奴隷制後の世界を生きることとは? ――『母を失うこと』訳者あとがき 榎本空
記事:晶文社
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大西洋なら一度だけ近くで見たことがある。ノースカロライナに住んでいた頃、車を三時間ほど走らせて、サウスカロライナのビーチに家族で行った。次女の一歳の誕生日に合わせたから、二〇二一年の初夏だったと思う。友人家族が出不精なわたしたちを連れ出してくれた。海岸沿いにそびえるリゾートホテルをいくつも通り過ぎれば、大西洋が開けている。砂浜を埋める多様な肌の色をした人々、その隙間に花が咲いたように突っ立ったパラソル、子どもたちの歓声、不意の強風に吹き飛ばされたビーチボール、緑がかった海に波の白、空の青。それはどこからどう眺めてみても観光地の平凡な光景に違いなく、わたしもまた、その中の紛れもないひとりだった。ただ、肌の弱い次女のために日陰を作ろうと砂浜で四苦八苦しているときも、海を目指して一目散に走っていく長女を追いかけているときも、ある思いが頭を掠めては、目の前の風景に引っ搔き傷のような違和感を残していた。つまり、こうして人々を懐で抱えるこの大西洋は、かつて夥しい数の黒い積荷となった人間を運び、呑み込んだ、その海ではなかったか、と。それでも海には、糸のように伸びる白い航跡を残して彼方を横切る奴隷船の姿は見えなくて、波に弄ばれる人影だけが浮かんでいた。海の写真を一枚だけ撮った。ピンぼけしたその写真には、ただ水平線のぼんやりとした境界がはるか遠くに映っていた。
大西洋の風景が奇妙なテンポラリティの歪みを伴って見えたのは、すでにあの当時、少しずつ訳していたサイディヤ・ハートマンの『母を失うこと』を読んでいたからに違いない。この本を読まなければ、わたしにとってあの海岸は何の変哲もないビーチだっただろうし、海を長く見つめることもなかっただろう。それを読んでしまえば、世界そのものは変わらないとしても、その世界の見え方やそこでのあり方が一変してしまうような本というのは、たとえばファノンの『地に呪われたるもの』やボールドウィンのエッセイがそうであるように、誰にでもきっとあるものだが、わたしにとって、少なくともここ数年間、そのような存在であり続けたのがハートマンの著作だった。そして、それは確実にわたしだけの経験ではない。
『母を失うこと』を初めて読んだのは二〇一八年ごろ。わたしはノースカロライナ大学にいて、当時受講していたブラック・ディアスポラのゼミで―それは教授が、こういう授業は普通、ギルロイの『ブラック・アトランティック』を最初に読むのだけれど、この授業では最後に読むからと、それが重大な秘密を明かすかのようにニヤッと笑って始まった授業だった―「アフロトピア」と「死者の書」の章が課題として出されたのがきっかけだった。一読して、衝撃を受けた。言葉が親密で、当時頭をどうにか捻りながら学んでいたいかなる理論書とも違っていた。それは最良の小説の手触りにも似て、トニ・モリスン以来の黒人の書き手たちをありありと思い起こさせるものだった。理論というものをここまで美しく書くことができるのかという驚きがあった。わたしはガーナに行ったこともなければ、彼の地についてアメリカ大陸のブラックの人々が保持しているような思慕も羨望も喪失も当然持たないのであるが、ハートマンの言葉の密度と切実さには、自分の内面を抉られるような何かがあった。わたしのよく知る収奪の歴史と、それを唯一の相続物とする人たちの顔が浮かんできた。そうしてわたしはすぐに本を取り寄せ、『母を失うこと』を読んだ。もっと読みたいと思って、翻訳を始めた。それから数年、生活の拠点は沖縄へと移り、わたしが毎日、じっと眺める海は太平洋となったのだが、多くの人々の助けを借り、ようやく翻訳を完成させることができた。
一九六一年生まれのサイディヤ・ハートマンは現在、コロンビア大学教授。これまで三冊の単著を発表しており、二〇〇七年に出版された本書『母を失うこと――大西洋奴隷航路をたどる旅』は、二作目に当たる。二〇一九年にはマッカーサー賞を受賞。最新作の『奔放な生、美しい実験』(二〇一九年、現在翻訳プロジェクトが進行中)は、全米批評家協会賞、批評部門を受賞するほどの評価を受けた彼女の最高傑作。二〇二二年には、アメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出されるなど、研究者として、また書き手としての評価を確固たるものにしている。
