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不登校の原因は「大人」、元不登校の編集者が『迷走ソーシャルワーカーのラプソディ』を読んでほしい理由

記事:明石書店

山下英三郎『迷走ソーシャルワーカーのラプソディ』(明石書店)
山下英三郎『迷走ソーシャルワーカーのラプソディ』(明石書店)

不登校は“子ども同士の問題”だけが原因ではない

 80年代からスクールソーシャルワーカーとして、学校に行けない/行かない子どもたちとかかわってきた山下英三郎さん(本人は権威性から距離を取っているので、先生と言ってくれるなというタイプです、そんなところも尊敬)。そんな山下さんのエッセイの原稿を読んだ時点で、私はもう泣いたわけですが、その理由には、こんなに子どもの生きづらさについて理解してくれている大人がいたのかという安心に似たものがありました。

山下英三郎さん
山下英三郎さん

 この本のなかで山下さんは、子どもたちを分析するというよりは、子どもたちが生きる環境を作り出している大人たちの責任を問うています。

 私は、メディア等で不登校が取り上げられる時、いじめとあわせて取り上げられることが多いと感じてきました。いじめというのは、分かりやすく悪者がいて、メディアの注目も集めやすい。そしてなにより、それは“子ども同士の問題”であり、“第三者である大人”は、その立場からどうすべきかという意識を大人に持たせているように感じていました。

 しかし、2020年に文科省が発表した調査結果で、学校に行きづらいと感じ始めたきっかけの回答は、小学生において「先生のこと(先生と合わなかった、先生が怖かった、体罰があったなど)」が最多、中学生でも、「身体の不調」「勉強が分からない」「先生のこと」という順番です。私自身、学校に行かなくなった理由の1つに当時の担任の存在があります。そして、自分はいじめられたわけじゃないのに、明確にコレが原因だと言えることがないのに、不登校になるなんておかしいのだろうかとも思っていました。それはメディアが偏った情報を流していたという証左だと、今ならそう思います。

 もちろん、いじめは存在しますし、被害者の自殺という結果になってしまった事件が何件もありますから、メディアも意図的にそうしたというよりは、現実の一部しか見えていなかったのでしょう。前述の調査でも、「友達のこと(いやがらせやいじめがあった)」という回答は、小学校において25.2%、中学校において25.5%あります。とはいえ、それがすべてではないのです。また、加害者の子どもも、子どもです。その子たちの意識や行動に、周囲の大人の影響がないわけがないのではないでしょうか。子どもたちの行動に大人の責任がないことは、ないのではないでしょうか。

(※今現在いじめられている子がもしこれを読んでいたら、あなたに加害行為を行う相手を思いやる責任は全くないということは伝えておきます)

 つまりなにが言いたいかと言うと、私たち大人は第三者どころか、子どもの生きづらさを生み出している当事者・原因である可能性が高いということです。たとえ子どもと直接かかわる機会がない大人であっても、例えばあなたの行動に苦しんでいる人がいて、それを子どもが目撃した場合、子どもたちが自分の将来に希望が持てないようにしている可能性はあると思います。だから、大人なら全員、社会や子どもに対して責任があります。

 それを認識することが、まず第一歩ではないでしょうか。

不登校の解決=子どもが学校に行く、ではない

 では、私たちは、子どもたちのために何ができるのか。それを大人同士で考えていても、適切な答えは出ないでしょう。まずは子どもたちの声を聞きませんか。

 山下さんは本書で、「学校教育において自信や意欲を高めることができた子どもと、挫折感や劣等感を植えつけられた子どもたちの割合を比較すると、圧倒的に後者の方が多いのではないだろうか」とも指摘していて、この言葉を読んだ時には、赤べこが首を振るように同意したものです。

 そして、「学校へ行かないという選択をした子どもたちのニーズに真剣に向き合うことをせず、不登校という現象にのみ焦点を当て、それをどう解決(子どもたちを学校に行かせること)するかにばかり労力を費やしている教育行政」を批判し、子どもたちの声をちゃんと聞いて、教育現場を柔軟にしていこうと綴っています。

