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鴻巣麻里香×星野概念トークイベント「まなざしを重ねて見る、聞く、感じる」(前編)

記事:平凡社

新刊を手にする星野概念さん(左)、鴻巣麻里香さん(右)
新刊を手にする星野概念さん(左)、鴻巣麻里香さん(右)

聞かれることのない子どもたちの声を伝えたい

鴻巣:鴻巣麻里香です。福島の一番南の白河市で、おもにスクールソーシャルワーカーとして幼稚園生から高校生までの子どもさんとかかわっています。ソーシャルワーカーとして私がやっているのは、ざっくり言うと、生きていくなかで感じるいろんなしんどさを、とりあえず一旦全部世の中のせいにすることです。その子の中にあるしんどさを一旦外に出して、眺めてみて、「どうしていく?」というスタンスでかかわります。

 ただ、スクールソーシャルワーカーとして会える子たちって、しんどい子たちの一部なので、近所のおばちゃんとして地域の子どもたちと出会いたくて、家でも学校でもない居場所「サードプレイス」となるようなこども食堂を小さな民家で主宰しています。また、サードプレイスって、家があってはじめて機能するものなので、「そもそもその『家』がない」、という問題に少しでもかかわるためにシェアハウス2棟も運営しています。プライベートでは18歳の女の子の母親をしつつ、3匹の保護ねこを育てています。

星野:ぼくは「精神科医など」です。星野概念といいます。精神科医として多くの時間をすごしています。ただ、病院の中だけにいるとできることはあまりないな、みたいな気持ちにだんだんなってきて、診察室で診療しつつ、訪問診療をしたり、医療機関じゃないところにも顔を出して、メンタルヘルスのニーズに突っ込んでいくみたいなことをしています。

 どうして肩書が精神科医「など」なのかというと、精神科医の修行をやる前の10年間くらい、音楽を主体に生活していきたいと思っていたんです。でも、なかなか厳しい世界で思ったようにはいかず、精神科医になりました。今、音楽の仕事もちょっとしていたり、執筆したりとか、そういうことも等しく一所懸命やっているので、「精神科医など」と名乗っています。

鴻巣:医療現場を少しでもご存知の方だとお分かりかと思いますが、じつは医師と、医師の指導を受けて動くソーシャルワーカーには圧倒的な格差があります。だから、今日こうして並んで話すのって結構珍しい機会かなと思います。

星野:そうですね。あんまりないですね。ぼくと鴻巣さんとの出会いは、一昨年、ぼくが仲良くしている京都の福祉の人たちが主催した鴻巣さんの5回連続講座ですね。毎月1回3時間話をされて、ぼくは全回行ったんです。そのときの鴻巣さんの話がすごく面白くて、講座が終わるたびに飲みに行ったりしていました。

鴻巣:飲み会でなくこういう場で話すのは初めてですね。じつは『思春期のしんどさってなんだろう?』をつくるきっかけに、星野概念さんが関係しているんです。

 あるとき京都で星野さんから『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生、2020年、河出書房新社)という映画にもなった本を勧められたんです。それで買って読んで、うちのこども食堂には本をいっぱい置いているので、その本も本棚に置いておいたんです。

 表題作の「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」は、自分が直接傷つく体験をしていなくても、誰かが誰かを傷つけるのを見ることや聞くことですごく苦しくなってしまったときに、人とがっちり向き合うのではなく、距離を置いて遠ざかったりして自分を守っていく若者たちの物語です。彼らのそういう姿にうちのティーンたちが「わかる」って、すごく共感したんです。「自分を加害してくる人がいなくても、誰かが誰かを傷つけているのを見るだけで苦しいし、学校でそういう光景がむちゃくちゃ増えているんです」という話を、本を読んだ子たちがしてくれました。

 学校でいじめ防止の授業があると、「いじめを見逃すな」「傍観者は加害者と同じだ」「勇気をもって『だめ』って言おう」と誰が登壇しても必ず言うんです。そう言われることって、子どもたちにとって苦しいだろうな、そういう苦しさって語られないし、聞かれないなって、子どもたちの話を聞いて思ったんです。そんなときに、本をつくらないかという話があり、そういうことを伝える本にしたいと思ったのです。

「向き合う」をしない

鴻巣:『こころをそのまま感じられたら』は、日々の中で星野さんが経験したことが、とてもやさしい、やわらかい、いい悪いでジャッジせず、それこそ見たまんまのやさしい言葉でつづられています。一方、『思春期のしんどさってなんだろう?』では、大人の逃げ道をがんがんふさぎにかかってきていて、たぶんこの2冊は読んだ印象がぜんぜん違う。ただ、「そのまま」というところは通じるかなと思っています。

