1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. デンマーク、マルグレーテ女王の突然の退位表明

デンマーク、マルグレーテ女王の突然の退位表明

記事:明石書店

王宮バルコニーのマルグレーテ女王と故ヘンリク王配殿下(2012年1月)
王宮バルコニーのマルグレーテ女王と故ヘンリク王配殿下(2012年1月)

 『デンマークを知るための70章【第2版】』の編集作業をすべて終えたのち、デンマークのマルグレーテ(マグレーテ)女王が、恒例行事となっていた大晦日午後6時の国民に向けたテレビ・メッセージを読み上げる最後の部分で、新年の1月14日に退位することを表明した。父王、フレゼリク9世の逝去を受けて1972年1月14日に、デンマーク王位を引き継ぎ、以降52年間の治世を全うするという区切りをつけた。昨冬以来の体調不良を意識して83歳の女王はその玉座を長男フレゼリク王太子(1968-)に譲った。クリスチャン4世(位1588-1648)の在位期間59年に次ぐ2番目の長さである。 

 デンマークでは、1863年のグリュクスボー王朝の誕生により、王位継承は王となったクリスチャン9世と妃であるルイーセ間に生まれた男子による王位の男系長子相続(Mandlig primogenitur)が規定されていて、その王家内で、「女王」が誕生していった経緯は現デンマーク王室を語るうえで当然記されるべきことである。筆者が、その歴史的経緯を日本デンマーク協会(企画・編集)『東日本大震災から10年の記憶と記録 デンマーク「希望の絆」』(2021)の発行を前に、依頼された寄稿文を提出した際に、不可思議にもその記述箇所が「政治的」であると鉛筆書きされ、編集サイドから削除を求められた。同書では2011年の東日本大震災の3か月後にデンマークのフレゼリク王太子が被災地(東松島市)を早くも訪れ、人々を激励し、復興の励みとなったことなどが主題として扱われ、筆者には王太子を送り出したデンマーク王室の存在と王太子来日にかかわるエピソードを書くことが求められていたと判断してデンマーク王室事情を描こうとしたのであった。

 その削除箇所は以下のとおりである。なお、( )内は本原稿執筆時に加筆した。また、《 》内は削除されなかった本文を示す。

《(第2次世界大戦の)ドイツ占領開始から1週間後に王太子フレゼリク(のちの9世王)のもとに女児、マルグレーテが誕生し、王女は国民の「不機嫌な時代」にあって、人々の「這えば立て、立てば歩めの親心」の対象として、明るい話題を提供してきました。》1953年、憲法改正と王位継承法の変更が国民投票を経て、成立します。当時のデンマークでは、前述のように百年前の王位継承法により、男子のみの王位継承が規定されており、マルグレーテを筆頭に女児3名の父親であるフレゼリク9世王(位1947-72)に対し、1歳違いの弟、クズーズ王太弟には、マルグレーテよりも3か月前に生まれていたインゴルフ王子がおり、継承法の規定では将来クヌーズの家系にデンマーク王位は移っていくことになっていました。政府は、上院を廃止して一院制の国会に移行する憲法改正に合わせて、(親しく)国民とともにあった王家の系譜を確立し、《13歳の快活で聡明な少女マルグレーテを将来の王位継承者に選んだのです。1972年1月14日、国民の歓呼を受けてマルグレーテが「マルグレーテ2世」として王位に上がります。》

 その「政治的」なる忌避理由は、我が国の皇室に話題が及ぶ可能性を排除したのかもしれないが――グリュクスボー王家成立時の不人気を語った箇所(その後の王家の人気上昇を語るための導入的記述)とか、現在のデンマーク王制が、国民の中に20%の不支持があるとか(その数字は、欧州諸王国内の王制不支持率と比較しても、きわめて低いということを述べたのだが)――、がことごとく本文から削除されたことなどを合わせて考えると、協会には筆者の想像が及ばない何か考えるところがあったのかもしれない。

1970年3月11日、王宮広場にて

 さて、私事を書くことが許されるのなら、1970年3月11日にコペンハーゲン大学の留学生であった筆者が自宅宛に書いた書簡にあるマルグレーテ女王の父、フレゼリク9世の誕生日の情景を紹介したい(拙稿「“From Denmark with Love”―デンマークだより―(11)」『旅と俳句』1971)。今や、大半のデンマーク国民にとっても、女王在位以前のデンマークを知らないであろうから。