数値をゼロに減らすことに集中するのではなくて、むしろ学校という場の器を柔軟にすることの方が(不登校児の)増加傾向に歯止めをかけることにつながるはずだ。競争主義や成果主義などのビジネスモデルを教育現場で促進すれば、競争に疲れ果ててついていけなくなる子どもたちが出てくるのは当然だし、それに加えて校則に代表される細かい規則などで子どもたちの自由を束縛するようなことがあれば、窒息状態に陥る子たちも多いだろう。

 学校に行きたくないって言ってるのに、学校に行くことが解決とされるって、よく考えるとまぁまぁ地獄じゃないですか? 大人だって1年前後で転職することもあるのに。ここにも、大人たちが自分が原因である可能性を理解していない問題が見え隠れしている気がします。つまり、子ども同士の何かが解決したならば、もう学校に来られるだろうという。とはいえ学校というのは狭い世界ですし、大人の態度・行動とか、謎校則とか、指導という名の抑圧とか、大人が変えなければいけない要素もたくさんあるでしょう。また、大人でいうところの転職のように、代替案があることも大事です。ただでさえ狭くなりがちな子どもの生きる世界を、社会がさらに狭めているということもあるのではないでしょうか。

 そして、子どもたちが直面している生きづらい環境を考えていくと、大人の社会に問題があると感じずにはいられません。すべての人の尊厳が守られることはなく、仕組まれた競争を、特定の方法でのみ勝ち続けた人だけがプライドを保てる社会。よって、子どもたちは生まれた時から、将来そんな競争社会を生きることを見越して、特定の生きる術ばかりを教えられる。そして、子どもたちの社会も競争の日々になっていく。子どもはいつか大人になって生きていかなければいけないのだから、仕方ないと思う人もいるのでしょう。でも、では大人の価値観から変えたいものです。子どもの価値観を大人側に引き込むのではなく。

大学で教鞭をとっていた頃の山下さん(左)。最終講義では弾き語りをしていたそうです。
大学で教鞭をとっていた頃の山下さん(左)。最終講義では弾き語りをしていたそうです。

子どもの成長に成功も失敗もないだろ

 子どもは大人に評価される立場に置かれています。勉強から、生活・性格まで。生活や性格まで一方的に評価されるって、とても怖いことです。そしてそれが進学にも影響して、ひいては人生にまで影響してくるんだから、たまったもんじゃない。

 なにかを学ぶことの目的は、個々人の人生を豊かに、そして社会を豊かにすることのはずです。なのに私たちはずっと競争ばかりさせられている。豊かになるどころか、学歴や職歴の人生のレールが敷かれ、校則があり、それに沿って進んでいくことを期待されている。それゆえに、「子育て」「成功」「失敗」という単語が一緒に使われている文章を見かけることがあります。でも、それは子どもに対してあまりに無礼で失礼。

期待に添う形で成長した子育ては成功で、期待通りに成長しなかった子育ては失敗とするとしたら、親の側のずいぶん身勝手な評価だと思う。

若かりし頃の山下さんと、そのご家族。
若かりし頃の山下さんと、そのご家族。

 教育にかかわる大人だけでなく、保護者、親戚、近所の人など、多くの大人から、ジャッジの視線を子どもは浴びている。「子育て成功法」みたいなタイトルのウェブ記事や書籍が乱立することで子どもの心にどんな悪影響があるか、なぜ大人は考えないのか。

 そして、いろいろな苦しい思いを抱えて、声にならない声をあげている子どもたちは年々増えているにもかかわらず、ここでもまた、大人は自分に都合の良いように責任逃れをしているのではないでしょうか。それが顕著に見られるのが、反抗期についての大人の考え方です。

反抗期というのは、子どもの成長にあたかも不可欠なものとして位置づけられている。だが僕は、反抗期をあるべきモノとして受け止めることはできない。大人がそのようなことを信じているとすれば、それは大人側の怠慢だとさえ思っている。

