〈ルリユール叢書〉の楽しみ
記事:幻戯書房
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世界とは一種の書物である。自分の国しか知らない人は、その書物の最初の一ページしか読んでいない。――モンブロン「コスモポリット(世界市民)」*
幻戯書房が2019年6月に創刊した「ルリユール叢書」は、2023年11月に刊行されたルイ゠フェルディナン・セリーヌ『戦争』(森澤友一朗訳)で累計50巻に達したという。慶賀の至りである。
一口に50巻と言えば、量としてはまださほどではないと感じる向きもあるかもしれない。とはいえ、1巻ずつの翻訳と解説、編集とデザインにどれだけの手間暇がかかっているかを想像すると、ちょっと言葉を失うには十分な量である。
この機会に、創刊から楽しんできた一読者として、ルリユール叢書の魅力をみなさんにお伝えできればと思う。
さて、どこからお話ししたものか、と迷うところだけれど、まだお手にとったことがないという読者もいると思われるので、はじめに叢書全体の様子を見渡してみよう。
ルリユール叢書は、一言でいうなら海外文学の翻訳シリーズである。海外文学の翻訳叢書といえば、現在も刊行が続いているものに〈新潮クレスト・ブックス〉(新潮社、1998年創刊、既刊120冊/2023年11月20日現在、以下同様)や〈エクス・リブリス〉(白水社、2009年創刊、クラシックスも含めて既刊98冊)、〈フィクションの楽しみ〉(水声社、2006年創刊、既刊59冊)をはじめとするシリーズが思い浮かぶ。ルリユール叢書も含め、これらの叢書は、競合するというよりはそれぞれの特徴を発揮しながら互いに補完しあっている。
また、「海外文学」と言えば一言で済むようだけれど、最大限に考えるなら文字による記録が残る古代から現代までおよそ5千年の古今東西が対象となる。そうした幅のなかで眺めると、いま挙げた三つの叢書は、どちらかといえば私たちの同時代に属する作品に焦点を当てている。ただし、エクス・リブリスの姉妹レーベルである〈エクス・リブリス・クラシックス〉はその名の通り古典的作品を扱っており、例えばラクロ『危険な関係』(1782)やゾラ『パリ』(1898)など、18世紀、19世紀の作品も入っている。
では、ルリユール叢書はどうか。各巻の最後に提示された「発刊の辞」を覗くと、こんな一文が見える。
古今東西の古典文学は、書物という形をまとって、時代や言語を越えて移動します。〈ルリユール叢書〉は、どこかの書棚でよき隣人として一所に集う――私たち人間が希望しながらも容易に実現しえない、異文化・異言語・異人同士が寛容と友愛で結びあうようなユートピアのような――〈文芸の共和国〉を目指します。
書棚でのよき隣人といえば、最近翻訳されたイレネ・バジェホ『パピルスのなかの永遠――書物の歴史の物語』(見田悠子訳、作品社)で、古代のアレキサンドリア図書館について「国境を廃止し、ついに平穏のなかで、ギリシア人、ユダヤ人、エジプト人、イラン人、インド人の言葉が共存していた」と形容されていたのが思い出される。
諍いや戦争の絶えない現在、互いの違いを蔑視・差別するのとは別の人びととのつきあいを考える上でも、文芸の共和国がもつ意味や効果はけっして馬鹿にならないと思う。なぜなら人間が、自分の脳裏に蓄えられた記憶(知識・経験)によって世界を見、判断し、行動を選ぶ生き物であることを思えば、何を読んで世界の見方を育むか、ということは無視しえない営みでもあるはずだから。
話を戻せば「発刊の辞」の隣には、こんなふうにも記されている。
ルリユール叢書は、全集として閉じることのない
世界文学叢書を目指し、多種多様な作品を綴じながら、
文学の精神を紐解いていきます
これらの言葉は、全集のように「これで全部」と完結することのない、「古今東西の古典文学」を集めた「世界文学叢書」という姿を指し示している。これに対して、前世紀に一世を風靡した種々の「世界文学全集」の多くは、しばしば「これこそ読むべき名著」という正典(カノン)を繰り返し提示するものだった(それはそれで意味のあることだった)。秋草俊一郎の『「世界文学」はつくられる 1827-2020』(東京大学出版会)で追跡されているように、時代が降るとともにそうした「世界文学」はやがて終わりを告げ、従来とは異なる多様な地域や言語の文学が目に入るようになって現在に至る。その様子は、例えばW. W. ノートン社が刊行している「世界文学アンソロジー」の版ごとの収録作品の違い、あるいは「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」(全30巻、河出書房新社、2007-2011)のような21世紀に入ってからの全集を見ても実感されるところ。大きく見ると、ルリユール叢書もまた、そうした世界の多様性に目を向けようとする方針であることが分かる。
