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大学の外に広がる韓国文学 多彩な筆者49人による韓国/K文学の入口

記事:明石書店

『韓国文学を旅する60章』(明石書店)
『韓国文学を旅する60章』(明石書店)

 本書の最大の特徴は、何といってもヴァラエティに富んだ執筆者の陣容である

 「はじめに」で書いたとおり、本書の執筆者49名の顔ぶれはじつに多様である。韓国文学の研究者だけでなく、日本文学、比較文学、そしてテレビの討論番組でお見掛けする国際関係研究者の権容奭氏までいる。寡聞にして氏が韓国現代文学にも詳しいことを知らなかった私は、その造詣の深さに驚いた。

 これだけの執筆陣をそろえることができたのは、3人の編著者(波田野節子・斎藤真理子・きむふな)が知恵と人脈を出し合ったおかげだとひそかに自負している。

韓国文学学科のない大学

 しかし、韓国文学研究者である私にとって、この執筆陣の多様さの背後には、喜んでばかりいられないある事情がひそんでいる。

 これまで、明石書店ではエリア・スタディーズの文学編として『イギリス文学を旅する60章』と『フランス文学を旅する60章』を刊行している。その2冊の執筆者一覧とこの『韓国文学を旅する60章』のそれを比べると、ある違いに気づかないだろうか。前者の執筆者のほとんどが大学の専任教員かその経験者であるのに対して、後者はそうでない方がかなりいるのだ。じつはこれは韓国文学研究が日本の大学制度からこぼれ落ちたために起きたともいえる現象なのである。

 最近ではK文学と呼ばれて、現代小説の翻訳があいついでいる韓国文学だが、もしそれらを読んで魅せられた若者が本格的に大学で勉強してみようと考えたなら、彼/彼女は戸惑うことになるだろう。イギリス文学学科、フランス文学学科、中国文学学科はあっても「韓国文学学科」という学科は見あたらないからだ。

 たとえば、英文科や仏文科や中文科に入った学生はその気があれば大学院に進んでさらに学問を深めることができるし、研究者をめざすこともできる。彼らを指導してくれる専任教員がいて、師から弟子へとつづく学びの伝統があり、研究を職業にしたい若者たちが切磋琢磨する場がある。ところが、日本での韓国文学研究にはこうした場が存在せず、自前で韓国文学研究者を育てることができないのである。

台湾文学との違い

 大学に専任教員のポストがあるかどうかは、研究者層の厚みと学問の蓄積に関わってくる。一例として、中国文学の教員のなかには台湾文学を専攻する方たちがいる。

 1990年代に台湾で民主化が行なわれたあと、台湾ナショナリズムの高揚のなかで台湾文学が注目され、多くの翻訳と著作が刊行された。文学史なら、葉石濤の『台湾文学史(台湾文学史綱)』(2000)、彭瑞金の『台湾新文学運動四〇年』(2005)、陳芳明の『台湾新文学史』(2015)など主要な文学史が次々に翻訳され、日本人研究者たちの共著で『台湾近現代文学史』(2014)が刊行された。

 こうした現象が起きるには、学問的蓄積と研究者の頭数が必要である。韓国でも1980年代末に民主化が達成されたが、同じような現象は起きなかった。そもそも研究者がほとんどいなかったからである。

研究者が不足する韓国文学

 本書に執筆した研究者たちは、白川豊氏や熊木勉氏をはじめとして、80年代から90年代に韓国に長期留学して学位を取得した方が多い。子育てと介護のために留学できなかった私は例外で、かわりに東京外国語大学で長璋吉先生と三枝壽勝先生の文学の講義を聴講した。恩師たちもやはり韓国に長期留学している。

 韓国のある教授は、私の恩師2人と本書に執筆している大村益夫先生を、日本における韓国近代文学研究の「第1世代」、白川氏たちを「第2世代」と呼んだ。(ちなみに私もここに入る)。早稲田大学の専任教員だった大村先生は韓国語を担当され、最後まで文学の講義はなさらなかった。科目がなかったのだ。

 韓国が民主化した90年代になると、多くの大学で韓国語の講座が開かれるようになった。そのおかげで、ポストのあてもなく研究を続けてきた「第2世代」は専任として大学に採用されたが、「韓国文学学科」ではなく、担当科目はほとんど教養コースの韓国語か韓国文化である。

 日本の大学では1980年代まで教養外国語科目が卒業単位の必修枠として守られていたが、韓国語の教養コースが新設された90年代は大学改革の真只中だったので、各大学は語学を初級か中級コースにとどめて非常勤講師に担当させ、専任教員を増やさないよう努めた。それどころか、吹きすさぶ大学改革と合理化の嵐の中で、最近では専任のポストも消滅の危機にさらされている。私が聴講した東京外国語大学では文学の専任教員がいなくなって久しく、現在は客員教員が文学科目を担当している。2人の恩師から指導を受けることができた私は運がよかったのだ。

 というわけで、日本には「韓国文学学科」がなく、若者たちが集う学問の場が存在せず、恒常的に研究者が不足している。『韓国文学を旅する60章』の執筆陣がヴァラエティに富んでいるのは、ある意味ではこれを補うための苦肉の策でもあるのだ。

韓国文学の広がり

 しかし、これは悪いことばかりではない。多様な分野の人たちに執筆していただいたことで、この本は多くの読者にとって韓国文学を身近に感じることのできる本になった。

 あらためて本書の「執筆者一覧」をみれば、翻訳家には韓国語だけでなく英語専門の金原瑞人氏もおられるし、そのほかに作家の中沢けい氏、中島京子氏、星野智幸氏、詩人の佐川亜紀氏、評論家の川村湊氏、四方田犬彦氏、書評家の江南亜美子氏、そしてブックカフェ・チェッコリを運営する金承福氏というユニークな面々だ。

 そもそも文学は研究のためにあるのではない。とくに日本では、文学と言葉を通して隣国を知ろうとする人たちや、日韓の関係修復に役立ちたいと考える人たちがつねに存在してきた。大学とは関わりのないところで、こうした市民によって育まれた歴史を韓国文学は持っているのである。その意味で本書は、いわば市民運動のひとつの集成とも言えるかもしれない。

 ところで、本書の読者は、もう1つの特徴に気づくだろう。執筆者には韓国人が多く、じつに全体の3分の1を占める本書は、まさに「日韓合作」なのである。これはもちろん、両国が地理的に近くて往来が多いせいだが、韓国の近代文学が植民地時代に日本留学生を中心として始まり、その後も日本とのかかわりが深かったという歴史的な背景のためでもある。

 韓国から留学してきて学位を取り日本の大学で教鞭を執る人も増えているし、サバティカルを日本での研究にあてる韓国の教員もいる。いまや、日本における韓国文学研究者の「第3世代」は、韓国で学んだ日本人と日本で学んだ韓国人の混成である。こうしたハイブリッド性は研究者の視点を複眼化する一方で、韓国の研究者たちとの連携を強めてくれる。最近日韓の研究者交流がさらに深まっているのはこうした環境のおかげである。

 本書も日韓の女性編著者3人のネットワ ークによるものだ。韓国フェミニズムと韓国文学が発するエネルギーと、政治状況にかかわらず強まっていく日本と韓国の文化の結びつきを、本書は象徴している。本書から韓国文学の「現在」を 感じとっていただけるなら、これにまさる喜びはない。

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