 私の本には子どもたち4人のインタビューを掲載しています。その4人以外にも、いろんな子どもたちに話を聞いて本ができあがっているのですが、彼らの願いは、「自分たちが見ているもの、感じていることを、そのまま一緒に見てください、そのまま感じてください」ということなんですよね。

 「思春期の子の育て方」とか、「思春期の悩みのきき方」というような本はけっこうたくさん出ています。「思春期の子どもたちに向き合わなきゃ」という大人の欲求は多いけれども、「子どもたちって、必ずしも大人に向き合ってもらうことを願ってるわけじゃないんじゃない?」とモヤモヤするのです。むしろ「向き合う」じゃなくて、横に並んで、何が見えるか、何を感じるか、何が聞こえるかを見て欲しい、聞いて欲しいんじゃないか。子どもたちの話をきくなかで、そう感じています。

 『こころをそのまま感じられたら』を読んで思ったのは、星野さんって向き合わない感じだなということです。

星野:「向き合う」はしないですね。

鴻巣:向き合う視点じゃなくて、並ぶ。それも、単に並んで同じものだけを見るのではなくて、少し視野をずらして、その人、その子が見えていない部分もちょっと視野に入れて見る、というすごく素敵な角度で日々出会ってる方々と接してるんだなと感じました。

星野:よくわかりましたね! 「向き合う」って、ある種大事なこととされてるような気もするんですけど、向き合って話すというよりも、一緒に同じ方向を向いておきたいんです。

 何で困っているのか、困っていることは何かが分からない、という人もたくさんいます。だから、「困っていることはどういうことなんだろう? 一緒に見てみよう」みたいな感じで、その人が困っているものを見たいんです。「そうか、こういう感じか。でもこういう見方もあるな」とか、そういうことをしていくことが大事だと感じています。

 「向き合う」だと、とくに僕は医師なので、目の前に医者が医者としていると、なんか言いたいことが言えなくなる感じがあって。

 じつはぼく、少し前に蜂窩織炎になったんです。皮膚炎の傷から菌が入って足がパンパンに腫れて、大学病院の皮膚科を受診しました。股関節くらいまで腫れていたので、それを見てほしくて、ズボンをまくろうとしたんですけど、その皮膚科の医師は「ああ、いいんで」みたいに言って見てくれないんです。「薬出しますから」と。

 足が腫れてつらかったのに、白衣を着た人が目の前にいて、「そんなに見ないからな」みたいな気持ちがあるかどうかはわからないけれど、こっちがそう感じてしまって、ぼくは「見てください」と言えなかった。

 そういうことに意識的でありたいと思うんです。診察室で「向き合う」をやると、お話を教えてほしいのに、言えなくなるんじゃないか。だから「一緒に並んで」みたいなイメージでやれるといいなと思っています。

鴻巣:蜂窩織炎の薬は効いたかどうか分かりやすいですけど、私たちがフィールドとしているメンタルヘルスだとか、生きづらさということだと、同じ答え、たとえば「カウンセリング受けましょう」にしても、「休みましょう」にしても、「あそこのあの制度を使ってみましょう」にしても、提示されているのは正解だったとしても、そこに至るまでに自分が感じたこと、言ったことを一緒に見てくれるかどうかで、その正解まで行かないことってすごく多いと思うんです。きいてくれない、わかってくれない人が提案することは、たとえそれが正解であっても受け入れるのは難しいので。

星野:ぼくが出された薬はめっちゃ効きました(笑)。でも、1週間後に受診したときにも、あいかわらず聞きたいことを聞けないような感じで。だけど、血液検査の結果を見て「〇〇のデータは下がってます。治りましたよ、よかったですね」と言われて、「あ、ありがとうございます」とか言って。なんか感謝しちゃうんですよね。だけどモヤモヤは残るんです。

 メンタルヘルスの場合、残るモヤモヤがその後にも影響を及ぼします。「やっぱり相手にされなかった」とか、「助けてほしいということさえ、自分は言えなかった」みたいなことって、傷になるんですよ。そこはすごく大事に考えなきゃいけないというか、対人支援者、援助者としてかかわるときに、ぜったい忘れてはいけないことだと思います。

《後編に続く》

(2023年7月14日、下北沢B&Bにて。構成:市川はるみ)

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