これが目指される理想、向かっていく方向だとして、目下はどんな状態にあるだろう。現時点での全体像を概観してみよう。
既刊50巻のうち、同一作品を上下巻に分けたものが3組ある。これを考慮すると全47品。ただし短編集やアンソロジーもあるので、この数は巻のタイトル数だとお考えいただくとよい。これまでのところ登場した作家は総勢44名で、最多登場はシラーの3巻、次いでツヴァイクの2巻である(上下巻は1と数える)。生年がもっとも早い人物はルイ゠シャルル・フジュレ・ド・モンブロン(1706-1760)で、同じく18世紀生まれの作家は10名を数える。ついでながら19世紀生まれは29名で、残りは20世紀である。叢書中唯一存命の作家としてエレナ・ポニアトウスカ(1932年生まれ)がいる。
そこにはハーマン・メルヴィルやジュール・ヴェルヌにディケンズ、モーパッサン、ヴァージニア・ウルフにナタリー・サロートといった文学史でお馴染みの面々もいれば、ミステリで名を馳せたドロシー・L・セイヤーズやジョルジュ・シムノンなどもいる。そうかと思えば、ルイ゠シャルル・フジュレ・ド・モンブロンやシルビナ・オカンポ、バリェ゠インクランのように必ずしも現在の日本で広く知られているとは言えない、しかし見過ごせない作品の著者たちもいる。
こういう場合、つい知っている名前に目がいくものだが、叢書を信頼してみると楽しみが増えたりもする。つまり「この叢書に入っているのだからなにかしら興味あるものに違いない」と、そこに現れる見知らぬ作家や作品に手を伸ばして冒険してみるわけだ。いわばガイドとしてのつきあい方をしてみるのも、こうしたシリーズものの醍醐味だ。その点、ルリユール叢書もまた信頼に足るガイドであることは、ここまでの50巻が雄弁に語っている。こうなると、次はどんな作家や作品が登場するだろう、ということも楽しみになってくる。
作品の発表年代を見てみよう。18世紀が8作品、19世紀が18作品、20世紀が21作品という分布。18世紀以降とは、文学史でいえば、ヨーロッパで近代小説がさまざまに試みられ始め、また印刷出版がいっそう盛んになって読者層も拡大してゆく時代に当たる。
年代的に最も新しい作品は、ヌーヴォー・ロマンの旗手、ナタリー・サロートの『子供時代』(1983、本邦初訳)ということになる。ただし、刊行年ということで言えば、セリーヌの『戦争』のように、つい最近、失われた草稿が80年ぶりに姿を現して、2022年になって刊行されたケースもある(同書の刊行にいたる数奇な紆余曲折については「訳者解題」をぜひご覧あれ)。
言語としては、フランス語(17)、英語(10)、ドイツ語(9)、スペイン語(5)、セルビア語(3)、イタリア語(2)、デンマーク語(1)で書かれたものが収められている。中にはコンラッドのようにポーランド出身で執筆に英語を用いた作家や、先ほどのポニアトウスカのようにフランス出身で母語ではないスペイン語によって執筆する越境者もいる。目下のところ、地域としてはヨーロッパの各方面と南北アメリカの作品からなる様子が目に入る。
文章の種類、ジャンルはどうか。最も多いのは長短の小説で、他にも詩、戯曲、評論、エッセイといった各方面のものが収められている。加えて続刊予定のリストにアレクサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)の『コスモス』があり、「おお」と声が出る。探検を通じて地理や自然を探究したフンボルトが、宇宙や地球も視野に入れて私たちが住む世界を総合的に記述しようとした大著である。と、このように創作に限らない分野も視野に入っている様子が窺えて、これは読者としてもうれしい限り。
また、先ほど述べたようにルリユール叢書が扱う範囲は、同時代の只今現在というよりは、その少し前の時代が中心。このことから、ともすると既に翻訳のある作品が多いのではないか、という印象を持つ人もいるかもしれない。実際はどうだろう。これは全体をそのつもりで見てみないと分かりづらいかもしれない。
