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マルクスの周縁に見た可能性の中心:私の謎 柄谷行人回想録⑫

記事:じんぶん堂企画室

自宅付近の公園を散策する柄谷行人さん=篠田英美撮影
自宅付近の公園を散策する柄谷行人さん=篠田英美撮影

――柄谷さんは、初期からカール・マルクス(1818~83)について書いてこられましたが、30代で書かれた代表作の一つが「マルクスその可能性の中心」です。文芸誌「群像」(講談社)で1974年4~9月号に連載した後、渡米を経て、帰国後の1978年に単行本になります。すでにお聞きした部分もありますが、最初の執筆のきっかけはなんだったのでしょうか。

柄谷 僕は1960年に東大に入って、安保闘争に参加しました。(第4回参照)マルクスについて真剣に考えるようになったのは、むしろこの闘争が敗北に終わってからです。従来のマルクス主義では説明できないことについて考えた。日本のなかでは、50年代から大まかにいって3つの理論的流れがありました。吉本隆明は、初期マルクスの疎外論に向かった。廣松渉は、史的唯物論を、初期マルクスを乗り越えて再建するものとして読み直した。そして宇野弘蔵に代表される宇野派は、もっぱら『資本論』にマルクスの独自性をみようとした。
僕が文芸批評をやろうと思ったのは、吉本さんがいたからでしょうね。しかし、マルクスの読みに関しては、最初から違っていた。彼が重視した初期マルクスのほうにはいかなかった。その点では、廣松さんの考えに共感していました。僕は東大の駒場寮にいたときから、廣松さんと親しかったからね。さらに『資本論』の読み方については、経済学部に進んで、宇野派に学んだ。要するに、それぞれに影響を受けながら、いずれにも満足できなかった。自分で考えていくしかなかったのです。
74年には連合赤軍事件(71~72年)もあって、世の中では、いよいよマルクス主義も終わりだという雰囲気になりました。しかしだからこそ、僕はマルクスについて考えたかった。それで少しずつ書いてはいたんだけど、僕は文芸評論家だったから、発表の媒体は文芸誌が中心でしょう。文芸誌側には書いてほしいこととか、扱いやすいテーマがあるから、こちらがマルクスについて書きたいから書く、というわけにもいかなかったんです。しかし、その頃には小説について書きたいこともなくなってきていて、自分の考えていることが文芸誌とかみあわないと感じていた。それでじわじわ息苦しくなっていったんだね。そんなときに、文芸誌の「群像」が、好きなことを書いていいというので、マルクスについて書こうと思ったわけです。

――「群像」側の事情で、たまたま連載できたわけですよね。(第9回参照)

柄谷 「群像」にそんなものが載るのは異例だった。ただ、僕の仕事は、思想や哲学の専門誌でも受け入れられなかっただろうね。その意味で、文芸誌以外ではできないものだったといえます。

――柄谷さんは、単行本の「あとがき」でも夏目漱石とマルクスを区別せずに論じると宣言しています。

柄谷 僕にとってはごく自然なことだったけど、特に風変わりというわけでもない。じっさい、当時のアメリカやヨーロッパでは、従来の哲学にはおさまりきれないような思想が、文芸批評において展開されていた。

――書き出しは、「ひとりの思想家について論じるということは、その作品について論じることである」。その作品に書いていない哲学や作者の意図を前提としてはいけないということですね。特に “史的唯物論”を確認するために『資本論』を読むことへの批判から始まります。

柄谷 もともと、 “真のマルクス”なんてものはないんですよ。ただ、僕は大学時代に宇野弘蔵や鈴木鴻一郎といった宇野派の経済学を通じて、マルクスについて見落とされている重要なことに気づいた。それは、『資本論』において着目すべきなのは、物の交換がもたらす観念的な力(物神)だ、ということです。(第5回参照)しかし、従来のマルクス主義では、“中心”は史的唯物論、つまり生産様式論にあると考えられていて、 “交換”の問題は“周縁”に追いやられてほぼ無視されていた。僕はそれを前面に出したんです。そしてそれこそが「可能性の中心」なのだ、と言い放った(笑)。

