岡田桑三、木村伊兵衛、原弘、林達夫……『FRONT』を創った人びとの実像
記事:平凡社
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1930年代の世界は国家対立の激動の時代であった。第1次大戦を契機にロシアに樹立されたマルキシズムによる社会主義国家は、着々とその成果を収めつつあり、それに対抗して各国の右翼政権は反共の姿勢を強めていた。特に敗戦国ドイツではヒトラーの率いる国家社会主義のナチスが台頭して、周辺各国に対して力の政策を強引に押し進めていた。こうした世界の国際情勢に変革を求める国々は、右も左も自己の正当性と力を誇示するために国家宣伝に力を入れていたのである。
当時の海外宣伝には普及し始めたばかりのラジオが新しい媒体として有力視されていたが、視覚に訴える伝達方法としては、印刷による写真がもっぱらその威力を発揮していた。異なった言葉や文字を使う他民族の国民に対しては、写真の持つ直接感覚に訴える力が宣伝効果をあげるために重要視されたのである。また1920年代に実用化されたグラビア印刷は、グラフィックな印刷物の大量生産を可能にしていた。そうした状況の中で各国とも、写真撮影技術やそれをより強力に演出する編集およびレイアウト技術が盛んに研究されていたのであった。
日本でもそうした写真映像の新しい表現力に興味を示す人たちが、第1次世界大戦の終わったころからすでに存在したのである。昭和に先立つ大正は、近代日本の中でつかの間の小市民デモクラシーの時代といわれるが、その頃の日本の若い知識人や文化人のなかには、自由主義から左翼よりの思想を持つ人が多く、彼らが興味を向けたのは、革命ロシアやナチスの台頭以前にドイツで盛んだった構成主義運動などの新興芸術であった。
日本におけるグラフィズムの先覚者といわれる名取洋之助が、18歳でドイツに渡ってミュンヘンの美術工芸学校に入ったのが1928年(昭和3)であり、5年後の33年(昭和8)にヒトラー政権の誕生を機会に帰国して日本工房を創った。この時の同人、岡田桑三、木村伊兵衛、原弘らは1年後に分れて中央工房を創る。岡田は無声映画の時代から山内光という芸名で松竹映画専属の俳優として活躍していたが、彼は早くから写真やそれを使った宣伝などにも興味を持ち、特にドイツ・ソビエトの新興芸術運動を研究していた。原も欧米のタイポグラフィーや写真構成技術に目を向け独学で研究を続けていた。また木村はドイツのライツ社で造られた小型カメラ「ライカ」に魅せられて、すべてをなげうってこれを購入し、新しい写真表現に取り組んでいた。こうした先覚者が現われるようになっていたが、当時の出版界には海外に目を向ける会社も人もまだ少なく、その技術も明治以来の活字主体の本造りに専念していたのである。
そうした中で名取が1934年(昭和9)に創刊した海外向けの日本紹介雑誌『NIPPON』は、現在見ても内容的・技術的に少しも古さを感じさせない出来栄えであった。一方中央工房のスタッフも写真展やポスター制作、万博の写真壁画など、海外宣伝に着々と実績を上げつつあった。1940年(昭和15)は皇紀2600年と称して当時の政府が、国威発揚を計ってさまざまな催しを計画した年である。しかし大陸での戦争状態は泥沼に落ち込んでいく一方で、計画した万博やオリンピックはついに取り止めになった。そうした状況の中、諸外国の日本に対する非難攻撃は激しくなる一方で、日本の対外宣伝の必要性はますます高まっていた。また占領地域の中国民衆に対する宣撫工作と宣伝も焦眉の急務であった。
1939年(昭和14)満州とモンゴルの国境で起きたノモンハン事件の戦闘では、戦車などの近代兵器がソ連にくらべてあまりに劣っていることに日本の軍部は大きな衝撃を受けていた。この事件はその年9月にナチスドイツのポーランド侵入を機にヨーロッパで第2次大戦が勃発したため停戦となったが、日本軍の威信の低下は国民に対しては隠蔽し得ても外国には隠しようがなかった。さらにこのあとヨーロッパの戦火に乗じて武力による東南アジアへの南進を国策として決定した日本陸軍としては、しばらく北方でソ連と事を構えたくないというのが当時の参謀本部将校の本音であった。
参謀本部第2部(情報担当)第5課(ソ連担当)の課長山岡道武大佐から岡田に、ソビエトで出している国家宣伝雑誌『USSR in construction』に匹敵できるものを日本でも作れないかと打診があったのはこうした国際情勢の中であった。岡田はかねてから自分が傾倒し長年研究してきた『USSR』のような斬新なグラフィックマガジンを実現するには、当時の国情の中では軍の力を利用する以外にはないとの結論を出し、自分の所属する中央工房のスタッフと相談して組織造りに動き始めた。
