歴史は100年周期で動いていない。だとしても、100年前を振り返ることには意味がある。1923年と前後の年に関わる3冊をひもとき、その意味を考えたい。
1922年。18年に開始したシベリア出兵の撤兵が決まった。17年にロシア革命が起きたため、アメリカ・日本などがウラジオストクに派兵した。20年までに他国が撤兵した後も、日本はニコラエフスク(尼港)や間島地方などで軍事行動を続けた。
麻田雅文『シベリア出兵』はこの出兵を「忘れられた戦争」と呼ぶ。出兵は陸軍参謀本部の主導で進められ、戦線はなし崩し的に拡大した。日本の軍人・軍属の戦病死者数は約3300人、当時の国家財政の大部分を軍事費に費やした。ロシア側の死傷者数は日本を上回る。日本の撤兵が遅れたのは、見返りなしに撤兵してはこれまでの犠牲が無駄になるという認識が軍・政府にあったからだ、と同書は指摘する。陸軍が出兵に関する情報公開に消極的だったこともあり、この経験は忘れられ、その後に生かされなかった。
未来につなぐ
1923年。9月1日に関東大震災が起きる。大規模な火災が起こるなか、2日には東京市などに戒厳令がしかれた。朝鮮人が暴動を起こすなどのデマが流れ、多くの朝鮮人が殺された。東京では荒川放水路沿いが殺害現場の一つとなった。ほうせんか編著『増補新版 風よ 鳳仙花の歌をはこべ』は、当時を知る地域住民からの聞き書きと追悼活動の記録だ。自警団のほか軍隊・警察も殺害に関与したこと、遺体を焼いて土手に埋めたが、遺骨は後日、警察が掘り返して持ち去ったことなどを示す証言・史料が収録されている。軍・警察の関与がありながら、民間人だけが刑事責任を問われた。国家は虐殺の責任を認めることなく、現在に至っている。
同書を編んだ「ほうせんか」は、長く聞き取り調査などを行ってきた団体だ。82年、荒川沿いの土手に埋められたとされる遺骨の試掘を行った。その結果、骨は見つからなかったが、発掘をきっかけにお年寄りからさらなる証言が集まった。証言者は100人を超える。その後、河川敷に追悼碑を建立するため、地域や行政と交渉を重ねた。事件現場近くの土手下の土地を住民から買い受け、碑を建てた。歴史を風化させず、未来につなぐ思いが込められている。
「大衆」の責任
1924年。大衆雑誌「キング」が大日本雄弁会講談社から創刊された。同誌は創刊号が74万部発行されるなど、第1次世界大戦後の日本の大衆化を象徴する雑誌となった。佐藤卓己『「キング」の時代』は、創刊から57年の終刊までを一続きの時代と捉え、歴史を描き直す。
「キング」は読者層を「大衆」に設定して、あらゆる階層の娯楽たらんとした。宣伝戦略を巧みに使い、「大衆」を読者に取り込んでいく。30年代以降の戦争の時代になると、この力は国民動員の力として機能する。戦場の英雄譚(たん)や戦争グラビアを掲載し、読者の関心を戦争へと導いた。読者もこれに応え、大衆雑誌は41年に最盛期を迎えた。
戦争の時代に言論弾圧が盛んだったことは間違いない。だが、メディアや国民を被害者として免罪すると、メディアと国民一人ひとりの戦争責任を不問に付すことになる、と同書は強調する。
国家・メディア・国民の責任は、100年か否かに関わらず、忘れてはならない。だが、記憶を維持する営みがなければ、過去は容易に忘却されうることを3冊は教えてくれる。だからこそ100年の節目に過去を確認することが重要なのだ。どのような歴史を未来に伝えるかは、この社会をどういうものにしたいかと直結するのだから。=朝日新聞2023年1月14日掲載