数学を学ぶとき、恐怖を感じなくなる方法『こころを旅する数学』
記事:晶文社
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通念に反して、論理は想像力の敵ではない。むしろよき理解者だ。想像力の真の敵、理解を妨げ、自分は愚かだと思い込ませる敵はいつも恐怖である。
恐怖は私たちの限界を定める。恐怖は、まるでだめな人から最もすぐれた人まで、初心者から名門大学の教員まで、あらゆるレベルの誰にでもかかわる問題である。誰にでも盲点はあるが、そう聞いただけで恐怖にかられる。盲点という言葉を心の奥の不安、自分はきっと求められるレベルに達していないという思いに結びつけるからだ。私たちは入り口に掲げられた「天才以外お断り」という看板を前にして身動きが取れないでいる。その看板を、自分には難しすぎて無理だと思った日に自分自身で立てたことを忘れているのだ。
数学への恐怖の最も残酷な点は、恐怖は頭のなかだけの話だとわかっていてもどうにもならないことである。めまいと同じだ。めまいも頭のなかだけのこととわかっているのに止まらない。
自分自身の数学を理解するいちばんの方法は、丸っきりの初心者にそれを説明しなければならない場面を想定することである。自分を相手にして愚か者を演じると、最終的には自分の成果を自明の理として提示する方法が見つかる。
このミニマルなアプローチは私の発表スタイルとなった。多くの若手数学者が隠れ蓑にしたがる、わかりにくいスタイルと専門性を強調して虚勢を張るのと逆のことをしたのだ。最初のうちは、わかりやすい発表をするとなんらかの不利益をこうむるのではないかと心配した。本気にしてもらえないかもしれないと思っていたのだ。だが実際はその逆だった。発表が単純であればあるほど、私は賢いと思われた。
ある日、私はシュヴァレー・セミナーというパリで開かれる群論のセミナーで発表することになった。提示できるような新たな成果はあまりなかったが、ふだんよりさらに単純な発表をするよい機会だった。
会場に着くと15人ほどの研究者がいて、学生たちも部屋の奥に座っていた。発表の数分前、セール [ジャン=ピエール・セール。著名なフランス人数学者] が入ってきて2列目に座った。
セールを聴衆のひとりに迎えるのは嬉しかったが、すぐに彼に予告しておいた。関心がもてないかもしれませんよ、これは普及を目的とした発表なので、ごく基本的な内容を説明するつもりです、というふうに。
セールにはもちろん言わなかったが、私は彼を前にして怖気づいていた。とはいえ、彼ひとりのために発表を難しくするつもりはなかった。私はただひたすら、彼がめがねを外さないかどうかを見張っていた。めがねを外すという動作は、退屈して聞くのを止めたことの表れになるからだ。けれども、セールは最後までめがねをかけていた。
私はセールがいないかのように、聴衆全体に向けて発表を行った。とくに部屋の奥に座っていた博士論文を準備中の学生たちと高等師範学校 [パリにある名門高等教育機関。グランゼコールのひとつ] の学生2人が耳を傾け、理解したようだったので満足だった。
それはごくふつうの発表で、どちらかといえばうまくいった。とりたてて奥が深いわけではないが、十分に準備され、明快でわかりやすかった。セミナーの終わりに、セールが私に会いに来て文字どおりこう言った。
「もう一度説明してもらわないとね。さっぱり理解できなかったから」
これは本当の話である。こう言われて、私はわけがわからなくなった。
セールが「理解する」という動詞を大部分の人が使う意味で使っていないことは明らかである。私の発表のコンセプトと論証が、彼にとって本当にわかりにくかったはずはない。きっと、私の説明は理解したが、私の説明した内容が “なぜ” 正しいか理解できなかった、と言いたかったのだろう。
これは1から100までの整数の和と少し似ていて、理解には2つの段階がある。第一段階では、ステップごとに論証を理解し、それが正しいことを “受け入れる”。「受け入れる」と「理解する」は違う。第二段階が本当の意味での理解である。理解するには、その論証がどこから出てくるのか、なぜそれが自然なのかが “見える” 必要がある。