ハートマンについて紹介したいことは多い¹⁾。高校生の頃に、詩人のアミリ・バラカにインタビューしたこと。詩作よりも効果的に社会を変革する方法はあるでしょうかと尋ねたハートマンに、バラカは「ある、銃だ」と答えた。ウェズリアン大学やイェール大学大学院で彼女を教えたのが、哲学者のジュディス・バトラーやコーネル・ウェスト、サヴァルタン・スタディーズのヘーゼル・カービーやガヤトリ・スピヴァクなど、一級の学者たちだったこと。ブルーズの研究を志していたハートマンがプロジェクトを変更し、「奴隷制によって作られた世界に生きているという確信²⁾」に駆られて書いたという博士論文をもととしたデビュー作の『服従の場面:十九世紀アメリカにおける恐怖、奴隷制、そして自己形成』(一九九七年出版、未訳、二〇二二年には新しい序文を付した二十五周年記念の新装版が出ている)が、米国における奴隷制の語りを根底から覆したこと。Jay-Zの4:44のミュージックビデオにハートマンを登場させたアーサー・ジャファが、動画を見てこれは誰だと尋ねるJay-Zにこう言ったこと。「今、あなたのオーディエンスの九十五パーセントは、彼女を見てもピンとこないでしょうが、これから五年、十年、二十年もすれば[ハートマンのシーンが]このビデオでもっとも説得力のある瞬間になるでしょう」。
しかしどのように書いてみても、ハートマンがわたしたちに想像することを可能にした領域について言葉を尽くすのは不可能であるように感じるし、同時に、大袈裟な言葉を連ねて彼女の著作を不可侵なキャノンとしたくはない。結局、この本にかかっているのは、アカデミックな知識生産というもの以上の何かなのだから。奴隷貿易について、奴隷制について書いた本なら多いが、「個人的な物語である奴隷制の歴史」を書いた本は少ない。奴隷貿易というカタストロフによってある個人が形成されるというのは何を意味しているのか、わたしたちは本書を通して学ぶ。そしてそれは、ある喪失を、断絶を振り払ってしまうことのできないすべての母を失った人々の切実な思いに対して、きっと開かれている。
『母を失うこと』はひとつの喪を演じるテキストだと思う。ハートマンと確かな歴史的つながりを持ち、しかし何百年も前に大西洋のむこう側でいなくなった奴隷を悼むテキスト。もちろんここで肝要なのは、そうやって手を伸ばそうとした奴隷がどこまでも徹底して不在であるということだろう。もし奴隷の姿があったなら、かつてアレックス・ヘイリーがそうしたように、ハートマンは本書をロマンスとして書くことができたかもしれない。ルーツを回復し、祖先との再会を果たし、歴史と系図の空白を埋めるというロマンスを。しかし、かつて奴隷を収容した要塞でも、市場のあった村でも、奴隷狩りの標的となり堡塁を築いた村でも、奴隷のアーカイヴでも、ガーナの人々との会話でも、奴隷の姿は不在であり、語られないもの、もしくは語りえぬものとしてしか存在しない。こうしてロマンスの世代に乗り遅れたハートマンが書くことを迫られたのは、「不在との出会いの物語」であった。自らの面前で霧散していく過去の痕跡、その喪失の過程そのものを、ハートマンは親密に、葛藤を詳らかにしつつ、綴っていく。もし、自らの歴史を語りえないということが、唯一、自分の歴史について語る方法であるのだとしたら、その物語とは一体、いかなるものであるのか。「母を失う」ことが、ディアスポラの黒人の生の条件であるのならば、かれらはどこに自身との、故郷との、過去との「もうひとつの関係性の言葉³⁾」を見出すのか? 「墓にあって自叙伝を書き起こす」ハートマンが引き受けた挑戦だった。
作家のラルフ・エリスンが「ブルーズは叙情的に表現された個人の破局の自伝的記録である⁴⁾」と書いたことがあったが、この言葉は自叙伝であり、紀行文であり、批評書であり、エッセイである『母を失うこと』の企図をよく表している。ハートマンにとって不可避の破局とは、彼女が「奴隷制の余生」と名づけるものだった。「黒人の生がいまだに、数世紀前に確立した人種的演算と政治的打算とによって脅かされ、損なわれている」ということ。それはまるで天候のようにハートマンの生をも覆い尽くし、ガーナにあってすら、彼女を追いかけ、行く先々で彼女を待っている。母を失うということ、歴史を剝ぎ取られるということ、よそ者であり続けるということ。それもまた、奴隷制の余生だった。本書を訳しながら、そしてわたしはハートマンがこの本の最終章の、最後の数行においてようやく摑み取る瞬間、彼女が果てしないまわり道の末にやっと見出す「もうひとつの関係性の言葉」をすでに知っていたはずなのに、それでもこの旅に、失われたものへの思慕と、見つからなかったものへの悲嘆、そして奴隷を喰い尽くした圧倒的な暴力とその痕跡以外の何かがあるのだろうかと、彼女はこの旅をすっかり諦めてしまうのではないかと、幾度となく疑ってしまった。
