によって今も犠牲になっている沖縄住民と女性たちの苦痛はまったく無視された。「国家の安保」を担う軍隊のために、女性の性の「活用」を「必要悪」とする認識が根底にある。こうした発想が国家暴力によって女性の人権侵害と性暴力を容認する論理を支えている。
日本軍「慰安婦」問題と米軍「慰安婦」問題で共通しているのは、国家と軍隊が直接介入し性暴力が犯されたこと、軍隊の性搾取犯罪の特性から被害者たちが似た経験をし、現在も身体的・精神的・心理的苦痛の中で生きていること、そして家父長的な性規範の中で沈黙を強いられていることである。
高齢の被害者たちは一日に何度もその凄まじい苦痛の記憶に襲われている。
私たちが証言者の証言に耳を傾けなければならないのは、証言は証言者の経験だけを表すものではないからである。それは長い間、証言者の事件や体験を沈黙させた「社会構造との闘いの最中にある言語」である。また、証言を通して「再現」されるものによって、社会の現実を知ることもできる。こうした意味から証言は、「語る人だけでなく、聞く人との共同作業」を求めているのである。これからは、私たちが証言に「応答」していかなければならない。