「北欧」の視点からみたスウェーデンの立ち位置――『スウェーデンを知るための60章』
記事:明石書店
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主にデンマーク近現代史を専門とする筆者が隣国スウェーデンを扱ったことの理由を語らねばならない。筆者のスウェーデン理解の原点は、スウェーデンを囲む周囲の国々の存在を語らずして、一国理解のみでスウェーデンを語ることはありえないという認識である。わが国の都道府県の場合、例えば県境により群馬県をくりぬいて「つるの舞う形」と謳うといったこともあるが、国際的な理解においてそのような発想法はありえない。しかし、かつてバルト3国の観光パンフレットで3国の位置を地図で表し、その南にポーランドを描いておきながら、ロシアの飛び地、カリーニングラードの存在を消していた図は、独立後間もない3国の国民感情を表すものとして、筆者は記憶している。ましてや「北欧」のように、比較的均質な国家群として存在する地にあって、そのうちの一国のみを取り上げて語ろうとすることは無理に等しい。本書が刊行された当時、「北欧」の政治・福祉制度・教育等が語られるとき、スウェーデン事情がトピックとして扱われることが多く、それらの紹介者も、それを見聞するわが国の一般の人々も、スウェーデンが語られることで北欧事情のすべてをスウェーデンが代表しているように感じていたようであった。そこで本書の編集方針として、「北欧の中のスウェーデン」に視点を置くことにこだわった。政治や福祉制度に関心を示す当時のわが国のスウェーデン研究者の多くが「周辺から見たスウェーデン」という視覚を欠いていたことから、その点にこだわり、本書第4部「外から見たスウェーデン」を設定した。
1950年代の北欧4か国(アイスランドを除く)の国民の行動様式を伝えるアネクドートがある。イギリス人が語った。北欧各国の男性2人ずつが、無人島に到着して、彼らがそれぞれ何をするのか。デンマーク人は、早速、協同組合をつくった。フィンランド人は、片っ端から木を切りまくった。ノルウェー人は、けんかをしだした。そして、スウェーデン人は、お互いただ黙ったまま、もじもじしていた。なぜなら、相手の社会的肩書がわからないので、呼びかけるきっかけがなかったから。別のバージョンでは、フィンランド人とノルウェー人の行動が入れ替わったものの、スウェーデン人は相変わらずお互いに声をかけられないで黙っていた。要は、スウェーデン人の〝若干お高く留まった〟人見知りぶりを揶揄したものであったが、スウェーデン以外の北欧人は苦笑しながらもこうしたアネクドートにうなずいたものである。実際、1980年代に列車に乗っても、外国人である筆者にすぐさま話しかけ、ちょっとした食べ物も分かち合おうとするデンマーク人に対し、デンマークの対岸を走るスウェーデン内の列車で、お互いに人々が寡黙に座席に座っているさまはデンマーク生活に慣れた筆者には、そうしたアネクドートを再現しているように思われた。今、スウェーデンを訪れると、多くの難民・移民を受け入れて、スウェーデン語も「尊称」の第2人称が通常の会話から消え、そういったアネクドートなどどこに行ったのか、といった雰囲気の人馴れしたスウェーデン人社会が存在している。
上記のアネクドートの存在には、スウェーデンを囲む北欧の人々のあいだの、時代を反映したちょっとした〝スウェーデン嫌い〟という一致点が見出しえた。スウェーデンは、フィンランド人にとっては数百年に及ぶ民族的被支配構造への歴史的回想の対象であり、ノルウェー人にとっては約90年に及ぶ同君連合下でのスウェーデンがとった「宗主国」的立場への妬み、デンマーク人にとっては、400年を超えるバルト海の覇権をめぐる「宿敵」で、優越感をちらつかせる鼻もちならぬ隣人……等々の感情も存在していた。さらに第二次世界大戦の経験が生きていて、ソヴィエト・ロシアの攻撃に敗れたフィンランド人、ドイツ占領の苦渋を味わったノルウェー人、スウェーデンの存在が自国のレジスタンス運動に貢献し、ユダヤ系市民の逃げ場を提供してくれたとはいえ、ドイツの保護占領下にあったデンマークにとって、隣国でありながら大戦下で中立維持が曲がりなりにもでき、戦争による災厄を免れた北欧唯一の〝幸運児〟に対するやっかみの感情が1950年代には、見え隠れしていたのである。