そう、本書において読者は何よりもまず、ハートマンのペシミズムをともにすることを求められる。一四九二年以来の近代という世界を可能にした、人を収穫し、使い捨てできるモノへと脱落させる暴力に、そしてその具体的な場面の数々に立ち止まることを求められる。奴隷船のマストに吊るされた少女、人糞が積もって床となった一時収容所、地下牢に押し込まれた少年……。ハートマンが親密に、痛みすら伴って描き出すこれらの場面――事実、ハートマンは、朗読会で「いくつもの地下牢」の章を読み上げていたとき、突然涙があふれ、続きを朗読できなくなってしまったとインタビューで⁵⁾語っている。途方もないかなしみは、書くことによってすら消化できなかった、と。朗読会のあと、ひとりの黒人の老婆が近づいてきて、言ったという、「もう、地下牢を離れてもいいんだよ」――は、ただ単にそれが過去に起こったということでなく、そんな場面がディアスポラの黒人の現在と、そしておそらく未来をも規定しているという点において極めて歴史的なものであり、ハートマンのペシミズムに根拠を与えている。
「少なくともあとひとつ革命でも起こらないかぎりは奴隷制のむこう側に行くことなどできない」とハートマンは皮肉を込めて記すが、それは一八六三年の奴隷解放という出来事がなしえなかったことを知り尽くし、――一作目の『服従の場面』の中心的なテーマだった――公民権運動という頓挫した革命のあとを生きてきたハートマンの率直な気持ちだろう。ブラック・ライヴズ・マター運動を目の当たりにしたわたしたちは、今でこそ監産複合体や刑罰システムを利用した黒い肉体の管理など「奴隷制の余生」の一端を知ることになったのだが、そのような認識を可能にしたのは、二十世紀と二十一世紀の米国黒人の二つの解放運動の隙間に生きたハートマンなどをはじめとする非常にクリティカルな学術的蓄積を行った人々であった。あの路上に会した若い多様な肌の色をした、断固としてフェミニストで、クィアで、トランスな人々が、ハートマンの本を片手に抱えていたとしても、わたしはそれを当然のこととして認識するだろう。もちろんここでわたしたちは、ブラック・ライヴズ・マター運動のあとに、変わらず殺され続けるアフリカ系アメリカ人のことを想起するかもしれない。本書の翻訳中にも、ニューヨークの地下鉄で、三十歳のジョーダン・ニーリーが、元海兵隊員に羽交い締めにされ、殺された。革命は未完であり、奴隷制の余生は続いている。もしくは、わたしたちひとりひとりがその余生を生きるカタストロフと、失敗したいくつもの革命を思い浮かべるかもしれない。
不可避的なペシミズムをひとつの拒否の態度として、あるいは書く際のモード⁶⁾として引き取るハートマンは、しかし、安直なニヒリストではけっしてない。「ある希望、つまり絶望するわけではないが、しかし期待することのない希望(ア・ホープ・ナット・ホープレス・バット・アンホープフル)」というW・E・B・デュボイスの言葉⁷⁾を引きつつ、ハートマンは「ペシミズムとは、希望がないことと同じではありません。そうではなくて、それは、この危機を引き起こした当事者であるその機関に、何かを求めたり、期待したりすることの拒否なのです」と、二〇一八年のトロッペンミュージアムでの講演で語っている。わたしはこの言葉がとても好きなのだが、これはハートマンの著作に通底するペシミズムという調音をよく表していると思う。それはたとえば『母を失うこと』において、奴隷制に関する賠償請求や陳情についての議論に反映されているだろう。
法であれ、政府であれ、世間であれ、「こちらに耳を貸そうともしない人々に向かって懇願」する卑屈を、ハートマンは拒否するのだ。ここに息づいているのは、ハウツーではなく、進歩でもなく、漸新的な改善でもなく、徹底した廃絶(アボリション)ともうひとつの可能性を求めてきたブラック・ラディカリズムのアナーキーな伝統である。ハートマンは語る、「わたしはペシミストで、ワイルドな夢想家なのです⁸⁾⁾」。
そして、アーカイヴの問いがある。アーカイヴは過去について何を語ることを許すのか? もしアーカイヴが奴隷の、母を失った人々の、未完に終わった人々の歴史をかれらの声によってはほとんど語らないのだとしたら、歴史を書くことは無駄なのか? かれらの被った暴力を反復することなく、かれらを記憶する方法はないのだろうか? それとも覚えることは、忘れることよりも残酷な行為なのだろうか? ハートマンの思索実践をその初期から貫いているのは、アーカイヴというテーマである。ここにおいてアーカイヴとは、単に歴史を書くために一方的に活用される資料ではなく、それ自体に主体性を保有した存在として、その権力性が問われる。ある過去について何を言うことができ、何を言うことができないか、誰の声が歴史として認められ、どの出来事が記憶に値するのか、アーカイヴは過去の門番よろしく、管理するのだ。
