1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. 教育は美しく、研究は真実を伝えるのか。――『よい教育研究とはなにか』

教育は美しく、研究は真実を伝えるのか。――『よい教育研究とはなにか』

記事:明石書店

『よい教育研究とはなにか』(ガート・ビースタ著、亘理陽一・神吉宇一・川村拓也・南浦涼介訳、明石書店)
『よい教育研究とはなにか』(ガート・ビースタ著、亘理陽一・神吉宇一・川村拓也・南浦涼介訳、明石書店)

ガート・ビースタが与える教育研究へのインパクト

 ビースタ氏の著作について書評を執筆するという栄誉を私は重く受け止めている。2013年夏、ノルウェーのハルデンで行われたヨーロッパ教師教育学会大会におけるビースタ氏の基調講演は私にとって衝撃的だった。自分の20代以来の教育学に対する違和感が晴れた瞬間だった。他者に説明しきれないでいた疑念が目の前で大勢の人たちに伝わるように説明されていた。そのときのスライド資料は10年以上経過した今も、私のパソコンに大切に保存されている。

 本書は教育に関わる日本のすべての人に理解してもらいたい内容が書かれている。ビースタ氏自身が翻訳書への序に書いているように、文化と言語の異なる読者が理解できる翻訳書を作ることは容易ではない。しかし、この一冊は、教育が万人にとって重要なものであり、この現代社会において、ある人がその教育という営みに関わるのであれば、たとえ困難であってもじっくりと時間をかけて向き合い、脳の中にその内容を落とし込んだ上で、教育や教育研究に取り組むべきと思わせる本であると私は思う。この本の内容が理解できない者が研究論文を執筆することは、教育にとって悪であるとさえ思う。

我々は教育の政治性にどこまで自覚的か

 現代の公教育は極めて政治的な営みである。権力をもつ大人たちが、自分たちを支える社会を作るために、義務教育の名のもとに学校制度を作り、カリキュラムを定め、教員を養成し、教科書を作成し、国家に対してより忠誠な思考をもつ国民を育成しようとする。教育がそのように用いられることは、第二次世界大戦の始まる前にナチスがドイツで行った教育や日本が臣民に行った教育を見れば明らかである。戦後80年経過した今はそんな教育はなされていないと言えるのだろうか。いや、むしろ世界中で、先進国と言われる経済力のある新自由主義の国々で、政治や経済を支配する者が教育を支配していると言えるのではないか。

 エビデンスが何を指すかを吟味することなく、エビデンスに基づく教育研究が必要だという教育経済学者の口車に乗せられてしまっている研究の現状、国の打ち出す政策を後追いする幾多の研究計画を目にするにつけ、教育研究者も教育者も、そして一般の保護者も、教育とその研究において何が起きているのかに気づくために本書を手にしてほしいと思う。学校教育には「いい人生」を人質にとって子どもを価値ある商品に仕上げようとする側面があり、それに傷ついている多くの子どもたちがいるにもかかわらず、さらにより「効果的」な教育成果を求める教育とそれを支えようとする極めて限定的な研究が進行している。リフレクションは目の前の教育の改善についてのみなされ、日本の教育自体を振り返る営みは遅々として進まない。今、日本の教育研究が必要とする視点は、教育が何を目的とすべきかよりもむしろ、何を目的としてはいけないかではないかとさえ、私には思われる。

教育研究は「善き生」のために行われているか

 著者のビースタ氏は、社会の動向に忖度せず率直に、しかし論理的かつ倫理的に私たちに問いかける。教育が人の善き生のために行われているのか、教育研究はそのために行われているのかと。各章の最後に設けられた5つの問いが、私たちの研究が嵌りそうな穴のチェックを促す。すべての教育研究はこれらの問いを通す必要がある。

 本文の最後はこう結ばれている。

私の願いは、正統的教育研究に対する見方を新人研究者の方々に養っていただけるようにすることである。教育を理解するための、そして教育の現場で、教育に関する、教育のための研究を行うための、唯一正しい方法が正統的教育研究であるという考え方を受け入れないで欲しいし、受け入れる必要もないことを示したかったのである。

 ビースタ氏の著書を斜め読みすることは難しい。新人研究者が教育学の広範なバックグラウンドなしに自分一人で本書を読解し理解することは困難だろう。これまでの訳書も難解だと言われてきた。しかし、今回、4人の訳者は、それを超えて読まれる本にするために、たとえば丁寧な訳注によって私たちを導こうと努力している。読者にはその努力に応えて、ゼミや読書会などで原文と照らし合わせながらしっかりと読んでほしいと願う。そうした一人一人の教育関係者の努力が、今の教育の潮流を変えていく一つの方法だと信じるからである。すでに日本で訳された6冊の訳書、たとえば『教育の美しい危うさ』(東京大学出版会, 2021)などと合わせて読めばさらに理解が深まるだろう。

教育は常に美しく、研究は必ず真である、と思ってはならない

 さて、最後に、先月、『教員のためのセルフスタディ入門』(学文社)を監訳した筆者として、ビースタ氏の警告に触れないわけにはいかない。それは私自身が翻訳に取り組みながら最も危惧していたことであり、本書の最後の章に書かれていることである。セルフスタディの展開もまた他の研究方法論による研究と同様、一つ間違えば、先ほど挙げたような穴に嵌ってしまう。

「教師が自身の実践の研究者になるという昨今勢いを増している動向・・・(中略)・・・教師研究の名の下に教室に忍び込む介入・効果の論理によって、教育とは何かに対する認知的な歪みが実際もたらされている。そしてもしかするとこれが、教えることと研究とを一緒くたにすべきではなく、教師が自身の実践の研究者となれば、自動的にもっとよい教師になると考えるべきではないもっとも重要な理由なのかもしれない。・・・」

 こうして「一人前の研究者」となった実践家が、その研究によって評価され、大学で教員養成に携わることになるという流れができてしまったとしたら、それは私の望むところではない。だから、これからどのような研究に取り組むにしても、まず初心の研究者はこの本を最後までしっかりと読んで理解してほしいと切に願っている。

 教育という営みに対して盲目的に美しいと思ってはならない。研究という営みに対して真であると思い込んではならない。しかし、私たちはそれに丁寧に取り組み続けていく。クリティカルに、デモクラティックに、リフレクティブに、それは続けられなければならない。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