人びとは共感を、どのように経験し、また言語化してきたのか――。
記事:平凡社
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〈共感力〉という言葉があります。この数年で頻繁に耳にするようになりました。「パワーワード」とも言えるでしょう。共感という言葉に、これもはやり言葉である「○○力」を加えた造語なのでしょう。「力」という言葉が加わったことで、共感とは何かという理解にも微妙な変化が生じたように思います。
最近、「他者に共感する力を身につけよう」、「共感する力を伸ばそう」と説く、啓発書やウェブサイトが目に入ることが多くなりました。共感は、人が人として身につけるべき能力や技術として理解されているようです。共感できることは、ビジネスにおける対人関係から、大きな国際政治の舞台における国家間の関係まで、さまざまな場面や状況において、異なる人びとが共生していくうえで、不可欠の力だと考えられているのでしょう。さらに、人新世という新たな時代を迎えた人類にとって、共感を向けるべき対象は、同じ人だけに限りません。共感の対象は、伴侶動物、観葉植物、ロボットといった目の前に具象化した存在から、生態系やAIのような個を超越したシステムにまで、拡張し得るのです。
共感礼賛に対して、警鐘を鳴らす議論も、よく耳にするようになりました。過度の感情移入は、誤った倫理的判断をもたらすという批判。共感を求める同調圧力が、息苦しい社会を生み出すという批判。そしてSNSにみられるように、際限のない承認欲求が攻撃性を助長するという批判もあります。結局、共感とは何なのでしょうか。これもまた、共感を「情動的共感」と「認知的共感」とに分けて考えたり、エンパシー(empathy)とシンパシー(sympathy)の違いから考えたりと、さまざまな議論があります。結局、行き当たるのは、「なぜ、今わたしたちは、ここまで共感するよう求められたり、逆にそこまで共感しないよう警告されたりするのか、どうして、共感とは何かにここまで拘泥するようになったのか」という問いです。
『共感の共同体』は、この問いには歴史的な奥行きがあるという考えのもと、過去の人びとは共感というものを、どのように経験し、また言語化してきたのかを、ときに当事者の視点から捉え直そうとするものです。このように本書では、客観的に観察される事象としての共感というよりも、「共感する」という行為としての側面に重点を置き、これを「自他の感情の互換性を信じ、他者の感情を自らのものとして受け入れ、自身の感情を他者も受け入れると想像する行為」と幅広く捉えています。そして、この行為としての共感がもたらす、二つの相反する作用に着目します。
そのひとつは、歴史学においても扱われてきた包摂と排除という問題です。「共感の輪を広げる」という表現があるように、共感することは、共同体の中に新たな人びとを受け入れたり、取り込んだりする作用をもっているでしょう。しかし、これまでも指摘されてきたように、包摂と排除は表裏一体の関係にあります。たとえば、比較的最近の造語として、ヒンパシー(himpathy)があります。性差別や性犯罪の被害にあった女性に対してではなく、それを行った男性に対しての共感を表現した言葉です。このような言葉がつくりだされたことは、多文化共生や多様性の理念に多くの共感が寄せられる一方で、ポピュリズムやミソジニーもまた一定の支持と共感を集め、社会が分断される状況を、感情的側面から考えるうえで重要な手がかりとなります。
共感することがもたらす、もうひとつの相反する作用とは、拡散と凝集です。先ほどの「共感の輪を広げる」という表現のように、集団的な現象としての共感は、ベクトルが外に向かう現象としてイメージできるかもしれません。しかし、ベクトルが内側を向く現象を想定することも可能です。その場合は、例えばエコーチェンバー現象のように、互いに共感する人びとの間で、観念や感情が増幅され、集団の凝集性が高まることになります。本書に収録された個々の論文は、このふたつの相反する作用に注意しながら、共感が他の要因と絡み合いながら、さまざまな共同体の構築、瓦解、再編を導いてきた歴史を描き出しています。
