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経済学と、旅をする――小野寺研太さん・評『フランス経済学史教養講義』

記事:明石書店

橘木俊詔著『フランス経済学史教養講義:資本主義と社会主義の葛藤』(明石書店)
橘木俊詔著『フランス経済学史教養講義:資本主義と社会主義の葛藤』(明石書店)

旅先で「らしさ」に出会う

 旅がしたい。だが、行くに行けない世界情勢だ。根は出不精なので、居宅で長時間過ごすことにあまり抵抗はない。それでも、外国に出かけるのは好きだ。

 すっかり定着したリモートツールを使って、現地を疑似体験という手もあるが、私が外国旅行に求めるのは、現地に行って初めて得られる、些細な驚きや異なるものとの出会いだ。それは、飛行機から降りた時の空気の異質さだったり、踏みしめた地面の固さだったり、駅舎で聞くアナウンスの声色だったりする。

 それらは、現地に行くことで知り得る、その国・地域「らしさ」の瞬きだ。もちろん、その瞬間瞬間の「らしさ」なるものは、異邦人が勝手に抱くステレオタイプという側面もあるだろう。だがそれでも、慣れ親しんだ空気とは異なる「らしさ」の体験は、それ自体大きな喜びの一つであるし、ときにその人の、社会や人間に対する見方を大きく変えるきっかけにすらなる。

 そしてその「らしさ」の背後には、たいていの場合、その地域や社会が紡いできた歴史や置かれた地理の特質、人びとの生活条件などが、大きく関係している。そういう、ややディープな情報や知識は、現地に行ってパッと知り得るようなものではない。

 だから旅に出る前にそうしたことを知っておくと、現地での体験と結びついた際に、強烈な「ああ、そういうことか」という閃きにつながる。そういう意味で、旅先の「予習」は大切だ。遅れているワクチン供給や世界各地の感染状況を考えると、気兼ねなく外国旅行へ行けるようになるには、まだ時間がかかるだろう。だから、準備だけでもしておきたい。

フランス経済学の独創性を知る

 橘木俊詔氏の新著『フランス経済学史教養講義:資本主義と社会主義の葛藤』(明石書店)は、そういう読み方(使い方)ができる本ではないか、と思う。本書は、300年以上に及ぶフランスの経済学の歴史を、経済学を専門としない一般の読者にも配慮して、分かりやすく概観した著作である。

 一般読者も想定しているので、学問的に高度な理解を要する部分には、潔く深入りしていない。しかし、フランス経済学史における最近の研究成果をきちんと取り入れながら、フランス経済学の独創性とは何か、という問いに本書は取り組んでいる。

 フランス経済学の独創性が問題になるのは、一般的な経済学史の構成では、フランスの学者の影がどちらかといえば薄いからだ。もちろん、本書で登場するケネーやワルラスほどになれば、一般的な経済学史上でも大物扱いである。だが彼らの貢献ですら、イギリスやアメリカを中心に発展した、アングロ・サクソン系の経済学を主軸にした構図の中で、その一部のように捉えられることが多い。

 ましてや、通説的な経済学では、アダム・スミスを「父」とする英米圏の議論があくまでも中心だ。本書では、こうした英語中心の潮流に対して、フランス語で思考され議論されてきた経済学の営みの重要性が強調されている。

経済学を連れて、よい旅を

 しかし私は、「フランス経済学を再評価する」ことに加えて、「経済学を通してフランスらしさを理解する」ことにも、本書は役立つのではないかと思う。フランスに出かける前に本書を読むと、よくあるガイドブックにはまず載っていないような、フランス社会の奥深い一面を覗くことができる。

 言い換えれば、経済学を通して、旅を知的に楽しくできる。パリを訪れた多くの観光客が目にするエッフェル塔は、フランス工業界の成功を象徴する建造物だ。そのフランスの工業発展を支えたのは、エンジニア・エコノミストと呼ばれる、電力や土木を本職とする経済学者集団だった。というと経済学はアマチュアなのかと思ってしまうが、このグループからはノーベル経済学賞の受賞者も出ている。

 このエンジニア・エコノミストを養成する教育機関のエコール・ポリテクニクとも関係があり、工業発展の重要性を唱えた独自の思想で多くの影響をもたらしたのは、19世紀の初期社会主義者サン=シモンだ。そして、サン=シモンの主張した産業主義には、「農業生産こそが価値の源泉だ」とするケネーの重農主義への批判が込められていた。そうやって考えれば、確かに現在でもフランスは、EU最大の農業国である。

 このように、フランス各地の広大な田園風景にも、パリに広がる近代都市の姿形にも、時の経済学者たちは様々な影響を与えてきた。経済学という知の系譜にも、フランスの地理や歴史と結びついた「らしさ」は息づいている。そうしたことが、本書を読むと分かる。

 本書の表紙は、ロワール渓谷にあるヴィランドリー城の庭園だ。なぜ、経済学史の本の表紙が古城の庭園なのか。それに関する記述は、本書にきちんと書いてある。その箇所を読んでから、あらためて表紙を見ると「ああ、そういうことか」と膝を打つだろう。

 同じことを、次は現地に行って確かめたい。フランス経済学の層の厚さに思いを馳せながら、それらを育んだものを、「リアル」で、マスクもしないで、思い切り吸い込んでみたい。いつになるのか、まだ分からない。でもやはり、旅がしたい。

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