ジェーン・バーキン最期の5日間 村上香住子『ジェーン・バーキンと娘たち』(白水社)より
記事:白水社
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あるとき退院したばかりのジェーンに会いに、パリの植物園の近くのギィ・ドゥ・ラ・ブロス通りの家に行くと、退院直後なので自宅でも点滴台を引きずっていたにもかかわらず、私が東京から着いたばかりだったので、「眠くない? 時差は大丈夫? お腹は空いてない?」などと言って、キッチンでスープを作ってくれたものだ。[中略]
白血病に始まり、抗がん剤治療も受けていた。2021年には脳卒中で倒れたし、おそらく想像を絶する苦痛の続く時期があったと思う。だが、彼女は病院の話はしても、辛いなどといった泣き言は一切言わなかった。
あるとき、病院から抜け出してきた、と言うので、よく聞いてみると彼女なりの理由で退院を早めてもらったのだという。
「まだ入院していなければいけなかったんだけど、わたしドクターにこう言ったの。わたしにとって最高の治療法は、自宅に帰って庭の薔薇の花をみることなのです。そろそろ咲き始めるころだから、って」
「それで早めに退院したの?」
「そうよ。人それぞれ個人差があるから。治療法だって、千差万別だと思う。だって無味乾燥な灰色の病棟を一日中眺めているより、ここにいるとずっと気分がよくなるの。ほら、薔薇のつぼみもみえるでしょう?」
どこか現実離れしたジェーンとの会話はチェーホフの戯曲みたいだったが、今は無性にそれが懐かしい。
オリヴィエ・ロランに会った翌日、もうひとりジェーンをよく知る婦人に会った。
「この肘掛け椅子に、ジェーンは亡くなる2日前に腰掛けていましたよ」
左岸のアンティック店ミシェル・アラゴンのオーナーをつとめるマダムは、私にそう語りかけた。
店の隣の路地を入ったジャコブ通り19番地は、ジェーンが長年住んでいた場所だった。最初にその家を訪れたとき、彼女の家の表札に「夢見がちな犬」と「変わった猫」と書かれていて、それはフレンチ・ブルドッグの犬とマーマレード色の猫のことだったのを思い出す。
「ジェーンから携帯に電話がかかってきたのです。7月に彼女が亡くなった週の水曜日でしたよ。公には日曜の朝死亡、となってるけど、本当は土曜の夜だと聞いてます。サル・ペトリエール病院に3か月入院して、やっと退院したところだと彼女は言っていた。久しぶりに会わない? と言うので、次の日の夕方5時に、店を閉めてからアサス通りの彼女の家に行くと約束したのです。私の自宅もすぐ近くなので」
今もまだ色香の漂う波打つブロンド髪をしたマダムは、ジェーンと同世代らしく、彼女とはシャルロットを懐妊中からの知り合いだという。60年代末に流行りのクラブ「キャステル」で、よくジェーンとゲンズブールをみかけて、自宅がすぐ近くだったことから親しくなったのだそうだ。
【Jane Birkin “Ex fan des sixties” : Archive INA】
「あの日は、私も夫を亡くしたばかりだったし、ジェーンも私の夫をよく知っていたから、ふたりで彼の思い出話ばかりしてましたよ。ジェーンは部屋着のままでした」
マダムの店に客が入ってきたので話は一時中断されたものの、奥の店番用の椅子に再び腰掛けてマダムは話し出す。
「ジェーンはとても寂しそうでしたよ。あの日、木曜日は夜9時くらいまで話し込んでしまいました。病院で知り合ったふたりの看護師さんを連れて近いうちにブルターニュに行くから、あなたも来ない? と誘われたのです」
だったら少しよくなっていたのですね? と聞くと、「そうみえましたね」とマダムは言う。
「だって9月のオランピア劇場には出るつもりだと言うし、ふらついて歩くのをみられたくないから舞台ではライトは上半身にだけ当ててもらおうかしらと言うので、私こう言ってやったのです。ジェーン、あなたがふらついていようと、車椅子でいようと、どんな格好でいても、みんなはあなたを愛しているのよ、って」
彼女は少しのあいだ沈黙した。
【Jane Birkin - Ex fan des sixties (Live Officiel “Oh pardon tu dormais” 2022)】
「ラ・トゥール通りの家のキッチンと食堂の内装は、私も手伝いました。彼女は、ほとんど家具を持ってきていなかったのです」
ラ・トゥール通りの家とは、以前ドワイヨンと住んでいた家のことだ。そういえばジェーンのキッチンにもあった赤と白の碁盤の布巾や、英国スタイルや民芸風の食器類などが、その店にも飾られている。どれもマダムの店から来たもののようだ。ふたりの娘を連れてセルジュの家を飛び出して、当時の恋人ドワイヨンのためにラ・トゥール通りに住み着いたジェーンは、おそらく最低限の身の回り品しか持って出なかったのだろう。
「木曜日に会ったときに、別れ際にジェーンが言ったのです。明日、孫娘のジョーの誕生日プレゼントを買いにいくから一緒に来てくれない? と。もちろん、翌日の約束をしました」
すると次の日の7月14日──フランス革命を記念する「巴里祭」の日──ジェーンは、長年彼女の家で働いていたネリィと、タクシーでやってきたという。そしてマダムも一緒に、誕生祝いを買うために、すぐ近くのフュルスタンベール広場の店まで歩いていったそうだ。
「帰りのタクシーは店から呼ぼうということになり、いったんまたここに戻ってきたけど、ジェーンはぐったり疲れていて、ほら、あなたの前のその肘掛け椅子、そこにタクシーが来るまで座っていたのです」
肘掛けの部分だけ木になったそのゴブラン織の椅子は、中世風のクラシカルなものだった。
「タクシーが来たので、私が腕をとって立ち上がるのを手伝ったけど、そのときみえたのです。無数の注射の痕が残っていて、赤黒く腫れ上がった腕が。とても痛々しかったのを覚えています」そう言うとマダムは少し唇を開いたまま、そのときの思いが込み上げてきたように、唇を嚙んでいた。
長居をしたせいで店の閉店時間が遅れたのに気づいた私は、マダムに詫び、ジェーンが座っていたという椅子に軽く触れてから、ジャコブ通りのミシェル・アラゴンを後にした。
【Jane Birkin - Ex fan des sixties (Official Lyric Video)】
シャルロットとマルローのプレゼントがまだみつかっていなかったジェーンは、その後、サントノレ街のエルメスに向かったようだ。ジェーンを売り場で見かけた人がいた、とエルメスの広報の人から聞いた。「バーキン」を冠した最高級品バッグを扱う老舗エルメスで、ジェーンが亡くなる2日前に(もしかしたら死の前日に)家族のプレゼントを買っていたという光景は、まるで映画のシナリオのようだが、それがジェーンの生涯の最終幕だったことを知る。
【村上香住子『ジェーン・バーキンと娘たち』(白水社)より】