『母を失うこと』では、たとえば七章の「死者の書」において、読者はハートマンのアーカイヴとのほとんど執拗とでも言うべき格闘を目撃する。ハートマンが忘却から救うことを願った少女の存在を庇護しているのは、「あるニグロ少女殺害の疑い」という数語と、彼女を殺した船長の裁判記録のみ。名のない少女自身の言葉はないし、片足をマストに吊るされたとき、世界がどんなふうにひっくり返ったのかも、糞尿にまみれた自分の身体を拭ったときの柔らかい感触も、彼女に寄り添ったもうひとりの少女がいたかどうかも、最後に残された自由な領域が食事を拒否することになったとき、それを選んだ彼女の決断が勇気だったのか、それとも自棄だったのかも、アーカイヴは沈黙する。そのような歴史の空白と欠如は、奴隷のアーカイヴの、そしてひいては事実というものに依拠してきた歴史という営みそのものの暴力を露わにする。つまり、少女が存在するのは、どこまでいっても〈リカヴァリー号〉の船倉であり、ロンドンの男たちの卑猥な視線を集める半裸の姿としてであり、廃止論者の哀れみの眼差しの先なのだから。こうして少女は再び殺され、ハートマンのアーカイヴとの交わりは「悼みに等しい」ものとなる。
しかし、「死者の書」の章を読んでいただければわかるように、ハートマンは、それでもこの少女について語ることを諦めようとはしない。彼女はアーカイヴの淵にまで歩をすすめ――つまり、アーカイヴが許す言いうることと言いえないことの境界をぎりぎりまで推し開き――、その配列を入れ替え、あらゆる可能性を検討し、そして最終的に少女について、歴史的経験によって担保された親密さと奔放さをもって境界を踏み越え、詩を書くのだ。まるで、奴隷をいつでも捨て荷できる商品としてしか認識できなかったような人々が残したアーカイヴに、いつまでも拘束されている必要などないのだ、と言うように。
「二十八日間、少女はハッチを昇り、ほかのものたちとともに甲板上へと雪崩れ込み、そして食べなかった。岸が見えなくなると、空腹もまた消えていく。四週間も食べずにいると、彼女は夢心地になり、陶酔状態に陥った。発作にも似たつかのまの高揚に、彼女はまるで自分だけの国を見つけたかのように、支配や重荷から解き放たれ、そして運命を自分の手で握っているという心持ちでいた。そんな歓喜が引いていくと、彼女はただのよるべなき少女に戻った」
そんなアーカイヴの限界に叛いて書く方法を、ハートマンはのちに「批評的作話(クリティカル・ファビュレーション)」と名づけている。「出来事の位置づけを錯乱し、既存の、もしくは権威化された供述を転覆させ、起こったかもしれないこと、言われたかもしれないこと、なされたかもしれないことを想像する⁹⁾」、母を失った人々の歴史を書く方法。それは歴史的証言や新事実の発見といった雄々しい営みではないし、声を持たなかった人々の声を代弁するような勇ましい営為でもない。それはむしろ、トニ・モリスンが、奴隷の母親の子殺しを報じる三面記事から、『ビラヴド』という奴隷の物語の傑作を生み出したような、失敗を前提とした、しかし自由で、美しい行為に似ている。それは安直に表象することも、されることも拒否してきた、ブラック・フェミニズムの伝統である。ここにあって出来事と非–出来事、事実と虚構、歴史と文学との境界はかぎりなく曖昧になり、そしてそのことによってハートマンはしばしば伝統的な歴史学者からの予想しうる批判を招くのだが、ないものとされた人々の経験について書こうとする際の不可避的な条件であるそんな混淆と越境を、ハートマンはあの『キンドレッド』で何度も奴隷制の時代にタイムスリップしてしまうデイナのように、自らの片腕を失うリスクを承知で引き取るのだ。ここに、わたしは書き手としての、ワイルドな夢想家としてのハートマンの最良の姿を見る。
『母を失うこと』のあと、ハートマンはそのクリティカルな射程をさらに深化させていく。二〇〇八年、〈リカヴァリー号〉でマストに吊るされた少女とともに死んだもうひとりの少女、ヴィーナスについて書いた、もっと正確に書くなら彼女について書けないことを書いた「ヴィーナス・イン・トゥ・アクツ」という、非常に影響力をもった論文を発表。「批評的作話」という先述の方法論を、ここで提示している。それから二〇一九年、「もうこれ以上奴隷制についての本は書けなかった¹⁰⁾」という告白とともにハートマンは、二〇世紀初頭のハーレムやフィラデルフィアなどの都市部に生きた黒人女性たちの束縛を拒む、自由で、クィアな生の実践をアーカイヴの不在から書き起こした『奔放な生、美しい実験』を世に送り出した。