もちろん、そのスウェーデン嫌いとはスウェーデン人との同席を嫌うとかではなく、むしろ仲間であることを十分に承知したうえで、スウェーデンを囲む周辺国の人々に通底する「私たち、一緒だね!」といった思いを醸し出している。そして筆者がそれをあるスウェーデン人に語ったとき、「ビッグ・ブラザーはつらいよ!」と返してきた。
周知のように、北欧各国は、外交安全保障問題は除外されているものの、1953年以来、自治領をも含めた議員協力機構である「北欧会議」(フィンランドの参加は、1955年)を形成しており、そうした一体性の存在からみても、北欧内の一国をとりあげての〝一本釣り〟的説明はもはや不可能である。対ロシアということで各国の外交安全保障政策に対する差異が存在していたところから、いわばお互いを慮って外交安全保障を除外することで、北欧の一体性が維持できてきたといえよう。ところが皮肉にも、その対ロシアへの対応から、今、フィンランド・スウェーデンのNATO加盟申請によって、すでにNATOに入っていた3国に加え、北欧5か国すべてがNATO加盟ということで一致を見るに至った。〝各国の差異の自覚とその承認〟といったこの世のユートピア的な「北欧的相互認識」が、今回のロシアの行動によって、壊されてしまったのである。
1948年にスウェーデンがデンマーク・ノルウェーに三国の中立同盟構想を打ち上げ、三国間で議論されたが、西側では後のNATOとなる同盟構想が進行中で、結論的には49年2月にノルウェー・デンマークがNATO加盟を申請していった。スウェーデンの中立政策の実態に関しては、2009年発行の本書第33章で清水謙氏が語っている。表看板としての「中立」と実質における西側へのコミットメントであり、冷戦終結後には、フィンランドとともにNATOとのあいだに「平和のパートナーシップ」協定を結んでいる。フィンランドにとっては、第二次世界大戦後、つねにロシアの立場に気を配り、ロシアの立場を尊重して、西欧とロシアとの「架け橋」として努力し、そのことで対西欧・対ロシア両者に対し自らの存在理由を明確にしてきたことを、NATO加盟を申請したことで、今、放棄せざるを得なくなったのである。フィンランドで起きていた政治の中枢における明確な世代交代によって、自らの「国家理性」としての歴史的基本姿勢に大転換を図ったのである。
また、デンマークが6月1日に1992年以来ヨーロッパ共同体(EU)内で受けてきた特典――EU加盟国の共通安全保障・防衛政策への参加義務に対する適用除外権――を、あえて取り外すべく国民投票を行った。賛成66.9%であったものの、その投票率が、今までの国民投票の投票率でいうと2番目に低い65.8%で、賛成票があらかじめ通るだろうと人々が予測していたためと、想像では移民の人々のあいだで、本件に答えの出しようがなかったことと関係している。デンマーク国民も、ロシアのウクライナ侵攻を自らの問題として北欧地域の問題として捉えているのである。本土から東に離れてバルト海上のボーンホルム島から、第二次世界大戦終了後も、なかなかロシア軍が撤退していかなかったことが思い出され、今また、マスコミではそれが声高に語られていた。このデンマークの国民投票が、ウクライナ問題に対する北欧の動きの一環であることも十分に語られるべきものである。
デンマークのサッカー協会(正式には「デンマーク球戯協会」)のウィンドブレーカーの背中に書かれている「EN DEL AF NOGET STØRRE」の文字が、小国家群の北欧の人々の自覚を表しているように思われる。「より大きな何某かの一部」と。少なくも、自国への帰属、北欧への帰属、ヨーロッパへの帰属? いずれにせよ何を対象とするかであり、今、スウェーデンとフィンランドは、NATOにそれを求めたのである。