最初に訪れるべき「街」――地域百科事典としてのエリア・スタディーズ・シリーズ
記事:明石書店
記事:明石書店
時に我々は「知りたい」という想いにかられ、重い腰を上げて「調べもの」という冒険に旅立つ。
最初は何も知らないから、まずどこへ行けばいいか、そこで何を期待していいか、すれ違った人にどんな振る舞いをすべきか等、分からないことばかりである。
しかし分からないからといって立ち止まってばかりでは何も始まらない。
だから大抵の場合、私は最初に「百科事典」に当たる。これは苦い失敗の経験から生まれた習慣だ。今思い出しても冷や汗ものだが、常識的なことを知らず、その無知にさえ気づいておらず、専門の文献に挑んで撃沈したこともあれば、専門家にインタビューしたことさえある。
百科事典には、私達が知りたいことは書いてない、むしろ知らなくてはならないことが書いてある。
つまり私が知らずに冷や汗をかいた「常識的なこと」の宝庫であり、「調べもの」という冒険で最初に立ち寄るべき「街」のような存在なのだ。
私達は「最初の街」でそうするように、最低限の情報を仕入れ、世界観に馴染み、次にどこへ向かうべきかを決定する。そして最初期の装備(知識)を身にまとい、次の目的地へと旅立つ。
そうした最初の準備を支えてくれる書物は、なにも「百科事典」と名乗るものに限らない。
むしろ、私のように専門がなく、ビギナー冒険者として何度も最初から旅をやり直している者にとっては、いかに「百科事典=最初の街」として使える資料を見出すかが、知的営為の成功を決める鍵となる。
そこで最近は「百科事典=最初の街として使える資料」を、分野・時間・空間という3つで整理している。
このうち「分野」百科事典として最も愛用しているのは、Oxford Research Encyclopedias(OREs)シリーズである。Oxford Research Encyclopedias of Anthropologyのような専門百科事典を25分野まとめたもので、どの記事も査読済み、記事ごとに改訂が続けられているのも良い。
「時間」百科事典として使えるものは、様々な歴史事典の他に、浩瀚な通史シリーズ(『岩波講座世界歴史』やCambridge Historiesシリーズ)がある。
そして「空間」百科事典として突出しているのが、エリア・スタディーズ・シリーズである。
各巻が一つの地域や国をテーマとし、その地域の自然環境、歴史、政治、経済、社会、文化など、多角的な視点から総合的に分析している。執筆者もその分野の専門家が担当しており、最新の研究成果が反映された信頼できる内容となっている。さらに時を経て増補改訂により情報がアップデートされることも特筆すべきだろう。
このシリーズは今や200冊を超える巻数を誇り、世界のほぼ全ての地域を網羅する。アフリカ、中東、アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸と広範囲にカバーし、日本を含む東アジア地域だけでも数十冊がそろっている。
かつてトロツキーは新聞を読む時には地図が欠かせないと言った。梅棹忠夫らはテレビの側こそ百科事典の定位置であるべきだ、と主張した。
メディアからは今もおびただしい新しい出来事(ニュース)が流れ出す。しかし、その意味を捉えるには、「それはどこで起こっているのか」そして「そこはどんな場所なのか」「これまでどんなことが起こってきたのか?」「それを当地の人たちはどのように捉えているのか」といった背景知識が不可欠である。現在を知るために、これらもまた我々が「知らなくてはならないこと」だと言える。
事件はいつもこの地上で起こっている。私たちの生活は、自分では行ったこともない、この先行く予定もない世界のどこかと繋がっている。アジアの片隅から瞬く間に広がった感染症が我々の習慣を一変させ、地球の裏側で生じた戦争が価格高騰を通じて食卓の品揃えを様変わりさせる。こうして世界各地が複雑に分かちがたく結びつき、ある地域で起こったことが遠く離れた地域の生活にも影響を及ぼすうえに、大手メディアの他に無数の人たちがSNSなどを通じて世界の断片を発信し合う今日、トロツキーにとっての地図、梅棹忠夫らの百科事典に当たるものが、ますます強く求められている。
幸いなことに我々はこの必要を満たすものをすでに手にしている。例えば私は、目に止まった事件や出来事が、よく知らない地域に関連していると気づくと、エリア・スタディーズ・シリーズに該当地域の巻があるのを見つけて読み返すようにしている。あるいは、(たとえば「トマト」のような)誰もが知っている事物について改めて考え直すときには、Maruzen eBook Libraryの「エリア・スタディーズ 全巻検索用」を利用して、その文物が登場する複数の地域をピックアップし、エリア・スタディーズの該当巻を電子書籍で入手し全文検索をかける。
つまり、エリア・スタディーズ・シリーズを全巻まとめて「世界地域百科事典(Encyclopaedia Regionum)」として利用するのだ。
エリア・スタディーズは、世界を地域から知る「最初の街」として、私の探究の旅の出発点なのである。