ひとりの人間のすべて、ひとつの時代のすべてを言葉で表現するにはどうしたらよいのだろうか――。作家、古川日出男さんの新刊「の、すべて」(講談社)は、そんな究極の問いに読者を巻き込む長編小説だ。1991年から30年間の日本を舞台に、コロナ禍といった現実の世相も映しながら大きな物語を描く。
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まずもってつづり出されるのは、大澤光延(おおさわみつのぶ)という名の人物の伝記だ。東京都副知事の息子として生まれた彼は、のちに二世政治家として政界入りし、整った容姿と自信に満ちた弁舌で、将来の首相と目されるようになる。伝記を書くのは、彼をよく知る芸術家。はじめの主題に選ばれるのは、若き日に出会ったひとりの巫女(みこ)との恋愛だった。
「いちばん最初は恋愛小説を書こうと思っていた」と古川さん。だが、恋愛そのものが成り立ちにくい時代に、恋愛小説に説得力やスケールを持たせるにはどうすればいいか。「日本という文化がこれまで抱え込んできた宗教性や政治性が背景にないと、厚みのある愛まで到達できない」と考えた結果、おのずと「政治小説や宗教小説の側面を持った、全体小説的なかたちに向かい始めた」と言う。
恋愛、政治、宗教がごった煮となり、古事記の神話が呼び出され、テロリズムまで起きてしまう。先の読めない展開は、小説のジャンルをやすやすと踏み越える。というより、ジャンルなどはじめから存在しないかのようなふるまいだ。
「ジャンルとは何か」と尋ねると、「窮屈なもの、縛り付けるものでしょう」との答えが返った。そのことを強く意識したのは、現代語訳を手がけた平家物語のスピンオフとして「平家物語 犬王の巻」を書き、「いま我々が考えている能楽と、能楽が生まれたときの有り様のちがいにショックを受けた」ときだった。
未分化なままの表現は、戦国から江戸へと時代を下るほどに整理されていった。「エリートの教養になっていく過程で、ジャンルが権威づけのためのものに変わる。その窮屈さに対する抵抗感があって。人間という存在も、人間社会もごった煮なんだし、ごった煮がないという前提で表現していくのは危険なことだなと思っています」
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もう一つ本作を特徴づけるのは、客観的な語りと主観的な語りが入れ替わり、「スイング」しながら進む点だ。伝記として装われた客観から、伝記をつづる語り手の〈僕〉による一人称の主観、さらに〈わたし〉ではなく〈わたしたち〉という主客のあわいへ。
「客観的に見るのが真実だ」という態度と、「私の見ている世界が真実だ」という立場は一見、相いれない。だが、「客観と主観のたたかいはどちらが正しいかみたいな話になるけれども、ほんとうは客観も主観も両方あるうえで、どこか落としどころのように真実の姿がおぼろに浮かんでくる」と古川さんは言う。
「小説はフィクションだからこそ、おぼろな真実を出しやすい。客観と主観のはざま、あるいはそれらがブレンドされた果てに真実のようなものはちゃんとある、あるけれども、おぼろだよ、ということを伝えるために、小説は存在しているような気がする」とも。
それは、今年4月に筆者となった本紙朝刊の「文芸時評」との向きあい方にもつながっている。「客観だけの批評なんてない」と語る一方、時評では「主観が勝たないように、〈私〉も〈僕〉も選べなくて、(自称詞を)〈自分〉にした」と明かす。書き始めるまでは〈私〉で書くつもりでいたが、「直前になって〈私は〉じゃだめだよ、何か装っている、と思った」。
毎月大量の文章を読む生活は「体力的に大変だし、変な夢ばかり見る」とこぼしつつ、「(作者や登場人物の)年齢とか国とか性別とかに関係なく、〈自分〉がどう反応したかだけで書きたい」。そう話す言葉に、充実がにじんだ。(山崎聡)=朝日新聞2023年11月1日掲載