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ベラルーシの現在を知るために――2020年の大統領選で揺れた“ヨーロッパ最後の独裁国家”

記事:春秋社

アリス・ボータ著 岩井智子/岩井方男訳 越野剛監修・解説『女たちのベラルーシ』(春秋社)
アリス・ボータ著 岩井智子/岩井方男訳 越野剛監修・解説『女たちのベラルーシ』(春秋社)

 東ヨーロッパの小さな国ベラルーシについて具体的なイメージを思い浮かべることのできる日本人は多くないだろう。ベラルーシと国境を接しているのはロシア、ポーランド、ウクライナ、それにバルト三国のうちのリトアニアとラトヴィアだ。これらの国々が、特産品や名所旧跡、歴史上の人物やエピソードなどによって、それぞれ個性豊かに特徴づけられているのに比べると、ベラルーシは印象が薄く、これといった特徴がない、つまり「キャラ立ち」していないように見える。

 そんなベラルーシが2020年夏に突如としてニュース番組で連日のように取り上げられるようになった。それが本書でくわしく描き出される出来事、ルカシェンコ大統領の非民主的な政治や不正選挙に反対して幅広く展開された政治・社会的な運動である。その主人公となったのはスヴェトラーナ・チハノフスカヤ、マリア・コレスニコヴァ、ヴェロニカ・ツェプカロの3名を中心とする女性たちだった。

 ベラルーシについて乏しい情報の中でこれまでどんなことが語られていたかといえば、たいていは戦争、原発事故、ルカシェンコという三つの話題にしぼられる。ベラルーシの三大厄災ともいえるかもしれない。第二次世界大戦でナチス・ドイツとソ連の戦争はきわめて多くの人命を奪ったことが知られている。ベラルーシはその主戦場のひとつとなった。ドイツ軍の占領下で多くの民間人(ユダヤ人、ベラルーシ人、ソ連軍捕虜など)が殺されており、戦争で人口の四分の一が失われたという。1986年のチェルノブイリ(チョルノビリ)原発事故が起きたのはウクライナ領内だが、風向きの加減で放射能汚染はベラルーシにも広範囲に広がった。チハノフスカヤが生まれた町ミカシェヴィチも汚染地域だったので、本書でも触れられているように、子供時代に富裕層ではなかった彼女が夏休みをアイルランドで過ごすことができたのは保養のプログラムのおかげである。戦争と単純に比較できるものではないが、ベラルーシの人口の五分の一が汚染地域に居住しているという言い方をされることがある。ちなみにベラルーシ、ウクライナ、ロシアでは、汚染濃度が高い居住禁止地域とは区別して、人々が居住の継続か移住を選択することのできる区域が設定されている。

 ここでベラルーシの歴史を簡単にまとめてみよう。10世紀ごろには、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの東スラヴの三民族はまだ明確な区分けができておらず、キエフ(キーウ)を中心にゆるやかな連合体のようなキエフ・ルーシという国家を形成していた。その中で現在のベラルーシの地に存在していたポーロツク公国については、たいていのベラルーシの歴史書が最初のページで取りあげている。しかしこの小さな国はキエフ大公のウラジーミル一世によってあっという間に滅ぼされてしまう。キエフ大公によって無理やり妃にされたポーロツク公の娘ログネダの悲劇はベラルーシのバレエや文学の題材になった。建国神話にあたるべき歴史の序章が亡国の物語になっているところが特徴的だ。ちなみにウラジーミル一世はキリスト教を受容したキエフ・ルーシの名君とされており、ウクライナでもロシアでも歴史上の偉人として重視されている(ウクライナ語ではヴォロディーミル)。他方でベラルーシでは右のような理由からこの人物に対してそれほどの思い入れはないようだ。

 その後、13世紀にベラルーシは新勢力のリトアニア大公国の領域に入った。その支配層はもともとバルト系の民族だが、言語や宗教は住民の多数を占めたスラヴ系が優勢だったので、リトアニア大公国とは実質的にベラルーシ人の国家だったのではないかという議論もある。そのリトアニアはポーランド王国と同君連合国家となり、ベラルーシ(およびウクライナ)は次第にポーランド文化の影響が強まっていく。これらの地域ではギリシア正教会の信仰が優勢でありながら、現在でもカトリック教会が共存しているのはポーランド時代の名残である。同じ時期に現在のロシアはモンゴル帝国の支配下にあったので、この時期に三つの東スラヴ民族の間の言語文化的な差異が生まれたと考えることができる。ポーランド語もスラヴ語派のひとつではあるが、東スラヴではなく西スラヴ語群に分類される。したがってベラルーシ語やウクライナ語とはもともと言語的な距離があったが、主に語彙の面で大きな影響を残している。18世紀になると今度はロシア帝国の力が強まり、エカテリーナ2世の時代にいわゆる「ポーランド分割」によって、ベラルーシ(およびウクライナの主要部分)はロシア帝国に併合されてしまう。