ルリユール叢書で初めて翻訳された作品、いまのところここでしか読めない作品は少なくない。一例を挙げれば、スタンダールが「片手だけを使って読む類の本」として、少年の頃、祖父に禁じられていたにもかかわらず読んだというネルシアの好色文学『フェリシア、私の愚行録』(福井寧訳)や、実在の女性へのインタヴューをもとに、20世紀前半のメキシコで、望まぬ結婚や夫の暴力に抵抗し、兵士として革命に身を投じ、後には労働者として生きた女性の姿と男性社会を虚実を重ねながら描いたポニアトウスカの『乾杯、神さま』(鋤柄史子訳)など、本邦初訳作品が20ほどある。
また既訳があるもののいまでは手に入れづらい作品も含めると、このリストはさらに長くなり、ルリユール叢書に含まれる書目の大半がこれに該当する。もちろん既訳がいまも書店で手に入る作品でも、翻訳が更新されるのは読者としては大歓迎だ。言語もまた時代とともに変化してゆくものだからだ。
さて、なぜこんなデータをつらつらと並べてみせたかといえば、ルリユール叢書のここまでの様子を大きくイメージするための材料をご提供したいと思ってのことだった。改めて言えば、これはあくまでも50巻まで刊行された時点でのスナップショットのようなものであり、今後、ルリユール叢書に巻が加わるごとに、こうした全体像も変わっていくはずである。
次に本の佇まいを眺めてみよう。大きさは新書を一回り大きくしたような縦長の判型(四六変型)で、これは私の場合ということになるけれど、手に収まりがよい。表紙とジャケットと帯が巻ごとに異なる組み合わせの色で織りなすトリコロールは、いまやルリユール叢書のシンボルとなっている。こうしたユニフォームのように統一されたフォーマットの本では、しばしば本同士の区別がつきがたくなったりもするところだけれど、ルリユール叢書ではそうした混乱は起きづらい。巻ごとにユニークな3色の組み合わせが、書名や内容の記憶と結びつくからかもしれない。
いわゆるジャケット――カヴァーと言ってもよいのだけれど、ここは服を連想させるジャケットを選びたい――に相当する紙は、本の高さに対して少しだけ背が低くしてあり、本の表紙や背の天に刷られたルリユール叢書のロゴが覗くようになっている。そのジャケットには著者、書名、訳者といった基本的な書誌に加えて、丸山有美さんによる作家の肖像画があしらわれている。イラストは、少ない線で特徴を捉えた端正なもので、この叢書に忘れ難いアクセントを添えている。
このポートレイトについては、1人だけ、なんと言おうか、人ならぬ異形として描かれている作家がいる。見ると一瞬ぎょっとするのだが、同巻の「訳者解題」を読むと、その意味が分かって思わず笑ってしまう。どの作家かは読者のみなさんが探す楽しみを残しておこう。
また帯に当たるもう1枚のカヴァーは作品のジャンル(小説、詩など)、地域(メキシコ、フランスなど)、概要、本文からの引用、この作品に触れた人びとの言葉といったパラテクスト(本文の周辺に置かれる各種の文章)が並ぶ。デザインは、小沼宏之さんによるもので、作品のイメージカラーとも言えそうな色の取り合わせも目にうれしい。
本文は二段組のこともあれば、ゆったり一段で組まれていることもある。いずれにしても、天地左右にはそれなりの余白が設けられており、私のように書き込み(マルジナリア)をしながら読む者にもうれしい書容設計なのだ。
各巻に共通の構成にも触れておこう。目次と本文はよいとして、巻末には作家の「年譜」と懇切な「訳者解題」が、場合によっては関連地図もついている。「聞いたことがない作家だなあ」「知らない作品だよ」という巻については、巻末から読むと、これがよい食前酒のような働きをしてくれるのでお勧めしたい。人は馴染みのないものに関心を持ちづらいものだが、作品の位置づけや他の作品との関連を知ると、存外読んでみたい気持ちをそそられたりするものだ。
例えば、発表された19世紀当時広く読まれたという騎士物語、フケーの『魔法の指輪 ある騎士物語』(池中愛海・鈴木優・和泉雅人訳/本邦初訳)であれば、解題で「それまでドイツ文学に未知であった冒険ファンタジー小説というジャンルの原像を示している」といった位置付けや、「『魔法の指輪』から『指輪物語』へ――イギリス・ファンタジー文学成立への影響」という見出しを目にして、俄然興味が湧いてきた、という人もあるだろう。
