平田オリザが読む
大正文学の牧歌の時代が終わりを告げようとしていた頃、演劇界にも大きな変化があった。
関東大震災の翌一九二四(大正十三)年、「築地小劇場」が開業する。東京壊滅の報を聞いて留学先のドイツから急遽(きゅうきょ)帰国した土方与志(ひじかたよし)が建てた本邦初の近代演劇専用劇場だ。
その前年の七月、岸田国士もフランスから帰国。こちらは約一カ月後に震災に遭遇する。
日本の近代戯曲の父とも言われる岸田は、軍人の家に生まれ士官学校を経て任官、しかし文学への思い断ちがたく親に勘当されながら、東京帝国大学文学部に入学、さらに渡仏。
鴎外や漱石が国家からの派遣留学生だったのに対して、土方や岸田は自費での洋行を果たしている。第一次世界大戦後、日本は民間人が自費で海外渡航できるほどの富を蓄えた。
岸田は旺盛に戯曲を執筆し人気作家となった。「紙風船」はその代表作で、結婚一年目の夫婦の、ある日曜日のたわいもない会話が描かれている。
夫 おれたちは、これで、うまく行つてる方ぢやないかなあ。
妻 もう少しつていふ処ね。
夫 金かい。
妻 さうぢやないのよ。
(長い沈黙)
夫 犬でも飼はうか。
妻 小鳥の方がよかない。
全編がこんな調子だ。演劇は英雄や極悪人が現れなくても、日常会話だけで構成できることを岸田は証明した。日本近代文学が成し遂げた変革を、二十年遅れであったが、彼はたった一人で行った。岸田は一九四○(昭和十五)年、大政翼賛会文化部長に就任する。戦争協力のそしりは免れないが、一方でそれは、移動劇団を組織し若い俳優たちが戦場に送られることを阻止したという評価もある。
土方は反体制運動に回り亡命ののち帰国、敗戦まで牢屋に入る。日本の近代演劇は産声を上げるとすぐに、時代とイデオロギーの大波に翻弄(ほんろう)されることとなった。=朝日新聞2021年4月17日掲載