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黒人たちの受難 普遍的な痛み、文学は宿す 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年6月〉

東山詩織 Simple bed

 5月25日にアメリカで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺された事件は、世界中に衝撃を与え、黒人の命の尊重と人種差別の是正を訴える「ブラック・ライヴズ・マター」運動がアメリカ全土で力強く展開されている。

 この運動の契機にも黒人の死がある。2012年のトレイヴォン・マーティン射殺事件だ。丸腰のマーティン少年は白人男性に射殺される。だが法廷は犯人に無罪を言い渡す。

 この事件に着想を得て書かれたのが、アフリカ系アメリカ人の新人作家ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの『フライデー・ブラック』(押野素子訳、駒草出版)所収の短篇(たんぺん)「フィンケルスティーン5」だ。

 フィンケルスティーン図書館の外にいた黒人少年少女5人が、白人男性にチェーンソーで首を切断される。ところが大半が白人の陪審員は無罪判決を下す。怒った黒人たちは、殺された人数の「5」を肌に刻んで団結し、被害者の名を叫びながら白人への報復を開始する。

 興味深いのは、主人公の黒人青年が、「黒人らしさ」を意味する「ブラックネス」を10段階で調整できることだ。顔が見えない電話なら1・5まで下げられる。しかし人前では4が限界。つまりこれは、差別する側の黒人に対する偏見に満ちたステレオタイプ、いかにも「黒人的」とされる話し方、服装、動作の指数なのだ。

 短篇の結末で主人公の「ブラックネス」が10になるとき、彼が対峙(たいじ)しているのが銃を構えた警官たちであることはあまりにリアルである。

 人種差別は、個々人をそのかけがえのない固有性を無視して歪(ゆが)んだ人種的イメージに閉じ込め、「他者」や「よそ者」として敵視することから生まれる。そして差別の恐ろしさは、そのイメージを犠牲者の側が内面化してしまうところにある。

     ◇

 昨年亡くなったトニ・モリスンほどそのような差別の機制を考え抜いた作家はいないだろう。黒人を描く文学のあり方を決定的に変えたと言われ、黒人女性として初めてノーベル文学賞を受賞したこの作家を、いま読み直している人は多いはずだ。

 彼女の第一長篇『青い眼(め)がほしい』(大社淑子訳、ハヤカワepi文庫)では、父親の子供を身ごもる黒人の少女ピコーラの悲劇が語られる。

 青い眼があれば自分は美しくなれると信じるピコーラばかりか、白人に辱めを受けたトラウマを抱える父と、裕福な白人家庭で家政婦として働く母にとっても、自らの「ブラックネス」は憎悪すべき汚辱でしかない。そしてこの貧しい一家自体が黒人コミュニティーの中で差別される。

 人々の内輪話が耳元に聞こえてくるような俗っぽさと、詩情豊かな美しい表現が混在するモリスンの〈血肉の通った〉文体は、黒人の経験をステレオタイプとは無縁の微細な陰影を帯びた物語として歌い上げる。

 モリスンの人物たちはみな奴隷制の傷を負っている。奴隷制が廃止されるまでアメリカには〈地下鉄道〉と呼ばれる、逃亡奴隷を支援する非合法組織が存在した。もし地下を走る鉄道が実際に存在したとしたら?

 そんな驚くべき着想から生まれたのが、コルソン・ホワイトヘッドの傑作長篇『地下鉄道』(谷崎由依訳、早川書房)だ。ジョージア州の農園で奴隷として生まれた少女コーラが、地下鉄道に乗り、この組織に関わる人々に助けられながら、州から州へと自由を獲得すべく旅を続ける。

 追跡してくる奴隷狩り人との駆け引きや対決など、物語の運びにはロードムービー的な娯楽性があるが、そのおかげで、作者が史実や史料に基づき克明に描き出す奴隷制や黒人差別の血塗られた惨劇を読者が直視しやすくなる。日常的に奴隷に加えられる凄惨(せいさん)な暴力。女性への性暴力。逃亡奴隷もそれを助ける白人もリンチされて絞首刑にされる。奴隷制を否定する善意の人々ですら、黒人を白人によって導かれるべき劣った存在と信じて疑わない……。

     ◇

 こうした黒人たちの受難の経験をなぜ僕たちは読むのか? たぶんそれらが、すべての〈人間〉につながる普遍性を帯びているからだ。

 警官に膝(ひざ)で首を押さえつけられ、母に救いを求めながら亡くなった人の姿に、僕たちが深く動揺するのは、彼が人種差別の犠牲者であると同時に、虐げられ辱められた者だからだ。彼の命とともに僕たちの中にある〈人間〉も辱められたと感じるからだ。〈文学〉は、人種や言語の壁を越えたそうした普遍的な痛みをつねにその懐に宿し、決して忘れない。=朝日新聞2020年6月24日掲載