 権力がある側は、抑圧されている側の声を、自分に都合の良いように変換できてしまう。女性が性暴力被害を訴えても男性優位社会に押し消されるのと同じように、子どもたちの声は大人の権力の前では消されることばかりです。反抗期だから仕方ないという言説も、その1つになっている側面があるのではないでしょうか。

子どもだったことがあるすべての大人へ

 しかし、大人たちも子どもたちの生きづらさに薄々気がついているでしょう。だって、大人になったって、人生は辛い(by レオン 映画『レオン』より)。それはなぜか。誰しもが経てきた子ども時代が、大人になった元子どもたちに影響しないはずはないからです。

 鶏が先か、卵が先かみたいな話になってきてしまった…。とにもかくにも、大人社会が生きやすくなれば、子どもたちも息がしやすくなると思いますし、子どもたちの社会が良くなれば、その子たちが大人になった時に、大人の社会もより良くなっていくはずです。ということは、子どもたちのためにと思えなくても、とりあえず大人である自分が生きやすい社会を作るために声をあげるでも良いのかもしれないし、子どもたちのためにしたことが大人の社会にも良い影響を与えることもあるかもしれない。あれ、これが情けは人のためならず?(ちょっと違います)。

 また、山下さんは本書について、20代、30代でも生きづらさを感じている人に読んでほしいと常々言っていました。大学卒業後に商社に就職するも半年で辞め、その後フォトグラファーになり、植木屋になり、37歳でアメリカのユタ大学大学院に入学し、帰国後は当時日本でまったく知られていなかったと言えるスクールソーシャルワーカーになった山下さん。転職を繰り返す人へのスティグマは、まだまだ日本では強いですが、1946年生まれでそれをしていた山下さんは、そのことについてこう綴ります。

当人としては傍で見るほどお気楽に仕事を変わっていたわけではない。むしろ、苦しみに苦しみながら自分がやりたいことや、やれることを必死に求めてあがいていた。真剣に人生に立ち向かっていたと言ってもいい。何をやっても、しっくりこない違和感を覚えながら焦りに焦っていたのに、それを何も考えないで生きているみたいに非難されるのは、僕からすればそれこそお気楽に感じられることだった。

フォトグラファー時代の山下さん。
フォトグラファー時代の山下さん。

 これを読んだ時、共感と、目から鱗の両方でした。私はそこまで転職経験はないのですが、転職回数が少ない人のほうが人生を深く考えているかと言えば、まったくそうではないことは知っていますし、むしろ会社や制度、社会に疑問を抱かなくてすんだ、ラッキーなだけだった人ともいえることがあることも知っています。

 子どもの頃から抑圧され、考えないことを選んでしまった大人、考えなくても社会に適応できた大人もいると思います。でも、そうなれない人は、そうなれないことにもプライドを持って良いと思うのです。山下さんの語る「いろんな意味で安定した道を歩むことが人生の王道であることは間違いないが、脇道に外れてジグザグに歩みを進めることも、つい見落とされがちな路傍の光景に出合うことができるという点で、悪くはないものだ」という真理は、人生のレールがガッチガチの社会において、もっと知られてほしいと思います。

 本書の副題である「いいんじゃない?」は、山下さんの口癖。犯罪とか、自殺とか、いいんじゃない?と言えないことはあるけれど、変化を嫌い、声をあげる人を押さえつけ、暗黙のルールが多い日本社会では、山下さんの「いいんじゃない?」の姿勢が必要とされるし、自分もそんな姿勢を持った大人になろうと思います。

 さて、『迷走ソーシャルワーカーのラプソディ』の紹介記事のはずが、なんだか大人への憤りを書きなぐってしまった感は否めませんが…、そんな憤りを理解したうえで、読んでいると優しい気持ちにさせてくれるのが、この本のすごいところ。さすがスクールソーシャルワーカーとして活動してきた山下さんだと言わざるを得ません。『迷走ソーシャルワーカーのラプソディ』は、生きづらさを抱えているすべての人、社会に責任があるすべての大人に読まれてほしい本です。

文:柳澤友加里(明石書店)

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