再発見される北欧の教育と街
記事:明石書店
記事:明石書店
当然だが、「福祉国家」「世界一幸せな国」として知られる北欧諸国は、ハードウェア(物理空間)においてもソフトウェア(法制度や文化)においても基本的には北欧人によって形成されている。つまり、北欧の住心地の良い都市や社会制度の根本を知るためには、北欧人がどのように形成されているのかを知る必要がある。そこで手にとっていただきたいのが『北欧の教育再発見』である。本書は、『北欧の教育最前線』の続編であり、北欧諸国の教育的特徴の断片を義務教育、高等教育、社会教育などの垣根を超えて集積することで、北欧で「人づくり」がどのように推進されているのかを包括的に伝えようとしている。
私が専門とするのは建築や都市デザイン、つまりハードウェアということになるが、私がデンマークに建築家として務めていた頃の経験を踏まえ、ハードウェアとソフトウェア、そしてその両者を支える人づくりとの密接な関係を説明しつつ、本書の紹介をしたい。
充実した福祉制度やフラットな労使関係はまとめて「北欧モデル」と呼ばれている。第1章では、この北欧モデルを成り立たせるうえで欠かせない要素として対話の文化を上げており、これに基づいて北欧のさまざまな教育的側面が紹介されている。対話のあり方は多岐にわたるが、特筆すべきは就学前から子どもたちが話し合って決める環境づくりをしたり、受け取る情報の信頼性を吟味する史料批判の教育を展開したりしていることである。「子どもにはまだわからないから」という姿勢ではなく、幼くても自分なりの考え方を持ち、他者と意見交換をする能力を引き出している。まさに対話の英才教育を受けているとも言えよう。
そんな対話の姿勢がたとえばデンマークでは、医療建築の設計基準にも影響を与えている。どの国においても建築は、建築基準法をはじめさまざまな法律によって寸法や用途などが制限されている。特に病院など人命に直接関わる施設の建築は厳格な制限が設けられている場合が多く、それが故に時代の変化に合わせた柔軟な対応や革新的なソリューションの提案を抑圧している側面も持つ。しかしデンマークでは、医療建築において「comply or explain」というコーポレートガバナンスの領域で普及している概念が採用されている。これは直訳すれば「従え、さもなくば説明せよ」となり、原則としては基準に従って設計する必要があるが、建築許可をする行政が納得のいく理由を説明することができればその限りではないことを示す法律である。つまり厳格な規定がある中でも、対話によって個別解を導き出す余白がつくられていることになる。これは同時に、行政側にも高い専門性を持った職員が配置されていることが前提条件であり、設計者と行政が対等な専門家として新たな答えを共創する対話力を有していることを示唆しているのである。
対等な関係づくりは、子どもと大人の間にも生じている。第2章では、教育という大人と子どもが共存する空間において北欧でどのような動きがあるのかを紹介している。ところで比較文化心理学を牽引したヘールト・ホフステードが生み出した文化の違いを可視化する6次元モデルによれば、北欧諸国は似た国民文化を共有しているのに対し、日本と北欧では複数の点で明確な違いが見られる。たとえば男性性/女性性という観点。ホフステードのいう男性性/女性性とは、前者が積極性、競争、たしかな成功に価値を置くのに対し、後者は生活の質、養育、他者へのケアや共感に価値を置く文化のことを指す。また長期志向/短期志向という観点においても明らかな差がある。前者がすぐに結果は出なくても努力を続けることを重んじるのに対し、後者は現在を重んじ、すぐに結果が出ることにこだわる文化のことを指す。こうした文化の違いが、教育現場にさまざまな違いをもたらしている。それは「今は苦しいかもしれないが将来のためなのだ」という姿勢以上に、今、子どもたちが何を望むかという意志に共感を示すことで生まれる制度や取り組みであるし、一方で「子どものために我慢する」という姿勢以上に、今、教師として何を望むのか、という意志にも寄り添おうと社会が努力することで生まれるそれでもあるのだ。
こうした姿勢は、地域の都市環境改善に向けた住民参加ワークショップなどでも垣間見ることができる。大人だけが議論し、大人にとって都合の良い街にならないよう、必ず子どもたちが参加しやすい環境を整える。レゴブロックを使ったり自由に絵を描いたりという手法がよく用いられるが、ここで重要なのは手法ではない。北欧では「子どもも参加してくれました」という既成事実をつくりあげるために実施するのではなく、尊厳ある住民とまちについて学び合うマインドセットを持ち、ともに改善案を考えるために子どもも巻き込んでワークショップを実施しているのである。
