「ディープ・インディア」の深遠な世界へ 担当編集者が語る『インドを旅する55章』
記事:明石書店
記事:明石書店
本書は、これまでに刊行されてきた「エリア・スタディーズ」のなかでも、いろいろな意味で中身の濃い1冊と思います。
なんといっても、執筆陣があまりにも多士済々です。そこで執筆者の魅力をさらに引き出すため、巻末の「執筆者紹介」では従来の所属や肩書を記すのはやめ、これまでのインドとの関わりを書いていただくことにしました。みなさん、インドにはまったきっかけや経験を書いてくださり、あらためて読んでみると、こんなにさまざまな日本人が同時代に生きていたのだと、ただただ感嘆しました。わたしも同時代人の中では少し変わった経験をしたとひそかに思ってはいましたが、とてもとても、足元にも及びません。ぜひ、本書を購入された方は、まず「執筆者紹介」からお読みいただき、それから本書の各章・各コラムをお読みになったら、一味も二味も違ってくると思います。これは、担当編集者からのおすすめです。
また、本書は具体的な旅行案内も書かれていますが、全体としてインド各地を巡る旅行ガイドではなく、インドという世界・空間を巡る「たび」について書かれているように思いました。
編集を担当させていただき、なぜか心に残っている一節があります(第19章)。
それは宮本先生がインド留学中にインド哲学とサンスクリット文学を習った、ブラーフマン(バラモン)の先生の演劇に参加したときのことです。ブラーフマンの先生が催した戯曲に参加した際、楽屋で「聖紐(せいちゅう)*」を新しいものに取り換えることになりました。
誰かが『宮本君はそもそもブラーフマンではないから、必要がないし資格もない』と言ったのである。聖紐はブラーフマンであることのアイデンティティーの証であるからその通りなのだが、ほかの誰かが『彼は長く我々の仲間として練習してきてサンスクリット語を話すのだから、聖紐を掛けてもよいではないか』と応酬した。楽屋中で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が続いたが、先生が入ってきてあっさりとこの問題を解決した。私は王様のような老人役で、サンスクリット劇では数少ない上着を着て演じることになっていたので、とりあえず聖紐は必要ないということに落ち着いた。問題が解決したわけではないが、ブラーフマンたちにとってナーヴァスな問題は避けられたわけである。……
わたしには難しいことはわかりませんが、いくら長年付き合って互いをわかっていると思っても、このように外部の人間と大多数の論理がぶつかった時に、するっと避けるというか、身をかわすという知恵にひきつけられたのかなと自己分析しています。
*ジャネーウーまたはヤジュニョーパヴィータといい、ブラーフマン、クシャトリヤ、ヴァイシュヤの男子が入門式(日本の成人式にあたる)のあと、左肩から右脇腹にかけてタスキ状に掛ける紐。この儀式をすませた者は「再生族」(二度生まれの者)と呼ばれ、それ以外の人びととの差別化の証とした。(本書134ページ)
本書は、その「旅のはじめに」や「旅のおわりに」をお読みいただければわかるのですが、企画段階から数えると、諸般の事情で長い年月を経て刊行に至りました。その間、執筆者の皆様には本当に辛抱強くお待ちいただき、また、担当編集者も私の前に何人かいて、どういうめぐりあわせなのか、私が最終段階で担当することになりました。
ところで、このインドの旅は、本書の刊行後、最後の最後で思わぬ出会いをもたらしました。現在、編者の宮本先生は国際仏教大学院大学でサンスクリット語をおしえていらっしゃるのですが、そこに年配の方が生徒としていらっしゃり、雑談をしていると、なんとその方が、わたしが遠い昔、都立の工業高校の生徒だったときの恩師ということが分かったとしらせていただきました。
高校を卒業してから、すでに40年以上も経ってから、『インドを旅する55章』を担当させていただいたことで、かつての恩師の消息までわかるとは……。本書はどこか人を引き寄せる力を持っているのかもしれないなと思います。本書の最後の編集者が私にめぐってきたことが、この出会いをもたらすためであったのかとも思いたくなるような出来事でした。
おひとりでも多くの読者が本書を手に取られるのを願ってやみません。