思想の最新の動向にはうとかった

――「マルクスその可能性の中心」では、マルクスの価値形態論について論じていますね。

柄谷 僕が宇野派から学んだマルクスの価値形態論は、商品同士の交換関係から考えて貨幣が出現する過程を明らかにしたものです。いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”を孕んでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから。

――たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますね。

柄谷 産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆にいうと、交換が成立しなければ、商品に価値はない。マルクスの偉大さは、みんなが当たり前だと思っている“商品”というものの、“奇怪さ”に驚いた、ということですね。

――柄谷さんはマルクスの驚きについて、「商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である」と書いています。

柄谷 商品の謎を突き詰めて考えていくと、商品が持つ物神(フェティッシュ)の力というところに行き着きます。いま僕が考えている交換様式でいえば、C(商品交換)の力ですよね。結局、いまだにその頃と同じことをやっているようなものなんだ。価値形態論について考えたことが、交換様式論に化けた(笑)。

《“交換様式”は、柄谷さんが社会のシステムを交換から見ることで編み出した独自の概念。A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている》

柄谷 そして、もっと言ってしまえば、マルクスの“可能性の中心”は、交換様式A、B、Cを超えた“交換様式D”の問題だったんだと、いまは思う。

――単行本収録の「マルクスその可能性の中心」では、スイスの言語学者で、構造主義にも大きな影響を与えたフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)がしばしば引用されます。

フェルディナン・ド・ソシュール
フェルディナン・ド・ソシュール

柄谷 ソシュールは、言葉の意味というものは他の言葉との関係のなかで生まれると言った。つまり、価値が商品に内在するものでないのと同様に、意味も言葉に内在するものではない。 “差異”から生まれるものに過ぎないということです。ソシュールは、言語を異なる体系の間での“交換”から考えていた。後でわかったことだけど、実はソシュール自身が、言語を経済学とのアナロジー(類推)から考えていたんですよ。
マルクスもソシュールも、交換、コミュニケーションの観点から考えている。マルクスが経済学批判を通じて、経済学にとどまらない問題に至ったと同じように、ソシュールも言語学を超えた問題を捉えていたと思う。彼らは、価値や意味の根源に潜んでいる“謎”に気づいていた。僕にいわせれば、それは交換の謎なんです。

――連載後、米国でポール・ド・マン(1919~83)やジャック・デリダ(1930~ 2004)と出会って、単行本にまとめ直したときには、「群像」掲載時から大幅な改稿をしたんですよね。

柄谷 イェール大学にいたときに、ド・マンの本や、デリダの『グラマトロジーについて』を読んだこともあって、自分の仕事が不十分に思えてきて書き直したくなった。連載を短縮したものをド・マンに認めてもらったけれど、それを改稿して渡すと約束したこともあった。大体いつも僕には、過去の仕事に対する嫌悪があるんだ。そもそもそれを書いたときの関心がなくなっているから、「そんなこと今さら知るか」とか思うし(笑)。

――読み直してみると、「群像」掲載時には、ソシュールへの言及はありませんでした。

柄谷 僕がソシュールを読むようになったのは、ド・マンに会ってからだからね。マルクスの「交換」とソシュールの「差異」が響き合っていることに気づいたことにはじまって、構造主義やポスト構造主義の問題にも取り組むようになった。

――構造主義に関して言えば、「群像」掲載時にもクロード・レヴィ=ストロース(1908~2009、フランスの文化人類学者)は引用していました。

柄谷 そうですか。でも当時は、構造主義にそれほど深い関心はなかったと思う。親しかった三浦雅士(文芸評論家、「ユリイカ」編集長を経て、75年から「現代思想」編集長)なんかから話は聞いていたとは思うけど。そういえばその頃、三浦さんが「柄谷さんのやっていることはジャック・ラカン(1901~81、フランスの精神分析学者)と同じだ。すごい」といって褒めてくれたんですよ。そのときはラカンなんてろくに読んでいなかったから、「三浦くんは物知りだなあ。すごいなあ」と逆に感心した(笑)。当時は、そんなふうに三浦さんが欧米の思想界の最新の動きを教えてくれていたんです。自分から学んだことじゃないの。これも、向こうから来た(笑)。

――最新の思想を追い求めるようなことは、なかったんですか?