個人の尊厳を考えるとき、子どもと大人の関係のあり方だけでなく、さまざまなバックグラウンドを持つ社会的マイノリティの包摂も重要事項として浮かび上がってくる。第3章では、ムスリムをはじめとする宗教、ダウン症などの障害、LGBTQ+など、さまざまなカテゴリにおけるマイノリティを受容するための教育的取り組みのリアルが描かれていることに加えて、消えゆくマイノリティ言語や、保育現場における男性保育者をめぐるコンフリクトの実態も紹介されている。
社会的マイノリティの包摂に向けたアプローチとして、医学モデルと社会モデルがある。1980年代頃までは、障害者の社会包摂を図る際、障害を障害者個人が持つ課題と捉え、医学的アプローチで解決する「医学モデル」が推進されていた。しかし今日においては、障害はある個人が抱えている課題ではなく、マジョリティとマイノリティの間に存在する社会的課題であると捉え、社会の改善を志向するアプローチとしての「社会モデル」が推進されている。社会モデルでは、法制度や組織体制を整えるなどのソフトウェア、ユニバーサルデザインなどのハードウェア両面における提案が可能である。「ノーマリゼーション」発祥の地であるデンマークにある教育機関「エグモント・ホイスコーレ」では、障害を持つ人も自分の「やりたい」という思いを表現することができ、その思いをサポートするソフトウェア、ハードウェア両面における社会的アプローチが数多くデザインされている。たとえば施設内には、障害者が楽しむことができるウォータースライダーが導入されている。
最終章は生涯学習の観点からさまざまな事例を紹介している。北欧の生涯学習について語るとき外すことができないのが上にも述べた「ホイスコーレ」の存在だ。ホイスコーレは発祥地のデンマーク語で「folkehøjskole」と書き英語でfolk high school、日本語では民衆高等学校と訳されるが、しばしば「生のための学校」とも呼ばれる。北欧中にあるホイスコーレは、17.5歳以上であれば誰でも入学できるという特徴を持ち、主な年齢層は20代前半ではあるものの、50代、60代の学生もおり、人生のいかなるタイミングにおいても学び直しができる場として重要な役割を果たしている。
コペンハーゲン北部にあるホイスコーレ「International People’s Collage」の校長を務めるソーレンは、ホイスコーレの意義について「ホイスコーレは学校に通う学生のためだけにあるのではありません。ホイスコーレという存在があることで、その地域の市民社会を醸成しているのです」と話す。つまり、ホイスコーレに籍を置く学生にとって生涯学習の機会が与えられるだけでなく、地域住民のさまざまなライフステージにホイスコーレが直接的、間接的に学びの機会を提供しているのである。たとえばグルントヴィ・ホイスコーレ(Grundtvigs Højskole)は、地域にストリート・ラボ(Street Lab)という施設をつくり、運営している。開発計画のため取り壊しが予定されていた遊休施設を、ホイスコーレと自治体が連携することで暫定的に公的活用することに決めたのだ。「何をつくっても良い」と言われた学生たちは話し合いを始めたが、やがて自分たちだけでなく近隣の子どもたちが何を欲しているのか興味を持ちアンケートを実施、その結果を受けてスケートボードの練習場を制作したのである。完成後、こんどは近隣の大人たちが気軽に来られる場所としてカフェを併設することに決め、住民と協力しながらカフェづくりを進めている。
ここでは、章別に書籍の内容に触れながら、各章のテーマに紐づく建築デザインやまちづくりの事例を紹介した。最後に紹介したホイスコーレを提唱したのはN.F.S.グルントヴィである。グルントヴィは、理論をテキストで学ぶ都市部の教育を「死んだ言葉」と批判し、地方部の農家による経験に基づいた対話中心の教育を「生きた言葉」として推進した。ホイスコーレの目的は人格形成、つまり人づくりであり、その存在は対話を通して学び合う北欧モデルの源流でありアイコンであると言っても過言ではない。書籍全体から、死んだ言葉に抗い生きた言葉を信じようとする北欧人の心を何度も発見していただきたい。