 今朝、10時半ごろ、自転車で王宮に向かった。街は王の誕生日を祝って赤地に白十字の国旗ダネブロー(Dannebrog)があちこちにたなびき、冬の冷たい灰色の空とは対照的に心をウキウキさせるものがそこにあった。王宮に近づくと、小さな子どもたちが小旗を持ち歩く姿が多くなり、誰もがアメーリェンボー城の広場に向かって磁力で引き付けられるように歩く、歩く。
 おもに子どもたちで広場がいっぱいになったとき、王室の祝い事には特別に赤い服を着る衛兵の行進が近づき、鼓笛隊の音楽が聞こえてきた。正午少し前に背の高いフレゼリク9世が笑顔でバルコニーに現れ、お辞儀をして両手を広げて人々の歓呼にこたえた。両手を口にあてがい大声で子どもたちに向かって話しかけ、腕を大きく振って拍子をとって「Hurra! Hurra!(フラー!フラー!)」の歓声の指揮をとる。そしてバルコニーには王妃、2人の幼児を連れたマルグレーテ王女夫妻が現れて歓声は最高潮に達した。そして王たちがバルコニーから姿を消すと、広場からは子どもたちの大合唱が始まる。「Konge!Konge!Kom ud fra!Ellers jeg er aldrig hjem!(コンゲ!コンゲ!コム・ウズ・フラ! エラース・ヤイ・エア・アルトゥリー・イェム!)」(王様!王様!出てきてよ!さもなきゃ、おうちに帰れない!)と子どもたちはバルコニーを見上げて声を合わせ、王の再度の出を待つ。そして王が、またにこにこしながら現れ、手を振る。その目じりの下がった笑顔は人々を安心させるに十分だ。去年70歳になられたのだそうで青い背広の190センチの姿はすらりとしてスマートだ。バルコニーから姿を消すたびに、「コンゲ!コンゲ!」が沸き上がり、延々と40分ほども王は出たり入ったりを繰り返さねばならなかった。衛兵たちは、熊毛の大きな帽子に赤い上着、白い線の入ったブルーのズボンも美しく、交替式を完了させ、隊列を組んでローセンボー城へと鼓笛隊のマーチに合わせて消えていった。今でも、衛兵たちの行進してゆくリズムが心地よく僕の頭のなかに響いている。

マルグレーテ女王の決断

 そこには、当時2歳に満たない現・新王フレゼリク10世、1歳に満たない弟のヨアキム王子がマルグレーテ王女夫妻に抱かれてバルコニーにいたのである。その息子たちに関わる王室の在り方――民主国家における王室の存在――にマルグレーテ女王がその在位期間の最終段階において、興味深い決定を下したことは注目に値する。一昨年の9月28日女王はヨアキム殿下の子どもたち4名から王族の称号を外し、王族メンバーから離脱させることを発表した(2023年1月1日から実施)。一方、18歳になったフレゼリク王の長男クリスチャン王太子も自ら学生であることを理由に内廷費の受け取りを返上した。また、北欧では、1979年スウェーデン王室での王位継承が男女にこだわらない長子相続制が確立、1990年のノルウェー王室での同様の制度の確立を受けて、それぞれヴィクトーリア王女(1977-)、イングリッド・アレクサンドラ王女(2004-)が将来の王位に就くことが約束されている。デンマークにおいては、女王の後には長子の男子継承者が2代も続くことが明確であったので、王位継承順の「男女平等化」を敢えて公表する必然がないままに時が過ぎ、遅ればせながら同様の制度が採用されたのは2007年で、北欧の民主国家の一員である面目を保ったのであった。

 デンマークにおけるグリュクスボー王家の成立の物語は、歴史が織りなす運命の綾のストーリーそのままに、それを知る者を驚嘆させる。実際、1804年、ナポレオンが引き起こした欧州の混乱の中で、デンマーク王家であったオレンボー家の傍系の没落貴族の父子が、息子の名付け親であるデンマーク王太子を頼って、せめて息子の将来を託そうとデンマークに馬車でやってきたことから始まる。その幸運に満ちた「幸運の城(まさにGlücksborgを直訳しても)」の成立の物語は、本書『デンマークを知るための70章【第2版】』の第30章「デンマークの王室――グリュクスボー王家成立の物語」に記した。

マルグレーテ女王在位40周年の祝賀の衛兵による軍楽隊(2012年1月)
マルグレーテ女王在位40周年の祝賀の衛兵による軍楽隊(2012年1月)

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