 1917年にロシア革命が起きてから、ドイツの庇護下で1918年にベラルーシ人民共和国が成立するが短命に終わる。その一方で1919年にロシアのレーニン政権の後押しでベラルーシ(白ロシア)社会主義ソヴィエト共和国が作られ、1922年にはベラルーシを構成国のひとつとするソヴィエト連邦が成立した。それまではポーロツク公国やリトアニア大公国のような例はあったが、ベラルーシとして明瞭に同定できる国家が存在していたわけではなかった。ベラルーシ人が形式的とはいえ自前の「国民国家」を持ったのはこの時期が初めてだったといえる。1991年のソ連解体によってようやく名実ともに独立したベラルーシ共和国が誕生する。しかしそれも束の間にすぎず、ルカシェンコ体制下で「連合国家」という枠組みで再びロシアとの結びつきが強まっているのが現状である。

 このように、ベラルーシ人自らが主体として登場できないような歴史がこれまで描かれてきた。戦争にしろ原発事故にしろその主たる要因は外側からもたらされ、その土地に住む人々は受動的に巻き込まれるかたちで歴史に参加することになった。ロシア革命もソ連解体もどこかあずかり知らない場所でシナリオが決定され、ベラルーシ人はそれを後から受け入れたような感がある。ベラルーシに近いところでは、ウクライナやバルト三国も同じような歴史をたどってきたはずだが、これらの国ではナショナリスト的な歴史観が根付いており、自国寄りの偏りは見られるものの、時代の節目ごとに民族固有の英雄が活躍する歴史の物語が創り出されている。ベラルーシにも民族派の知識人は存在しているが、その発言力は弱く、ロシアやソ連との関係に距離をおくようなベラルーシ中心の歴史は国民の間に浸透していない。リトアニア大公国や1918年のベラルーシ人民共和国に由来する白赤白の国旗やパホーニャの国章はベラルーシ人の国民国家の基盤になることができず、むしろ反体制派のシンボルになってしまっている。

 ルカシェンコの独裁者的なふるまいも、ある意味でベラルーシ人の受動的な性質を背景にして生まれてきたものだと考えられる。1991年にソ連の解体が決まった年、ベラルーシが独立宣言を行なったのはロシアやカザフスタンと同じく12月になってからで、他の共和国に比べて遅れをとった。それでもベラルーシの民族主義的なシンボルが復活し、ベラルーシ語を唯一の国家語とするといった政策がとられたが、国民の大多数はそのような急速な変化を望んでいないことが次第に明らかになった。90年代前半の社会的・経済的な混乱の中で、独立した民族の将来への期待よりも、工業化の進展や安定した生活をもたらしたソ連時代へのノスタルジーのほうが優勢になる。ペレストロイカの時期にベラルーシの国会議員になったルカシェンコは大衆の意識をよく理解して、ロシアとの再統合や解体したソ連の枠組みの復活を説くようになる。

 ソ連から独立した民族共和国の多くでは、共産党時代のエリートが引き続き政権を担う例が多かった。地方のソフホーズの指導者でしかなかったルカシェンコはその点では特異な存在だった。若い野心的な政治家として登場した彼は、権力を握る旧体制の政治家を厳しく批判し、汚職政治との闘いをアピールした。社会主義の制度や理念への回帰を主張する一方で、ソ連的な支配層(ノーメンクラトゥーラ)は容赦なく叩くのがルカシェンコ流であった。結果として大衆的な人気を得たルカシェンコは、1994年のベラルーシ独立後最初の大統領選挙で圧倒的な勝利を収めることになる。

 その後、2001年、2006年、2010年、2015年の大統領選挙でいずれも他の候補に大差をつけて勝利している。そのたびに不正な票の操作が疑われるが、世論調査によれば圧倒的というほどではなくても常に国民の多数派の支持は得ていたようだ。メディアの統制、政敵の排除、野党の弾圧といったあからさまに権威主義的な姿勢と表裏一体の関係にあるのが、無料の医療・教育や手厚い社会保障といったソ連的な政策の実施だ。マッチョで好戦的、家父長的な指導者のイメージは、バチカ(親父)というルカシェンコのあだ名にふさわしい。2020年の選挙は古い父権的なルカシェンコ体制に対して、女性たちが新しいベラルーシの展望を示すという、ジェンダー的な観点からも明確な対比の構図が示されたことになる。

(続く)

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