イギリス英語は「英語らしくない英語」なのか? 『英文学者がつぶやく 英語と英国文化をめぐる無駄話』
記事:平凡社
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かなり昔の話だが、暮れも押し迫ったある晩を友人宅で無為に過ごしていた時のこと、見るともなく見ていたテレビではエリザベス女王が恒例のスピーチを行っていた。すると唐突に、友人が耳を疑うような台詞を吐いた。曰く、「この人、英語ヘタだな」と。私はまずどこから反論したらよいのかさえわからず、言葉を失うばかりだった。いいか、この人の英語こそが文字通りの「クイーンズ・イングリッシュ」であり、いやそもそもクイーンズ・イングリッシュ、あるいはキングズ・イングリッシュとは……と説明しようかとも思ったのだが、それも面倒に思えて、ただ一言、「お前、面白いこと言うなあ」と呟いただけだった。
だがよく考えてみれば、この友人の言いたいこともわからなくはない。特に英語に関しての知識を持たない普通の日本人にとっては、米国のそれも西海岸あたりの方言こそが「英語らしい英語」であり、それは母音の後のアールの音を必要以上に舌を巻いて捻り出し、あるいはJapan を「ジェアペア~ン」などと、water を「ウワラ~」などと発音するような、カギカッコつきの「英語」なのである。たとえば twenty を「トゥエンティ」とちゃんと発音するのは日本人のカタカナ英語のようであり、「トゥエニー」というのが「英語らしくて」「格好いい」と本気で思っている日本人は少なくない。どこかで聞いた話だが、ある米国企業の日本支社では、日本語の会話の中でもコピーのことを「カピー」と称しているという。こんなのを英語らしい英語だと思われた日には、シェイクスピアやジェイムズ一世やジョンソン博士やBBC やオクスフォード大学出版局、それに何と言ってもエリザベス女王の立場がない。
元来の「標準的な」英語は「原則として」スペリング通りにひとつひとつの音を略さずに発音する。こういう英語なら世界中(少なくとも英語が通じる国であれば)どこへ行っても立派に通用し、尊敬される。しかしこのような発音が結果的に、くだんの友人をはじめとする多くの日本人には「英語らしくない英語」に聞こえてしまうのであろう。と、このように大上段に構えて偉そうに解説している私自身も、中学・高校時代に習った「英語の」教科書はほぼ米語一辺倒であり、大学時代にはミシガン・メソッドによるLL の授業が必修だったので、ある時期までは米語こそが本物の英語だと信じて疑わなかったのだ。だからエリザベス女王の英語を「ヘタだ」と称する友人の言わんとするところもわからなくはないのである。
クイーンズ・イングリッシュがある種のカタカナ英語のように聞こえるということは、逆に言えば、日本人のカタカナ英語にいくらかの「改良」を加えればクイーンズ・イングリッシュに近い立派な英語になる、ということになろう。米語を英語らしい英語と勘違いしつつも、多くの日本人は「クイーンズ・イングリッシュ」という響きにある種の憧れを抱いている。それならばカタカナ英語の特性を逆に活かしてクイーンズ・イングリッシュに近づいてしまおうではないか。なお、私たち日本人が英語を話す場合、英語の母語話者とまったく同じ発音をすることは不可能だし、またそうする必要もない。むしろ英語の発音に日本人らしさを残した方が望ましいという考え方が最近では主流になって来た。一方で子音エルとアールの混同に代表されるように、日本式カタカナ英語は思わぬ誤解を招くこともある。ここで私が提起するのは、最低限の子音の発音だけ英語らしくなるよう練習して、あとはカタカナ英語で代用するという方法である。これによって、もちろん完全にではないが結果的に割と「本物」に近い英語を話すことが可能になり、諸外国で立派に通じてしかも尊敬されるというおまけがついて来るのである。
「クイーンズ・イングリッシュ」というのは、ほぼ「標準英語」(いわゆるRP= Received
Pronunciation)と同義と考えてよい。このような英語に近づくために、まずは「f, l, r, th, v」の六つの子音の発音を練習する必要がある。五つしかないじゃないか、と言わないように。「th」には無声音(throw とかbath などの場合)と有声音(this とかbathe など)がある。ただしこれら六つだけでは十分ではない。「b, d, m, n, p, t」が語尾に来る場合のために、これらの子音も練習しておく必要がある。たとえばcut は「カット」ではなく「カッt」でなければならない。なぜなら「カット」と言うと語尾のtの後に「オ」という母音が入ることになる。それなら他にも語尾の「k」や「s」などは練習しなくてよいのか、という疑問もあろうが、これらは必要ない。たとえば「駅まで歩く」と「私は学生です」を、それぞれ声に出して読んでみてほしい。たいていの人は最後の「く」と「す」を「k」、「s」と母音を伴わずに無声音の子音だけで発音しているであろう(ただし関西方言ではこれらを文字通り「ku」、「su」と発音する傾向がある。だから関西弁ネイティヴの人はこれらも練習しましょう)。それからこの六通りの語尾の子音の後に「s」がつく場合(つまり名詞の複数形や動詞の三単現の場合)も押さえておく必要がある。