こうして参謀本部のバックアップによる東方社が設立されたのは1941年(昭和16)の4月のことである。このころすでに日本国内は全体主義体制としての翼賛政治一色に統制され、物資の欠乏の中ですべての民間企業は統廃合されつつあった。当時のこうした状況下ではいかなる職業でも、たとえ名目だけにせよ戦争協力を表に掲げない限り資材は配給されず、人員は徴用令によって強制的に軍需工場などに廻されたのである。
東方社は岡田名義の個人会社として発足し、最後まで法的な会社組織ではなかった。したがって参謀本部直属の機関として国の予算が出るわけではなかったから、参謀本部をはじめ軍の諸機関や、満州国などの海外植民地の出先機関に『FRONT』のような宣伝印刷物を「売る」ことによって経営を維持していた。しかし一部の者にせよ参謀本部嘱託の名義を取得していたこと、用紙・印刷インキなどの必需物資は軍需として特別に調達されていたことなどから見ても、参謀本部の傘下として動いていたことは事実である。
岡田が長年の夢を実現するにあたって、一番頼りにしたのは中央工房の仲間である写真家の木村伊兵衛とデザイナーの原弘であった。この2人の力を結集しなければ、日本の『USSR』は実現しなかったのである。また担当課の参謀たちに対し東方社を無条件で信頼させるためには、優秀な企画スタッフを揃える必要があった。これには工房仲間の林達夫や、民族学者岡正雄・岩村忍、さらに小幡操、春山行夫などが企画編集委員として名を連ねた。
岡田は創立翌年の42年(昭和17)に内部事情から理事長を杉原二郎にゆずっている。このあと太田英茂が事務総長として内部改革を行ない、翌43年(昭和18)に理事長は林達夫に替わった。またかつて参謀本部第2部長も勤めたことのある欧米派の建川美次中将を総裁に迎え、参謀本部に対する押えとした。
東方社の社員スタッフは年とともに増えていったが、この中には戦前の非合法活動家としての刑期を終えたマルキストが編集部に何人も入社している。また戦局が緊迫するにともない、中央公論など言論弾圧で閉鎖された出版社社員や、企業整備で徴用工として軍需工場に動員される予定の写真機材店主、写真学校の学生などを収容し、敗戦時の45年(昭和20)には最初の3倍にも人員がふくれ上がっていた。
もともと『FRONT』はソビエトの国家宣伝雑誌に対抗して、ソビエトのアジア進出を防ぐ一助として軍の中枢が考えた宣伝物である。これが企画されたのは世界が全面的な総力戦に突入する以前であった。したがって軍がスポンサーだったといっても、戦争宣伝として企画されたものではなかった。それは、東方社創立時に『東亜建設画報』として予定された2年・24冊分の特集テーマを見ても明らかである。しかし東方社がスタートした時期は、日本が米・英などを相手に全面戦争を覚悟して準備を始めた時期と重なった。そして創刊号として予定した「陸軍号」や、緒戦の戦果で急遽それと入れ替わった「海軍号」などが完成した42年(昭和17)は、太平洋戦争が始まって日本が東南アジア各地を一気に占領した時期であり、それはまたアメリカの反攻が開始された時期でもあった。
中国相手の一方的な侵略戦争と違い、アメリカは強大な海空軍を持っていた。そうした敵の眼をかいくぐってソ満国境からインド洋、南はオーストラリアまでいっぱいに伸び切った戦場に武器弾薬を補給しなければならない輸送船に、『FRONT』のような重くかさばる宣伝物を積み込む余力はなかった。16ヵ国の言葉を刷り込み世界の主要な国を対象にした国際宣伝雑誌は、こうしてその完成と同時に全面戦争に巻きこまれその巨大さゆえに無用の長物となった。しかし特高警察や憲兵隊から狙われている人たちを多数抱えている東方社は、軍の宣伝の仕事をやめるわけにはいかなかった。やめれば狼か狂犬のような連中が全員を逮捕しにくるのは目に見えていたのである。