本書が対象とする時代は、19世紀から20世紀後半となります。この時代は、加速度的に進行したグローバル化と、帝国主義の膨張の果てに経験された二度にわたる世界大戦によって特徴づけられるでしょう。そこで生じたのは、植民地における入植者と先住民との対立や、戦争における敵味方の対立だけではありません。新旧の価値観の衝突がみられた「新しい女」運動や、資本主義原理の流入が軋轢をもたらした村落共同体内、あるいは統合的理念の崩壊に至った国家など、大小様々な共同体の存立基盤が揺らいだのです。この大きな歴史の展開を、史料に立脚した事例研究に基づき、「共感する」という視点から理解することが、本書の狙いです。
(文:伊東剛史)
ところで、本書の副題は「感情史を世界にひらく」ですが、「感情史」は見慣れない言葉かもしれません。「感情史」というのは英語のhistory of emotionsなどに由来していて、直訳すると「感情の歴史」となりますし、「感情歴史学」などと訳されることもあります。(どの訳が正しい/間違いということはありませんが、日本の歴史学界では「感情史」が浸透しつつあるようです。)
「感情」も「歴史」もそう難しい言葉ではないのに、それを組み合わせた「感情史」とはどういうものなのか、パッと思い浮かべられる人はそう多くないと思います。(本書も「感情史を世界にひらく」と言いつつ、「感情史」の定義を明示しているわけではありません。)そこで、この場を借りて、本書の「終章」の「感情史の課題と可能性」に書かれていることを、かみ砕いて説明してみようと思います。
「感情史は歴史学の一アプローチであるが、「歴史学とは、基本的に、実証主義的な学問分野であり、歴史家は過去の時代に生み出された資料〔中略〕から自身の事実を得る」」(p.359)とあります。つまり、たとえて言うならば歴史学は料理と同じで、どんなに腕の良いシェフでも食材がなければ料理は作れないように、歴史家も材料となる史資料がなければ歴史学(歴史研究)はできないのです。食材にも肉や魚や野菜など色々あり、また同じジャガイモならジャガイモでも異なる種類があるように、過去の痕跡としての史資料も実に多種多様です。それらをどのように用いて美味しい料理、面白い研究として仕上げるかが、シェフの/歴史家の腕の見せ所なのです。
ジャガイモと言えば、私(森田)はドイツに留学中、日本食好きのドイツ人ルームメイトのために肉ジャガを作ったことがあります。それらしく出来上がったので、「日本の家庭料理の一つだよ!」と自慢げに披露したところ、ルームメイトは驚いて叫びました。「これが和食なのはおかしいよ!ジャガイモと人参と豚肉は典型的なドイツ料理の食材だよ!」と。確かにそうだねと2人で大笑いしましたが、同じ食材を用いても、どう切ってどのように調理するのか、何で味付けするのかなどによって、全く異なる料理になりえます。歴史学の例に言い換えれば、同じ史資料を用いても、読み解く観点や、どのような文脈において解釈するのか、他にどのような史資料とつき合わせてみるのかなどによって、描かれる歴史像が変わってくることになります。感情史を説明するのに、「感情史という名の「資料の調理法」」(p. 362)と書きましたが、イメージが具体的になったでしょうか。
肉ジャガを和食とみなす理由は、ジャガイモ、人参、豚肉という食材にではなく、醤油やみりん、日本酒などを用いた調理法にある、と言えるとすると、感情史という調理法の特徴は何なのでしょうか。答えは、「感情」に着目して史資料を分析するかどうか、でしょう。醤油にも複数の種類があるように、「感情」も様々に理解できます。例えば、怒りや恐怖といった名前で呼ばれる特定の「感情」に着目した「感情史」の研究もあります。一方、本書は、特定の「感情」ではなく「共感」に注目しています。その際、アプリオリに「共感」を設定するのではなく、「共感する」という行為としての側面に重点を置いている、ということは先ほど述べたとおりです。
では、「共感する」ことに注目して史資料を読み解いて描かれる歴史は、いったいどんなものなのでしょう? 本書では、9人の執筆者がそれぞれに腕を振るって仕上げた成果が提供されています。以下に短い「食レポ」(!?)を書いておきますので、是非、本書をお手に取って味わってみて下さい!
