よみがえる「ヤバい哲学者たち」の記憶――谷口功一さん・評『オックスフォード哲学者奇行』
記事:明石書店
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講演で司会者から講師紹介されたりする時、「法哲学者」という言葉を使われると少し挙動不審になる自分がいる。冠つきとはいえ「哲学者とかヤバくね?」という話である。
夜のスナックなどでも、運悪く法「哲学者」と知られた途端に「一心不乱に道ばたにチョークで何か書き殴り始めたりするんですか?」とかたずねられることもある(それは一部の数学者では?)。
だから私は何を教えているのかと聞かれた時には、「哲学」などという言葉はおくびにも出さず、「法学部の先生です」と言うことにしている。そうすれば、せいぜい「六法全書を全部覚えてるんですよね!?スゴい!」と言われるだけで済ませ、その場を乗り切ることが出来るからだ(そんなはずは無いのだが)。
そんな私にとって、この本は自分が哲学者であることをいやがおうにでも思い出させる本だった。本書の中には、私にとってもなじみ深い哲学者たちが綺羅星のように登場してくるが、哲学上の業績(書物)を通してしか知らなかった彼らの活きいきとした姿が、この本からは鮮やかに立ち上がってくる。
頁をめくるたびに驚き呆れ、しばしば著者の軽妙洒脱な筆致に唸りつつ、声をあげて笑うことさえあった(ゼレンスキー大統領の「ピアノ演奏」に類する事柄へのアンスコムの評価とか)。
最も強い印象を残すウィトゲンシュタイン暗黒星雲から送り込まれたダーティー・アンスコム卿をはじめ、あまりにも個性的かつ奇天烈な人びとが織りなす人間模様は、面妖なホグワーツ哲学学校のごとき様相を呈している。哲学史の中ではそれほど重要な位置を占めるとは思われない登場人物たちもまた、「異常者たちが異常であるゆえん」を際立たせる点で名バイプレイヤーぶりを発揮している。
本書の登場人物たちの中で、最も世間的な栄達を果たしたであろうウォーノックが哲学的な悩みとは無縁で、研究テーマ自体も偶然の外在的なものに過ぎない凡庸な常識人だったことは、哲学者が何たるかについて少なからぬことを物語っているかもしれない。
哲学に限らず、およそ大学院に進むなりしてアカデミアの世界を生きたことのある人間にとって、この本は自分の半生を振り返らせるものだろう。まともに研究をしていれば、必ずどこかで「怖いほど賢い」人間を目にし、それが学問的な師の位置にある人間だった時には「崇拝」へと至りさえする。こと哲学的な議論については「哲学がなされ、哲学がその場で実際に生じていた」と感じさせる、魂が打ち震えるような議論の瞬間に居合わせることもあるだろう。本書を繙きながら、私はしばし二〇年以上前の徒弟時代のさまざまな出来事、そして人びととの出会いを昨日のことのように思い出した。
私じしん、院生として過ごした徒弟時代よりも、もはや教師として過ごした時間のほうが長くなってしまった。そのような教師目線で本書から得た最も重要な教訓は、ケンブリッジでのウィトゲンシュタイン崇拝について、ライルが「教育的に悲惨な結果をもたらすだろう」と言った点に尽きる。
友人の大学教員たちと昔から言い交わしていたことだが、「尊敬されすぎる教師は良くない教師」なのである。社会からは良くも悪しくも隔離された大学という閉鎖空間の中での教師への過度な尊崇は、容易にカルト的なものへと結びつき得るからだ(そのような事例を私も、これまで少なからず目にしてきた)。
本書はすべての研究者にとって、みずからの来し方を振り返らせ、さまざまな思いへと駆り立てるものではあるが、極めて抑制の効いた筆致で繰り出される英国流諧謔は、もはや見事としか言えない域にまで達している。私のように登場人物たちを既に知っているような研究者だけでなく、一般の読書子を対象とした読み物としても最高水準のクオリティに達していると評すべき一冊である。
著者は、この本を自らの「愛の労働(Labour of love)」によるものであると記しているが、この小さな宝物のような書物が、多くの読者に悦びをもたらすことを祈りたい。
出来れば読後の余韻に浸るため、良い紅茶とスコーンでも用意しておくのをオススメする。