いまなぜラブレターか? 『ラブレターの書き方』より 布施琳太郎
記事:晶文社
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読者のみなさまへ
著者である僕自身も活動する現代美術の領域で「学ぶ」と言えば「集まって読書会をする」ことになっていると感じています。しかしそれは違うのではないか、アーティストをはじめとした制作に勤しむ人々の脳内ではもっと奇天烈な思考がなされていたはずではないのか、と考えるなかで、自分なりに思考の実演と解析をすることを試みました。そんな本書『ラブレターの書き方』は書き下ろしの単著であり、今を生きるひとりのアーティストが手がけた制作論(ハウツー本)です。
またもう一方では、現代美術に限らない同時代の表現や文筆が「二次創作」化していることも、僕を執筆へと駆り立てました。簡単に言えば「イケてること」と「既視感」がイコールになった時代に、それが何なのかを血眼になって探して再現するような文化的状況への違和感です。本書のテーマである「ラブレター」は、自分語りからも、社会的な正義についての言説からも、流行からも離れたところで書かれるテクストです。そうした「二人であること」のなかにある言葉は、ソーシャルメディアが浸透して以降の社会において失われたものでありながら、その必要性を論じられる機会が少なかったように思います。
そうした問題意識の元で、僕は、作ることや書くことをはじめ直したい人々のために本書を書きました。これは現在進行形で何らかの創作活動をしている人よりも、かつて何かを作りたいと思っていた人々のための本なのです。
布施琳太郎
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僕はゲームをして、ニコニコ動画やアニメを見て、そこで得た感覚をブログに書くのが好きな少年だった。アクセス数が増えると嬉しかったし、そのための創意工夫が楽しかったんだと思う。ブログの見出し画像を作るのが最初の制作だった。そんな中学生だった。自分の部屋という世界、そこからすべてがはじまった。
だけど、高校をサボって、東京行きの電車に飛び乗って見に行った展覧会は訳がわからなくてワクワクした。それは僕の好きなゲームの宣伝漫画を描いていたイラストレーターの展覧会だった。オープニングイベントとしてライブペインティングをはじめた彼は、壁一面に無数の直線を引きはじめた。抽象的でよく分からなかった。どこにもキャラクターはいない。強いて言うなら漫画のコマ割りの線のように見えたが、それよりは数学の授業のときの黒板に似ているように感じた。陽が沈むまで彼の手元を見ていた。気がついたら壁の上で大きなキャラクターが笑っていた。かっこよくて僕も笑ってしまう。最後にサインをねだりつつ、「最初の直線って、なんだったんですか?」と聞くと、これまで聞いたこともないようなキュビズムの画家の名前をあげながら「ダブステップって音楽知ってる? あの感じでさ、絵を描きたかったんだよね。クラブで音楽を聴く感じで、画面のなかを踊りたくてさ」と彼は答えた。
キュビズムもダブステップも知らなかったし、クラブなんて行ったこともない。どうして前世紀の絵画の表現様式とコンピュータで作られるダンスミュージックが、彼のイラストレーションと関係するのか分からなかった。だけど、あのときの僕は確かに興奮していたように思う。家に帰ると、彼が教えてくれたミュージシャンの曲を聴きながら、キュビズムについて調べた。画面を横切る線が、音楽と重なり合って見えた。パソコンの前で少しだけ頭を揺らすと、心拍数が上がる。それから僕はゲオに通ってDVDとCDを借りるようになった。ひたすらブックオフで立ち読みした。YouTubeやTumblrを巡り続けた。自ら進んで展覧会や実験映画を見るようになった。全部がメチャクチャで訳が分からなかったけれど、そういう営みが世界にあることを知ったのである。あの日の東京遠征は、その出会いは、かけがえのないものだった。
現在の僕が活動するのは、いわゆる「現代美術」や「コンテンポラリー・アート」と呼ばれる領域である。それは西洋を起点に世界中にひろがっていった芸術表現のあり方の一つだ。しかしこれまでの数百、数千年のあいだに夥しいほどの作品が作られたわけで、普通に考えれば今更なにかをする必要なんてないと思うだろう。ダ・ヴィンチ、葛飾北斎、ロダン、ピカソ。過去には素晴らしい芸術家が沢山いて、既に無数の作品があるのに、まだ何かを世界に付け加える必要があるのか、と。
当たり前だが、最初は芸術の意義なんて考えていなかった。あの日、高校をサボった僕が2時間半くらい電車に揺られて見に行った展覧会で、壁の上にひろがっていった直線たちとキャラクター、そしてキュビズムとダンスミュージック。そういうものたちのあいだを行き来しながら思考して、何かを作るイラストレーターの徹底的な自由に感化されただけである。彼の自由を僕も体験したかった。気がつけば自分はイラストレーターではなくアーティストの道を選んでいたが……それはもしかしたら彼が展示していたギャラリーを運営していたのがアーティストだったことも影響しているかもしれない。絵を描いて、場所を作って生きるのは楽しそうに思えた。だけど理由を決めつけるよりは「運命」って言葉が一番しっくりくる。