子音「f」は「無声唇歯擦音」といって、下唇の内側を上の前歯で軽く嚙んで、声帯を使わずに息だけで音を出す。この「f」を有声音にしたのが「v」(有声唇歯擦音)である。「l」(有声歯茎側流音)は舌の先を歯茎(上前歯の付け根あたり)に当てて声帯を使って発音する。一方で「r」(有声歯茎流音)は唇をすぼめて舌先と歯茎の間で発音する。日本語のラ行の子音の前に小さく「ゥ」の音(ワ行の子音のような音)があると考えればよい。「l」と「r」を区別する練習方法をひとつ紹介しておこう。用意するものはティッシュペイパーを一枚。たいていは二枚で一組になっているから、剝がして一枚にした方が使いやすい。この一枚のティッシュペイパーの端を軽くつまんで、自分の鼻に当てて口の前に垂らす。そして、「lice / rice」でも「light / right(write, wright)」でも何でもよいから「l」と「r」で対になっている単語を発音する。この時に、「l」を発音する瞬間にはティッシュペイパーが動いてはいけない。「r」では逆に動かなければいけない。というわけで「l」と「r」の発音を身につけたら、次は「th」である。これはまず舌の先端を上下の前歯で軽く嚙む。そして声帯を使わずに息だけで発音するのが無声歯擦音の「th」、声帯を使うのが有声歯擦音の「th」である。
語尾の子音はまず「b」と「p」から練習しよう。いずれも唇を閉じた状態から破裂させるように息を押し出して発音するが、この時に声を出すのが「b」(有声両唇閉鎖音)、出さないのが「p」(無声両唇閉鎖音)である。有声歯茎閉鎖音「d」と無声歯茎閉鎖音「t」は先ほどの「l」の時と同様、舌の先を上歯茎に当てて、その位置で息を破裂させて発音する。有声両唇鼻音「m」は唇を閉じたまま声帯を使って発音する(ちなみに、この音は幼児が最初に覚える子音であり、したがって多くの言語において「母親」と「食べ物」を意味する幼児語は「m」で始まる)。有声歯茎鼻音「n」は舌の先端を「l」や「d」と「t」の時と同じく上前歯の付け根に当て、唇を少し開いた状態で声を出す。日本語の「ン」というよりは「ンヌ」に近い音になる。舌先をこの位置に当てていないと、たとえば現在分詞(~ing)の語尾のような「ング」という音(有声軟口蓋鼻音)になってしまうので注意されたい。
これら以外の音はたいてい日本語の五十音のどれかで代用できる。あとはそれぞれの単語の強勢(いわゆる「アクセント」のことだが、英語ではこういう場合stress という)と、センテンスの中でどの語が強く発音されるかということを心得ておけば完璧だ。
《中略》
自分の英語を「本物」らしくするもうひとつのコツはstiff upper-lipである。これは文字通り「堅い上唇」あるいは「堅い鼻の下」(upper-lip は上唇だけでなく、鼻と口の間をも含む)という意味だが、転じて感情が顔に出ないイングランド人の性質を表すイディオムとして使われる。ここで言うのはイディオムではなく文字通りの意味であり、実際RP 話者のイングランド人が話すときには上唇があまり動かない。これを真似して上唇をあまり動かさず、口を大きく開けずにボソボソと呟くように発音すると、より「本物」らしい英語に聞こえるようだ。ただ、冒頭で言及した友人のような「普通の日本人」には「この人、英語ヘタだな」と言われるであろうが。
(安藤聡著『英文学者がつぶやく 英語と英国文化をめぐる無駄話』第2章「一筋縄では行かない発音の話」より抜粋)
本書の最終校を終え、あとがきを書き終えた2日後に、エリザベス女王が崩御した。英国史上最も長い70年と7か月の在位であった。近い将来、ルイ14世の在位期間(72年)を軽く超えることと、100歳の誕生日を迎えたエリザベス女王が私人エリザベスに誕生日を祝うカードを贈ること(英国民は100歳を迎えると国王から写真入りのバースデイ・カードを贈られる)を密かに期待していたのに、とても悲しく残念なことであった。70年の長きにわたり英国(連合王国)の偉大な君主であり続けた女王に、この場を借りて心から哀悼の意を表する。
はじめに――英語とは何か
第1章 奇妙なイギリス英語の世界
第2章 一筋縄では行かない発音の話
第3章 英語で旅する英国
第4章 英国文化は英語表現に学べ
おわりに――英語の不規則性など