現代のブラック・スタディーズを代表する著述家のひとりであるハートマンの影響は、アカデミックな世界はもちろん、ほかにもいたるところに散見される。二〇二一年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)では「批評的作話」と題されたインスタレーションが開かれる。日本では『彼女の体とその他の断片』(エトセトラブックス、二〇二〇年)で知られる、現代クィア文学の旗手のひとりであるカルメン・マリア・マチャドや、アジア系アメリカ人のファンタジー作家R・F・クァン、『ダディ』が日本でも上演された気鋭の劇作家ジェレミー・O・ハリスなど、自作でハートマンからの影響を公言する若い世代の作家は多い。また、グッゲンハイム美術館のヒューゴ・ボス賞を受賞したこともあるアーティストのシモーヌ・リーや、現代アーティストとして国際的な評価を受けるカラ・ウォーカーなど、ハートマンの理論的影響は四百年のブラックの人々の歴史と格闘する現代アートの世界にまで広がっている。
肌の色と国籍、ジェンダー、セクシュアリティによる命の序列がますます強固で、致死的、卑劣なものとなるこの日本において、わたしたちが忘れられた死者とともにいることを試み、自らを名づけ直し、ある決然とした拒否の態度を養い、もうひとつの可能性を模索している今、ハートマンの著作が広く、長く、大切に読まれることを願ってやまない。
さて、わたしは目の前に広がる太平洋を長く見つめている。台風一過の海はいつもより荒々しく、吹きつける霧雨がレースカーテンのように海の視界を奪っていく。海を長く見つめれば、過去は蘇るだろうか。かつて軍艦が埋め尽くし、数多の命を飲み込んだ、この海の歴史を語ることはできるのだろうか。それとも、わたしもまた、不在との出会いの物語を書くよりほか、ないのだろうか。過去を語る際に、それも単なる過去ではなく、自ら言葉を残さなかった敗北者の過去を語ろうとする際に不可避の問いは、今、わたし自身が引き受けねばならない問いとして、眼前にあるようだ。この島がいかに戦禍を生きのび、幾重もの支配を受け、土地を奪われ、すべてを失ったのか、未完の闘争が何を成し遂げ、何に失敗したのか、あのとき農民たちの見た可能性がいかなるものであったのか、アーカイヴが過去について何を言うことを可能にするのか、そして痛みの多いカタストロフの余生が、現在をいかに規定しているのか、わたしは書いてみたいと思う。そんな歴史の空白にむけて書くようなままならない試みの傍らには、いつも、ハートマンの本があるだろう。
注
1) 次の記事を参照。How Saidiya Hartman Retells the History of Black Life, Alexis Okeowo, e New Yorker, October 19, 2020.
2) Saidiya Hartman, Scenes of Subjection: Terror, Slavery, and Self-Making in Nineteenth-Century America, W. W. Norton & Company, Inc., 2022, xxix.
3) Interview with Saidiya Hartman, e White Review, June 2020.
4) ラルフ・エリスン『影と行為』行方均/松本昇/松本一裕/山嵜文男訳、南雲堂フェニックス、二〇〇九年、九十七頁。
5) Interview with Saidiya Hartman, e White Review, June 2020.
6) e Tragic Mode: Saidiya Hartman, interviewed by Max Nelson, e New York Review of Books, November 19, 2022.
7) W.E.B. Du Bois, Writings (e Library of America, 1986), 507.
8) How Saidiya Hartman Retells the History of Black Life, Alexis Okeowo, e New Yorker, October 19, 2020.
9) Saidiya Hartman, “Venus in Two Acts”, Small Axe, 2008, no.26(June,) p.11.
10) Interview with Saidiya Hartman, e White Review, June 2020.