柄谷 全然。むしろ、うとい。日本でも外国でも、いつもまわりの人が教えてくれただけ。この時期は三浦さんがいて、90年代に「批評空間」をやっている頃は浅田(彰)くんが教えてくれた。もちろん、この著者が面白いと言われれば、じゃあ読んでみようか、というのはあるけどね。その程度。

もともと持っていた「脱構築」的な発想

――過去の対談などでは、アメリカでマルクスについて考えたことについて、何度か言及されています。

柄谷 アメリカに行く前は、向こうにマルクスを研究している人がいるとは思っていなかった。実際に行ってみたら、やはりあまり話のできる人はいなかったけど、例外はド・マンでした。ド・マンがマルクスに関心があるとは誰も思っていなかったようだったけど、そうじゃなかった。それから、少し後に出会ったフレドリック・ジェイムソンはマルクス主義者です。ただ、当時のアメリカではマルクス主義といっても、基本的にはフランス経由だったと思いますね。

カール・マルクス
カール・マルクス

――米国滞在の後、ヨーロッパ旅行を経て日本に帰国して78年に単行本になるわけですが、改稿は米国や旅先でも始めていたんですか?

柄谷 書き直したのは日本に帰ってからです。思えば、当時はまだ体力があったし、頭もよかったね(笑)。その時期は、原稿用紙に手書きだったから、論文の構成も難しかった。執筆の過程では、いろいろな本を読みましたよ。どんな本かはもう忘れちゃったけど。日本語以外の本も沢山。英語だけじゃなくてドイツ語やフランス語でも。こういうことは、ここ10年くらいで急激にできなくなっちゃったから、思い出すと我ながら羨ましい(笑)。

――ド・マンを読者として想定して書くようになった、とおっしゃっていますね。

柄谷 なにもかもわかっている人だから、緊張感があった。以来、日本で本を出すときでも、外国でも読めるようなものにしようと意識するようになりましたね。

――ド・マンは、フランスの哲学者ジャック・デリダの “脱構築”という考え方を文芸批評の分野で実践して一大潮流を作り出しました。脱構築自体はとても難解なもので、デリダとド・マンでも違いはあると思うのですが、ド・マンについて言えば、文学作品自体を丹念に読み込んで、文章表現などから細かく分析することによって「作品のテーマはこれだ」「全体としてこういうことを言っている」という読み方を批判していくものですよね。一方で、柄谷さんにも、テクストを分析していくことで内部から食い破るような方法は、初期からあるように感じます。

柄谷 そういう言葉は知らなくても、やっていたことが“脱構築”的だったんでしょうね。だから、ド・マンらの仕事にすぐに共感したし、ド・マンのほうでも、自分と同じようなことをやっていると思ったんじゃないかな。そうじゃなかったら、こんな出会いはないですよね。

――改稿した「マルクスその可能性の中心」は、ド・マンも読んだのでしょうか。

柄谷 読んでない。僕のほうで、英訳して渡すことをしなかったから。そうしなかった一番の理由は、本の内容に不満があったからです。完全なものを書きたかった。だけど、それでさらに勉強を続けているうちに、僕の関心は数学や建築にまで広がっていったんです。ある頃までは順調に考えがすすんでいたんだけど、途中で深刻なスランプに陥ってしまった。それで心身の調子を崩して、身動きが取れなくなって、大変な目にあいました。ド・マンから「仕事はどうなっているんだ」と手紙が届いていたんだけど、返事も出せなかった。ところが、そうこうしているうちに、ド・マンは亡くなってしまったんです。

――「形式化の諸問題」から「言語・数・貨幣」、そして「探究」に至るまでに起きたことですよね。こちらについては、また改めてお聞きしたいと思います。

柄谷 そうですね。僕も改めて考えてみます。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、『日本近代文学の起源』についてなど。月1回更新予定)

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