東方社は戦時中の4年間に都合10冊の『FRONT』を制作した。物資不足の厳しい戦時下であったが、最後までその質を落とすことなく制作を続けたのは、東方社スタッフの技術者としての誇りであった。しかしそれらの『FRONT』がどこに運ばれ、どういうところに配布されたかについての記録はない。唯一結末の分かっているのは、10冊目の「戦時東京号」が製本直前、45年(昭和20)3月の東京大空襲によって灰燼に帰したことだけである。こうした巨大雑誌が戦時下に制作されていたことは当時の国民のほとんどは知らなかった。かつて日本海軍が戦前の技術を結集して建造した「虎の子」の巨大戦艦『大和』『武蔵』が、国民にその姿を見せることなくアメリカ海空軍によって南海に沈められたことと、余りにも似た運命を辿ったのである。
『FRONT』発行の目的は何だったのか、50年たった今ふりかえってみると宣伝ということの空しさのみが痛感されるのである。日ソ戦を避けたいというソ連担当課の参謀将校の思いつきで始まった宣伝雑誌は、国際情勢の急変でその最初の号が完成された時点ですでにその意味がなくなっていた。ソビエトは独ソ戦でアジアどころではなかったし、一方日本側も世界が全面戦争に突入した状況下では国際宣伝どころではなくなっていたのである。こうして最後は東方社の存続のためにのみ『FRONT』は意味を持つようになった。東方社のスタッフにとってそれは国家の暴力から身を守る隠れみのであった。これをまとうことによって参謀本部という国家の最高中枢の「虎穴」に入り、戦争という暴風雨を避けていたのである。そうした身の処し方を戦後に聞いて要領のいい奴と誹謗する人もいるかもしれない。だが東方社に集まった人たちは戦時下では全く非力な文化人であり、技術者の集団であった。現在巷にあふれている編集・広告・デザインなどのプロダクションと同じような創作集団であった。写真という当時の先端の表現技術を使って斬新な印刷物を作りたいと願っていた人たちだったのである。それが国家宣伝という形でしか実現の道のなかった、彼らのめぐりあわせた時代は不幸であったというほかはない。
岡田・木村・原といった中心スタッフ、そして岡田の辞めたあと理事長の林達夫に乞われて東方社に参加して、以後戦後までスタッフの面倒を見つづけた中島健蔵、そうしたリーダーに最後までついていった若い社員たち、すべて物を作ることの好きな人たちであった。彼らはもともと文化としての写真や映画、そして出版物を作ることに打ち込んできた人たちだったから、社会が戦争一色に塗りつぶされていくなかで、銃を取ることを強制されるより、たとえ軍の組織であっても、そうした仕事のできる道を選んだことは、あの全体主義体制の社会のなかで無理のないことであった。自由主義者である彼らにとってはもともと国家やイデオロギーは二義的な存在でしかなかったのではなかろうか。
すべての自由が抑圧されたあの暗い戦時下にあって、軍の仕事をしながらも和やかな自由な雰囲気を保ってきた東方社は、中島がその著書で述懐したように、そのメンバーが反権力的な謀反気を内に秘めていたからであろう。当時のスタッフのなかで最も若いメンバーの1人であった筆者は、権力機構から程遠く、政治的にも経済的にも弱い立場にある自由人が強権力に対抗して生き延びていくすべを、このとき東方社のあり方から学んだのである。
右傾化する戦前の社会のなかで、進歩的で新しい思想や技術の導入に積極的に取り組んできた、決して戦争肯定者などではなかった人たちが、異常な戦時状況に巻き込まれて、国家宣伝などという空しい仕事に取り組まざるをえなかった悲劇が、東方社=『FRONT』の歴史であった。戦後既に半世紀近くを経た今、当時中心にあってこの組織を支えてきた人たちはすべて亡い。しかも彼らが戦時中の経験を書き残した言葉はきわめて少なかった。それはおそらく、彼ら自身の先進的な仕事に対する自負心よりも、自らの悲劇を語る辛さのほうがはるかに大きかったからではなかろうか。
文゠多川精一
*『復刻保存版FRONT Ⅱ 陸軍号・落下傘部隊号・鉄(生産力)号』収録の解説「『FRONT』を創った人びと」を一部抜粋して転載
*初出は『FRONT 復刻版 第Ⅱ期 陸軍号・落下傘部隊号・鉄(生産力)号』付録「解説Ⅱ」
陸軍号
落下傘部隊号
鉄(生産力)号
解説
『FRONT』を創った人びと/多川精一
ライカ、『フロント』、東方社写真部/菊池俊吉
『日記』1942-43/今泉武治
父、岡田桑三――東方社初代理事長――のこと/岡田一男
ざっくばらん――戦時下の特殊出版社物語/山室太柁雄
「陸軍号」全訳/「落下傘部隊号」抄訳
『FRONT』のデザイン 陸軍号・落下傘部隊号・鉄(生産力)号/松田行正
*岡田一男執筆「父、岡田桑三のこと」は、[復刻保存版]刊行に際して、訂正・加筆しました。
*松田行正執筆「『FRONT』のデザイン」は、[復刻保存版]刊行に際しての書き下ろしです。