セールのコメントについて改めて考え、私は発表に「奇跡」、つまり恣意的な選択やうまくいったものの自分ではきちんと理由を言えない手順を盛り込みすぎていたことに気がついた。セールが言ったとおり、たしかに理解できなかった。私が当時取り組んでいた対象と状況の理解にはいくつかの大きな穴が開いていたわけだが、セールは私がそれに気づくよう、手を貸してくれたのだ。
その後、数年かけてこのさまざまな「奇跡」の説明を模索した結果、私はこうした穴の一部を埋めることができ、キャリアのうえでもとくに重要な成果を上げることができた。(現時点でも、まだ説明できない「奇跡」が一部残っている。)
しかしいちばん気にかかったのは、セールが「理解できなかった」と伝えたときの唐突で乱暴なやり方だった。
こんなことをするには信じられないほどの度胸が必要である。発表のあいだずっとおとなしく耳を傾け、それから発表者の前にやってきてにっこり笑いながら「さっぱり理解できなかった」と言うのだ。私なら絶対にこういうやり方はしない。
セールはなぜこんなことをしたのか? 最初は、ジャン=ピエール・セールだったらこんなことをする権利があるに違いないと思った。それから、逆の解釈もできるのではないかと気づいた。このテクニックによってこそ、彼がジャン=ピエール・セールになれたのだとしたら?
私はその点をはっきりさせるため、自分で試してみることにした。
数カ月後、ある学会の会食の席で博士号を準備中の研究者と隣り合わせた。デザートを食べながら、彼は自分の研究内容について説明しはじめた。当然ながら彼の説明はさっぱりわからなかった。そこで、ディナーの終わりに彼を脇に呼んでこう言った。
「説明してくれないか。ただし、ゆっくりとね。君のテーマがさっぱり理解できないんだ。私が脳に重大な損傷を負っていて集中力を保つのが難しい、という前提で頼むよ」
これを聞いて笑った親切な彼は、私が知っていて当然だが、じつはそれまで理解できたことがなかった彼の専門分野の基礎から始めて、ゆっくりと落ち着いて説明してくれた。
彼の説明は、食事の席でしてくれたものとは似ても似つかなかった。使う言葉も内容も違ったのだ。まるで、研究テーマについて話すのに2つのまったく異なる方法があるみたいだった。
まじめに見せたいときに使う公式な説明である “ツーリスト用メニュー” と、彼が自分でものごとを理解するための単純で直観的な方法である “裏メニュー” があったというわけだ。
研究者という私の地位は、学生という彼のそれより高かったため、彼はツーリスト用のメニューを提供して私に強い印象を与えたかった。一方、私は自分が無能なふりをすることで、彼に私と対等に話し、ものごとを彼自身が理解しているとおりに語ってもよいのだと伝えた。
セールのテクニックのもうひとつの利点は、間違いなく尋ねたくなるくだらない質問の数々が、初めから深刻に見えなくなることである。そうした質問を小出しにして話を戻し、会話の1分ごとに自尊心を傷つけられた気になるより、くだらない質問をたくさんぶつけ、しかも同じくだらない質問を立て続けに何度も繰り返すというぶしつけを最初から装うほうがずっと気楽である。
数学をめぐって会話をするのは、学ぶためであって屈辱を感じるためではない。
ときには、よく理解できていなかった基礎の復習に時間の半分を費やさなければならないし、場合によってはそれだけで終わってしまうこともある。それでもそのほうが、さっぱり理解できない内容について話すよりいい。相手があなたのレベルに合わせようとせず、あなたの手を取って基礎の基礎から始めることを拒む場合も、気分を害する必要はない。相手はきっと、自分自身が理解していない数学を説明しようとする詐欺師なのだ。
このアプローチの魅力は、ばかにされるのを覚悟のうえで堂々と質問することで、あなたが自分に自信があるということを相手に印象づけられることだ。
(ダヴィッド・ベシス『こころを旅する数学』第13章「屈辱・みじめさ・劣等感」より抜粋・編集)