今日まで自分なりに活動してきた。作品制作だけでなく批評の執筆、詩集の刊行、展覧会やイベントの企画などをしていると、人が見てくれて、温かい朝食を食べたり読みたい本を買うことができるようになった。とても楽しかった。そうして芸術というのが何なのかを根本的に考えるようになった。そして周囲を見た。そこにあったのは荒廃した世界だった。
望んでいたのは自由である。しかし自由からかけ離れた荒野が周囲にひろがっていた。人が人を縛り、些細な言い間違いを指摘し合って、自分の利益を最大化しようとする地獄。もはや現代美術は、過去の事例や議論の整理か、美的あるいは政治的な良し悪しを示し合うことで、日銭を稼ぐだけの業界内政治の場所になってしまっていた。アーティスト活動は「お仕事」になっていた。誰かに希望を与えることをやめてしまっていた。整理と提案。そんなことがしたくて芸術を志したわけではない。
あの日、壁の上で直線を踊らせていた彼はもっと自由だった。そこで笑っていたキャラクターのようなものを、僕も作りたかっただけだった。彼の言葉は、その制作論は、一人の若者に希望を与えてくれたのである。「世界はもっと面白いんだ」。そういう気持ちになる人が増える活動がしたかった。
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私たちはネットワークへと接続され、世界は断絶されている。それなのに、誰一人として、人類がよって立つための足場を作ろうとしていないのではないか? そんな危機感が胸を焦がす。政治や経済ですら最適かつ最上のシステムを構築できていないのと同じように、芸術もまた未解決なのだ。そうであるなら整理と提案ではなく、実践と挑戦をすべきだという前提すら共有されていないように感じる。芸術のなかでも、最も先鋭的な挑戦が許され、求められ、そして自由な思考へと身を投じることができるのが現代美術だと思ったのだが、それは勘違いだった。もちろん現代美術を通じて多くのことを学んだ。知らなかったことを知って、こうして本を書けるようになった。しかし、もはや現代美術は、ただの産業の枠組みである。
実際、現代美術に限らず芸術は国民国家や企業、既存の社会集団の利益を最大化するための広告装置として用いることができるし、そうして利用されてきた歴史がある。しかしそれだけが芸術の役割ではない。いくつかの表現行為は、そうした広告化に抗ってもきた。むしろ抗わなければ、芸術は広告にしかならないのだ。イラストレーターの彼が、わざわざ個展をして、そこで自分なりに大切だと思う要素たちを組み合わせて実験をする姿は、まさにそうした抵抗だった。衣食住を維持するためにイラストを描くことを仕事にしているのだとしても、それ自体が喜びだとしても、あの展覧会は、彼の線の自由のためにあったように思う。直線からはじめること。それだけのことが一人の若者を遠くまで連れ出してしまったのだ。
しかし気がつけば、同年代で芸術活動や文筆業を行うものたちは、外国語文献の精読と過去の議論の整理ばかりしていた。たしかに重要な仕事だが、私たちの生の困難は置き去りにされている。一方で、そうしたアカデミックな仕事から離れたところで芸術活動を行う表現者たちは、どのようなモードが流行っているのか、流行りそうなのかばかり考えており、そもそも「流行が作られる」ことの原理を問い直さない。つまりゲームのルールを変える気がない。既存のゲームのなかで、それぞれの美学を示し合うだけのシーンに僕は愛想を尽かしている。
だから僕の手にはあまるとしても、人類全体のための足場を組み立てる必要があると思ったのだ。見通しを立てなくてはならない。人々が誘惑され、批判したくなるような足場が必要なのだ。
これから「ラブレターの書き方」を考えることになる本書は、あらゆる領域で思考し、活動し、生活する人々のための制作論たることを目的としている。思考がジャンプして、一見無関係に思える物事が紐づけられていくだろう。過ちを恐れず、自らの専門性から飛び出して、無数のテクストや芸術と出会い直していくことになるだろう。そうして徐々に形作られていくラブレターの歴史。異性愛規範や性関係を超えて再定義される「ラブ」。そして恋人たちの世界。そのための制作論。僕が行うのは、過去や流行の整理でなければ、考えるべきポイントの提案でもなく、あくまで「世界はもっと面白いんだ」という驚きのためだけになされる挑戦であり実践だ。あの日、壁の上で踊っていた線のようにこれ以降の議論は展開されるだろう。
しかし本書のタイトルに惹かれて本書を手に取ってくださった方にとって、この書き出しは違和感があるかもしれない。だがこれ以降、現代美術の話はしない。なぜなら、そんな焼け野原について語るべきことは何もないからだ。だが芸術について語らないわけではない。それはすべての生に関係しうる。
僕は本書を通じて、芸術のなかに、ラブレターという非産業的な枠組みを設定することを試みる。それは、もはや何の役にも立たない現代美術とは異なり、あなたの芸術の制作論、あるいは人生の設計思想となり得るものだ。
これから私たちはラブレターを通じた、世界のリバース・エンジニアリングを開始する。本書『ラブレターの書き方』は、数百年前の西洋社会ではじめての美術館が成立したのと同じように、社会のなかでアクチュアルな芸術の枠組みを改めて成立させようとする試みである。