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俳句、小説、演劇、戯曲……。様々なメディアで活躍した昭和の文人の思いをたどる 『久保田万太郎と現代――ノスタルジーを超えて』

記事:平凡社

久保田万太郎没後60年を記念したシンポジウムのフライヤー(右)と、記念論集。
久保田万太郎没後60年を記念したシンポジウムのフライヤー(右)と、記念論集。

久保田万太郎と慶應義塾の関わり

 久保田万太郎(1889~1963)。その名を聞いて、昭和の文壇・演劇界で一世を風靡した文人であることが、どれほど思い出されるであろうか。

 東京府立第三中学校の下級生には、後に親しく交流することになる芥川龍之介がいた。慶應義塾大学では森鴎外や永井荷風の謦咳に触れ、佐藤春夫、堀口大学、水上瀧太郎、小泉信三らと交友を結んだ。1911年(明治44年)に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」が『三田文学』に掲載され、島村抱月の賞賛を得て文壇にその名が知られると、翌年には小説・戯曲集『浅草』刊行、そして『スバル』に発表した戯曲「暮れがた」が有楽座で上演され、新進作家としての地歩を築き始める。様々なメディアに跨がり創作活動を展開する万太郎のスタイルは、その文芸活動の出発点においてすでに示されていたことになる。

 文壇の寵児であった万太郎は、いまでは昭和の記憶とともに色褪せた文人のひとりとして思い起こされるかも知れない。ノスタルジーに染まったともみえる万太郎をめぐるシンポジウムが、2023年12月16日、慶應義塾大学で開催された。没後60年を経て、なぜ慶應義塾大学でシンポジウムなのか。荷風という師に巡り会い、『三田文学』の編集にあずかり、文学部予科で嘱託講師として作文の教鞭をとった。作家としての揺籃期を涵養した母校に対して万太郎が抱いた想いは、彼が著作権収入の全てを贈ったことに顕現する。万太郎の没後、慶應義塾文学部に「久保田万太郎記念講座」が設置され、佐藤春夫、西脇順三郎を嚆矢に、土岐善麿、江藤淳、山本健吉、吉川幸次郎、吉増剛造から秋元康、荒俣宏まで数多くの講師を招聘し、1964年から2020年までの長きにわたり、のべ一万人にも及ぶであろう受講者たちに、躍動する文芸の息吹を伝え続ける機構となった。その「久保田万太郎記念講座」の終幕を飾る企画として、シンポジウム「久保田万太郎と現代」が慶應義塾大学で開催されたのである。

『久保田万太郎と現代――ノスタルジーを超えて』(慶應義塾大学『久保田万太郎と現代』編集委員会 編、平凡社)
『久保田万太郎と現代――ノスタルジーを超えて』(慶應義塾大学『久保田万太郎と現代』編集委員会 編、平凡社)

シンポジウム「久保田万太郎と現代」

 万太郎の作品と文芸思想はいかなるものであったのか。陸続と発表された万太郎作品を、読者や観客はいかに受容したのか。その実態に迫るための切り口は一つではない。万太郎がコミットした様々なメディアから見つめることによって、はじめて立体的な万太郎像が結ばれるに違いない。恩田侑布子氏(俳人)、石川巧氏(立教大学文学部教授)、長谷部浩氏(演劇評論家、東京芸術大学美術学部教授)の三名が、俳句、文字媒体としての戯曲と小説、上演される演劇という異なる分野からのアプローチで基調講演を行ったことで、複合的な視点からの万太郎像再構築の意義がシンポジウムの聴衆とも共有されたであろう。

シンポジウムの風景(左から小平麻衣子氏、五十嵐幸輝氏、長谷部浩氏、石川巧氏、恩田侑布子氏)
シンポジウムの風景(左から小平麻衣子氏、五十嵐幸輝氏、長谷部浩氏、石川巧氏、恩田侑布子氏)

 恩田侑布子氏は「やつしの美の大家 久保田万太郎―「嘆かひ」の俳人よさらば」と題して、万太郎の俳句とともに万太郎の人生を辿った。「ひらがなの寒さを言った人は、ほかに知りません」と恩田氏はいう。そして万太郎の俳句には、和歌の本歌取をルーツとして成立した「やつしの美」が体現されており、そこに文学史上の大きな意義を見出すことができると評価する。芥川龍之介が万太郎を評した「嘆かひ」の俳人である、というレッテルを剥がす新たなパースペクティブの提示は、自身も俳人であり、万太郎の俳句集を編纂した恩田氏ならではの説得力に富む。

 恩田氏が最も愛する句は「ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く」であるという。そこには万太郎の遍歴と「やつしの美」が、人生の最後に大きく、しかし静かに重なる叙情がある。「万太郎の俳句には花の香りがあります」と評する恩田氏の講演にもまた、十七文字に込められる日本語の美しさと香りがたゆたっていた。恩田氏の講演をこうして文字にすると、朗々たる恩田氏の声色にこもる瑞々しさが失われてしまうことが惜しまれる思いがする。

 石川巧氏は「久保田万太郎から劇文学の可能性を考える」と題して、戯曲の技巧的側面とメディア的位相からの複合的な再評価の方向性を提示した。万太郎の戯曲のなかには、波乱に満ちた事件は起こらず、上演を目的としなかったと想われる作品がある。岸田国士や菊池寛の批判を受けながらも、万太郎の「事件の起こらない戯曲」「言葉にならない言葉を形にする」という目途は、読みものとしての「ト書き」という創作技法によって結実する。石川氏は「かどで」「ゆく年」「波しぶき」などの諸作品から実例を挙げつつ、ト書きによる「沈黙」が読者を過去にいざなう仕掛けとして機能し、時代に取り残される寂寞感を読者の心に滲ませると指摘し、ト書きが小説と同様の文学表現に昇華されたと評価する。

