「空気」の支配を解明 キャス・サンスティーン『同調圧力 デモクラシーの社会心理学』[後篇]
記事:白水社
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同調は、日本の読者にとって馴染みの薄いテーマではないだろう。たとえば、同調と聞いて日本社会にある「空気」を連想される読者も多いのではないか。かつて山本七平は「『空気』の研究」(文藝春秋、一九七七年)において、過去にも現在にも日本社会には「教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯がたたない“何か”」があると指摘した。この「空気」と本書で言う「同調」の分析には類似点があるが、注意すべき相違点もある。
まず、山本によれば、「空気」とは現実的でも合理的でもないと言って「ないこと」にしても消えない"何か"であるという。
……「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振るい出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。
良し悪しは別にして、それは「あること」を前提にして向き合わなければ、ある集団や社会、もしくは国家をも破滅させかねない。山本が例に挙げる「戦艦大和」の特攻出撃の例は、「いわばベテランのエリート集団の判断」でもあった。この点は本書の指摘とも重なる。
本書で紹介される、ある意味でもっともセンセーショナルな同調の事例は、連邦最高裁判所裁判官のそれである。なるほど、最高裁判事はアメリカ合衆国において公平かつ自由を象徴し、よって権威をもつエリート集団のはずだ。しかし、彼らも「熟議」の結果として、すなわち同じ考えの同僚判事と話せば話すほど、もともとの傾向に比べて極端な結論に至る可能性が高い。つまり、保守的ないしリベラルな判事が同じく保守的ないしリベラルな同僚と議論すればするほど、極端に保守的ないしリベラルな判決が出る。サンスティーンは、この種の同調(圧力)を「集団極性化」と呼ぶ。このことが深刻なのは、「知識」の多寡が問題では必ずしもないところにある。
他方で、山本の場合、「空気」を日本人論として指摘し、思考や判断以前に存在する“何か”として論じている。これに対してサンスティーンは本書で、同調を特定の国や社会ではなく人びとがどの集団に属していても至りうる社会的プロセスとして「科学的」に解明しており、またそれを「一つの宗教的絶対性」をもつものとは考えない。したがって、そのような現象を「ないこと」にはできないとしても、これがある集団や社会、国家にとって破滅的な影響を及ぼさないようにすることは可能だと言うのである。
確かに、山本も「空気」に対する処方箋をまったく提示していないわけではない。それは物事を「相対化」するという姿勢にあるという。逆にすべての物事を「相対化」し、対立概念によって把握しなければ、言葉やその対象が「絶対化」されてしまうのである。これは本書に即して言えば、あらゆる問題について、対立する考え方、異なる視点が存在することを社会や集団のなかで保証することが「絶対化」を防ぎ、集団が大間違いしない秘訣なのだ。
とはいえ、山本はやはりその姿勢をユダヤ・キリスト教文化に由来するものと論じるのである(空気に「水を差す」日本文化の研究を予告してもいる)。これに対してサンスティーンが提示するのは、特定の社会や文化を超えた、同調に向き合う制度や考え方である。
このように対照させることで気づくのは、わたしたちは同調を「空気」と同一視することで、それを所与の“何か”としてしまい、そこで思考停止していないか、言い換えれば、その社会的プロセスを解明することを等閑にしてきたのではないか、ということである。結果、戦前戦後も日本社会は、なかなかその社会に特有とされる「同調」から抜け出すことができない。もちろん、この点で日本社会に特有の習性がなにかしらあることは否定できないし、“空気”を「ないこと」にはできない。しかし、制度や考え方を変えることで、その弊害を少なくはできる。本書がなにより教えてくれるのはこのことである。
なるほど、同調はつねに悪い現象というわけではない。たとえば、わたしたちは日常的にある問題について自分よりも専門的な知識をもつ人や情報に従ったり皆が同じように法に従ったりする。あるいは、同年輩の女性が「みんなと同じ」ファッションをしたり、家庭をもったりする。本人がどれほど意識しているかはともかく、その方がコストが低いとみなされる。つまり、その選択は個人が社会のなかで生活をしていくには「合理的」でありうる。
しかし、同調は他の情報や異なる意見が出てくるのを抑圧するおそれがある。そうなると、社会的にはコストが大きく、それは時として破滅的な結果をもたらす。しかも、その危険は今ネット空間を通じて大きくなっている。なぜなら、ネット空間においては、自分と似通った考えをもつ者同士が集まって、自分と同じ(または聞きたい)意見や情報ばかりを目にすることが日常的に行われるからだ。その結果、情報が偏るだけでなく、自分(たち)とは異なる意見やその根拠となる情報が受け容れられないようになるおそれがある。
この種の同調圧力は、討議に基づくデモクラシーを機能不全に陥れる可能性があると著者は言う。逆に言えば、民主主義国家が権威主義国家に対して優位を保てるかどうか──新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックのなかで話題になった争点──は、それを回避できるかどうかにかかっている。日常的にも同調圧力は、政治経済におけるイノヴェーションを減退させ、さらには集団として共有する情報の質を著しく損なわせ、結果として大きな間違いをおかしうる。そのリスクは議会や政党だけでなく、企業やサークルなど、社会にあるさまざまな集団にあてはまる。その事実を踏まえれば、わたしたちが今、本書を通じて「同調」について考える意義は決して小さくないだろう。
【キャス・サンスティーン『同調圧力 デモクラシーの社会心理学』(白水社)より】