第1章:19世紀プロイセンにおける都市間の裁判所招致合戦をとりあげ、「感情政治」として市民の共感が生み出されるあり方を、「感情体制」、「エモーティヴ」などの「感情史」研究のキー概念を用いながら描く意欲作。
第2章:19世紀の中国でキリスト教を布教する西洋人、キリスト教徒となり同胞に布教する中国人、この二つの集団内部と集団間でのやり取りが鮮やかに示され、共感することの根底にある信頼の重要性が浮き彫りに。
第3章:近世から近代にかけての関東(関八州)を舞台に、百姓が飼っていた牛馬が斃れた場合に自らの土地に埋葬しようとする心情が、賤民組織の身分的特権・経済利害の変容のなかで立ち現れてくる様子は必見。
第4章:国際赤十字・赤新月運動は、19世紀後半のヨーロッパでいかに生まれて広まり得たのか。運動の創設者たちによって人道的な感情が呼び起こされ、共感から行動へとつながる様子が丁寧に描き出されて見事。
第5章:人間の精神活動としての「共感する」という現象は、そもそもどう理解されるのだろうか。この問いを、19世紀後半から20世紀にかけての英語圏における心理学という学問分野の誕生とリンクさせて鋭く解明。
第6章:19世紀末から第一次世界大戦を経て大きく変化するアメリカ合衆国における出入国管理制度に伴う「感情体制」の変遷を、パスポートというモノに焦点を合わせつつ、その持ち主の心情から読み解くことに成功。
第7章:第一次世界大戦期のイタリアにおける性暴力被害、とくに敵兵の子を身ごもったイタリア人女性の中絶をめぐる問題を、読み手の感情を大きく揺さぶる戯曲を効果的に用いて描き出す圧巻の筆致。
第8章:日中戦争期の満洲を舞台とし、軍人の夫を持ち石原莞爾に心酔する日本人女性とお手伝いとして雇った満洲人少女との感情的な葛藤や交流を綴った作品から、日蓮主義や植民地主義の問題に迫る。
第9章:20世紀末のユーゴスラヴィアの解体は民族間対立の必然的な帰結とみなされがちであるが、セルビアとスロヴェニアの事例の検討から導かれる、共感できていたからこそ崩壊したという逆説的な解釈には目から鱗。
(文:森田直子)
序章 他人(ひと)の靴を履く
Ⅰ 共同体の感情的紐帯
第1章 都市共同体の感情政治――19世紀プロイセンの市民と名誉市民
Ⅱ 汽水域の世界の共感
第2章 共感できない人びと――19世紀中国のキリスト教布教における敬虔と信頼
第3章 賤民組織の嘆願書を読み解く――近世日本における身分構造と人獣関係
第4章 「人道的感情」の描かれ方――赤十字運動のふたりの創設者の言説に着目して
Ⅲ 共感を再定義する
第5章 共感は道徳の礎か――20世紀初頭の「エンパシー」誕生前史
Ⅳ 戦争が日常化した世界の共感
第6章 わたしが「アメリカ人」であるために――20世紀初頭~戦間期アメリカのパスポート制度と感情体制
第7章 「敵の子」を守る――第一次世界大戦期イタリアにおける母なる感情
第8章 ユートピアと帝国の狭間――『満洲人の少女』と日蓮主義
Ⅴ 共同体の感情的瓦解と再編
第9章 「同じ」人間が「違ったふうに」考え出すとき――1980年代末ユーゴスラヴィアにおける共感の限界
終章 共感を歴史する