 関東大震災の復興期、万太郎は数多くのラジオドラマを手がけた。音響や奇抜な状況設定ではなく、言葉のあやだけで戦時下の不穏な空気や民衆の不安に迫り、人間のディテールを描出しようとした。舞台上の出来事は観念を誘発する道具にしかすぎない。それはカタルシスを追求する表現ではなく、舞台の背後に広がる世界や、メインのストーリーとは異なる個々の人物の内面や葛藤やドラマをイメージさせるポリフォニーの位相である、と石川氏は喝破する。言葉の背後を想像して、演出家の目線で舞台の表裏を見渡すこと、換言すれば、芝居の枠組みを外から見通せる主体的な読者や聴衆を生み出すことに、万太郎作品は貢献した。万太郎は「いまここにないもの」に意味を見出すということにおいて、文学の可能性を広げたといえる。そのうえで石川氏は、作品の解析とともに、戦前から戦後への万太郎の文芸・思想上の立ち位置を見直すことが、現代における万太郎の再評価の第一歩となるべきことも提言した。

 長谷部浩氏は、「万太郎と戸板康二―劇作と批評について」と題して、歌舞伎と新劇を往還する演劇評論家としての万太郎について講じた。小説家であり、戯曲作家であり、歌舞伎の評論家である、という横断的な創作・評論活動は、当時珍しいことではなかった。日本演劇社の社長となった万太郎に誘われて『日本演劇』の編集長を務めた戸板康二も同様であり、長谷部氏は戸板をして「万太郎をロールモデルとして生きた」と評する。そうした戸板との関係を起点として、長谷部氏は万太郎像を浮かび上がらせた。「好きな役者、嫌いな役者、嫌いな作品がはっきりしていた」という戸板の万太郎評に触れつつ、戸板が「本当の万太郎は、さびしい人だった」と述べたのは、没後に非難を浴びた万太郎への最大限の擁護であっただろうと指摘する。万太郎の立ち位置の難しさは、万太郎が石川淳に漏らしたという「芝居に関係したら堕落する」という言葉にも現れているという。

 万太郎の幼少時、小芝居の劇場は30以上もあり、万太郎は祖母に連れられて演劇を見て回った。シンポジウムの聴衆は、長谷部氏の「万太郎に関心をもっていたのは二十何年前のこと。万太郎をよく知っている人が生きていたので、直接お話を伺う機会が得られたのはありがたい。懐かしい思い出。」という語り口に誘われ、往時の浅草に思いを馳せたであろう。

有志学生による朗読劇
有志学生による朗読劇

 基調講演の後には、五十嵐幸輝氏(慶應義塾大学文学部独文学専攻)ら有志学生によって、「大寺学校」をアレンジした作品の朗読劇が行われた。令和の若者によって、昭和のノスタルジーが舞台上に繰り広げられる実演は、万太郎作品が時代を超えていかに受容と再生産を果しうるか、会場の聴衆に雄弁に語りかけたであろう。シンポジウムの後半は、恩田氏、石川氏、長谷部氏、五十嵐氏による討論が行われた。登壇者の異なる視座からのアプローチは、小平麻衣子氏(慶應義塾大学文学部教授)の司会によって有機的に紡ぎ合わされた議論となった。

 シンポジウムは、展示「久保田万太郎―時代を惜しみ、時代に愛された文人」(慶應義塾図書館、2023年11月28日~12月23日)、及び『久保田万太郎と現代 ノスタルジーを超えて』(平凡社、2023年)の刊行と歩を一にして企画された。『久保田万太郎と現代』は、三十余名の論考やエッセイが集約された記念誌である。万太郎の交友や人となり、文芸活動の再評価、中国との関わりも含めた戦中から戦後への複雑な立ち位置など、多岐に渉る論点が提示されている。万太郎作品の紹介や作家・演劇家のエッセイも数多く収録されており、久保田万太郎研究の新たな道標となるとともに、これから万太郎に触れてみようという人への橋梁ともなる一冊であろう。

 暮雨。暮れどきの浅草にそぼ降る雨。日露戦争終戦の頃、若き万太郎が用いた俳号である。十代半ばにして、万太郎の句心は暮雨のなかにあった。後にまた、万太郎は傘雨と称した。関東大震災、そして東京大空襲によって焼け野原となった浅草に降る雨のなかで、万太郎は何を想い佇んだのか。

 華やかな受賞歴に彩られる万太郎は、様々な団体の重職を務めた。還暦の祝宴には文芸・演劇界の著名人がこぞって駆けつけた重鎮である。没後、従三位に叙せられ、勲一等瑞宝章を贈られた。そのキャリアは、万太郎文学に通底する「失われてゆくもの」「ここにはないもの」への志向と不整合であるのか、それとも表裏をなすものであるのか。移ろいゆく昭和の浅草で万太郎が感じ続けたノスタルジー。そこに、現代の読書家や観劇愛好家から忘れ去られようとしている万太郎へのノスタルジーが重なるとき、時代と文化の推移のなかで、何かを感じて考える糸口が陽炎のようにゆらめきはしないだろうか。

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