新時代のニーチェ入門――この人を(ちゃんと)見よ!(前編)
記事:春秋社

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相変わらずニーチェ(1844~1900年)は日本で大人気です。初学者向けの解説書や入門書の類い、はたまたニーチェのものと思しき名言・格言をどこからか集めた本まで、「ニーチェ」という言葉をタイトルに含む書籍が毎年のように出版されています。けれども、それらはだいたいが旧態依然としており、残念ながら、国際的なニーチェ研究の最先端の議論状況やその成果がきちんと反映されている、あるいはそうでなくてもそれに匹敵する水準のものはほとんど見受けられません。実は近年、特に英語圏を中心としたいわゆる「分析系ニーチェ研究」が大きな盛り上がりとともに目覚ましい成果を出しており、ニーチェ哲学についてこれまでとは一味違った見方が提示されています。私たちはそろそろニーチェ観をアップデートする時期に来ているのです。
この記事の目的は、みなさんに、そんなニーチェ哲学の理解を更新してくれる『わかる!ニーチェ』に興味をもってもらうことです。ただ、本書は基本的に一般読者向けですし、あまり堅苦しすぎる学問的紹介をしてハードルを上げたくはありませんので、この前編では本書の内容に踏み込むというよりは、まず先に著者の紹介や本書の形式的な面についての話を多少リラックスした形でしていきたいと思います。
著者のピーター・ケイルはイギリス出身で、ケンブリッジ大学で哲学の博士号を取得後、エディンバラ大学哲学科講師などを経て、現在はオックスフォード大学哲学科准教授を務めています。こう聞くと、順調にエリート街道を歩んできたと思われるかもしれませんが、必ずしもずっと順風満帆だったわけではありません。義務教育修了時の試験で大失敗し、16才で学校をドロップアウト。その後はプロのミュージシャンを目指すも挫折。大学に入るため夜間学校に通ったという異色の経歴の持ち主なのです。
そんな彼の専門は哲学史で、特にニーチェやヒューム(18世紀スコットランドの哲学者)の研究者として国際的に著名な人物です。日本でも2018年に東京大学・広島大学・ICU等で主にヒューム(それにからめてニーチェも少し)をテーマとした招待講演を実施しています。
最近はとりわけニーチェ研究の領域で活発に活動しており、2015年には「国際ニーチェ研究学会(The International Society for Nietzsche Studies)」をアメリカのニーチェ研究者ブライアン・ライターらと共同創設し、現在まで大会実行委員会のメンバーに名を連ねています。比較的若いこの学会は、ニーチェが短期間ながらも学びを受けたドイツのボン大学で最初の大会が開かれ、以後、英米の大学で年次大会が開催されています(コロナ禍の影響で2020年と2021年は中止)。欧米にはこれ以外にもさまざまなニーチェ学会があり、そのあたりの事情は人間関係を含めいろいろと複雑なのですが、この学会は、基本的に、ケイルを含め分析哲学的なスタイルでニーチェ解釈をする研究者たちで構成されているという点に特徴があります。
この分析系のスタイルによる解釈というのは、簡単に言えば、明晰で精密な論理展開を重視することで難解なニーチェ哲学をクリアな形で再構成しようと目指すものです。実はすでに去年私は「じんぶん堂」に「分析哲学的なスタイルでニーチェを解釈する――21世紀のニーチェ研究最前線(前編)」という記事を寄稿していますので、これについてもう少し詳しく知りたい方はそちらをご参照ください。それよりもっと詳しく知りたい方は拙論「分析系ニーチェ研究への招待」(『フィルカル』第5巻第1号、2020年)をぜひ。
分析系のニーチェ研究は日本では最近になってようやく熱心な紹介が始まり、ニーチェ研究者はもちろんのこと、それ以外の哲学研究者たちのあいだでもよく知られるようになってきています。ですが、一般の読者にはまだまだ知られていないのが現状でしょう。『わかる!ニーチェ』はこのスタイルによる一般読者向けの本格的なニーチェ入門書で、私が本書を訳した動機も、それを広く世間に普及させたいと思ったからです。
さて2019年にSimply Charly社から刊行された原書のSimply Nietzscheは、「Great Lives」という世界の偉人をテーマにした入門シリーズの一冊です(すでに30巻以上が出ていますが、日本語に訳されるのは本書が初)。入門書らしく、ニーチェの波乱万丈の人生を追いながら、初著『悲劇の誕生』から晩年の自伝的作品『この人を見よ』までのニーチェの全公刊著作を網羅的に取り上げています。もちろんコンパクトな本という制約があるため、それぞれの著作の重要な部分にフォーカスした形になってはいますが、豊富な引用とともに身近な具体例が多く出されており、ニーチェ哲学のエッセンスを文脈に沿ってつかむための絶好の入口になるはずです(その内容面については本記事の後編で少し扱います)。
また本書にはこぼれ話のようなものもあるので、あまり肩肘張らずに読んでみるのもアリだと思います。たとえば大衆文化におけるニーチェの影響に関する話題も少し出てきます。日本でも今年の4月、人気バンドMrs. GREEN APPLEの新曲「ケセラセラ」の歌詞に「ツァラトゥストラ」という言葉が登場してTwitter(現・ 𝕏)のトレンド入りするなどネットで話題になりましたが、いまなおニーチェ的なイメージはポップソングや映画などでよく採用されています。晩年の『偶像の黄昏』にあるアフォリズム(箴言)「苦難を生き延びると、人は強くなる」(Whatever doesn’t kill you makes you stronger)は特に英語圏ではよく知られた表現のようで、ケイルはこれをもじった映画『ダークナイト』の悪役ジョーカーのセリフ「苦難を生き延びると、とにかく人はイカれちまう」(Whatever doesn’t kill you simply makes you stranger)をお気に入りとして挙げています。(ちなみにこの表現にまつわる私のお気に入りはアメリカの歌手ケリー・クラークソンの大ヒット曲「Stronger (What Doesn’t Kill You)」です。)
前編の締めくくりとして、原書に寄せられた多くの賛辞の言葉からその一部を引用しておきましょう(これは本書の「訳者解説」にも掲載しています)。
本書は、英語・ドイツ語・フランス語で書かれたニーチェ入門書の内で最良のものですし、次の三点からもベストだと言えます。第一に、まぎれもなく入門的ですが浅薄ではありません。第二に、優れた哲学的見識が反映されています。第三に、いくつかの厄介な解釈問題について、興味深く、説得力のある仮説が明確に打ち立てられています。書き振りも一貫して明快で、惹きつけられる文章です。米・シカゴ大学ロースクール教授ブライアン・ライター評
ピーター・ケイルは、ニーチェの目覚ましい著作群への知的で刺激的な短い案内書を書き上げました。何より素晴らしいのは、彼がこの唯一無二の天才哲学者をアカデミックな哲学にありがちなひどく退屈な型にはめ込んでしまっていない点です。むしろ、深遠な心理学者でありながら卓越した書き手でもあるニーチェが燦然と輝いた姿を見せているのです。英・ウォーリック大学哲学科名誉教授キース・アンセル=ピアソン評
ケイルの『わかる!ニーチェ』は、ニーチェの作品群において中心的な諸テーマに関するクリアかつ素晴らしく簡潔な概観を示してくれています。非常にとっつきやすい本で、生き生きとした会話的な文体で書かれています。学生にとって申し分のない手引きとなることでしょう。米・ボストン大学哲学科教授ポール・カツァファーナス評