そういう点では、各巻末に収められている作家の「年譜」は、関連する出来事に加えて同時代の出来事や作品を示しており、このような形でなければなかなか目に入らない、作家や作品のあいだに潜んでいるつながりや同時代性を浮かび上がらせてくれる労作である。この年譜を眺めるうちに、次に読みたい本と出会う読者もいるだろう。それにしても、毎巻よくぞこの年譜作成の手間を惜しまずに続けてくださっているものだ、と見るたび感謝の念とともに驚倒している。
以上、ルリユール叢書がどのようなものかをご案内してみた。最後にまことに勝手ながら、「これから読んでみようかな」という読者に向けて3冊を選んでみたい。最初は10冊をお示ししようと考えたものの、ちょっと欲張りすぎかもしれないと考えを改めて5冊にし、それでも多すぎるのではないかと結局は潔く3冊にしてみた。本当はつべこべ言わずに端から全部どうぞ、と申し上げたいところだけれど、いきなりそんなことを言われても困るに違いない。手にするきっかけになればと思って選んでみた。こんな3冊はいかがだろうか(順不同)。
①トリスタン・コルビエール『アムール・ジョーヌ』(小澤真訳)
②シルビナ・オカンポ『復讐の女/招かれた女たち』(寺尾隆吉訳)
③ヴァレリー・ラルボー『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』(西村靖敬訳)
順にちょっとずつコメントしてみよう。まずは①から。
ヴェルレーヌは『呪われた詩人たち』(〈ルリユール叢書〉、倉方健作訳)で、「呪われた詩人」、つまり価値を見過ごされていた詩人の1人としてコルビエールを取り上げている。「詩句は脈打ち、哄笑し、ほとんど涙は見せず、からかい上手で、法螺を服のはなお上手」とはその評である。ある詩の冒頭をお目にかけよう。
ボブ卿におくるソネ
軽き女の犬、純血のイングリッシュポインター。
ハンサム犬よ、お前が女主人を愛撫するとき、
私は意思に反してうなり声をあげてしまう――どうして? ――お前には分かるまい……
詩人は犬のボブを羨み、これに続いてボブに「立場を入れ替えよう」と提案している。どこまでが冗談なのか真剣なのか分からないようなことを言いながら、彼はすでに「うなり声」をあげる犬になっているようにも見えて可笑しい。『アムール・ジョーヌ』には、こうした詩がたっぷり470ページ分ほど載っている。
②のシルビナ・オカンポ『復讐の女/招かれた女たち』は、無駄のない言葉で、ちょっと不思議な状況を淡々と記した短篇が78篇収められている、これもまた贅沢な1冊だ。例えば「絶滅しない人種」という文章はこんなふうに始まる。
あの都市ではすべてが完璧に小さくまとまっていた。家、家具、仕事道具、店、庭。どれほど進化したこびとたちが住んでいるのかと思って、私は調べてみた。目の下に隈のある男の子が以下のとおり報告してくれた。
安易にそんな比較をしてもいけないと思いつつ、リディア・デイヴィス(『ほとんど記憶のない女』『話の終わり』『分解する』岸本佐知子訳、白水社など)やルシア・ベルリン(『掃除婦のための手引き書』『すべての月、すべての年』岸本佐知子訳、講談社)の文章を読むときに感じる、どこか突き放したような文体と重なる味わいがあるとお伝えしたい。
③のヴァレリー・ラルボー『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』は、書名からは分かりづらいのだが、翻訳論である。聖ヒエロニュムスは、4世紀から5世紀にかけて活動した人で、『ウルガタ』と呼ばれる聖書のラテン語訳を完成したことに因んで、翻訳者たちの守護聖人と位置づけられている。ラルボーは、巻頭で翻訳者が軽んじられていると指摘した上で、こう述べる。
私たちが語りたいのは、知の歴史における翻訳者の役割の重要性についてであり、あるいはこう言ってよければ、翻訳者の有用性についてである。
これは、外ならぬルリユール叢書について、あるいはそれ以外の誠実に取り組まれてきた翻訳について、何度でも確認してよいことだと思われる。では、その重要性とはどのようなことかについては、どうぞ同書をご覧あれ。
さて、創刊以来50巻に達したルリユール叢書とその見所について、不十分ながらご紹介してきた。この「文芸の共和国」が、ますます多様で豊かになることを願いながら、続刊を楽しみにしたい。そのためにも、この楽しみを分かちあえる人がいささかなりでも増えるといいなと思う。この文章が、そうしたきっかけになることがあれば、これに優るよろこびはない。
*冒頭のエピグラフは、フジュレ・ド・モンブロン『修繕屋マルゴ 他二篇』(福井寧訳)からの引用。