1. じんぶん堂TOP
  2. 教養
  3. 「現場」とは、どこのことか?

「現場」とは、どこのことか?

記事:じんぶん堂企画室

授業取材の際の持ち物は、ノートとカメラ、上履き、そのあと授業者へのインタビュー等があれば、ボイスレコーダー。両手が空いている必要があるのでリュックを背負う。
授業取材の際の持ち物は、ノートとカメラ、上履き、そのあと授業者へのインタビュー等があれば、ボイスレコーダー。両手が空いている必要があるのでリュックを背負う。

出版社と教育関係企業とのあいだで

「人文書の魅力を伝える」ことを目的とした「編集者によるリレーエッセイ」なる連載に文章を寄せるという貴重な機会に恵まれたものの、どうにもまごついている。
 23歳から現在までおよそ10年半、東洋館出版社という教育書を専門に刊行する出版社の編集部で勤務してきた私に、そもそも自分が「編集者である」というアイデンティティーがあるかと訊かれれば、極めて怪しいからである。

 専門出版社の編集者。イメージがつくだろうか。
「教育書」とは、主に教育現場に関連する職業に従事する人に向けてつくられた書籍のことであって、その中身は例えば教育学、教育課程、教育評価、教科教育、学校経営、学級経営……などと、細かなジャンルに分かれていく。
 東洋館出版社は1948年の創業以来、とりわけ小・中学校の教員をメインの読者に据え、教育分野の実用書から学術書まで出版してきた。文部科学省が定める教育課程(カリキュラム)の基準「学習指導要領」の発行元であることでも知られる。

 編集者といえば、原稿やゲラ、書籍の山を前に、偉そうな顔をしてコーヒーでも飲みながら著者に原稿の催促をしたり、催促をしたり、催促をしたりしている職業かと思いきや、教育書の編集者が時間を割くのは、学校への取材や授業見学の時間である。

 東に実践優れる学校あれば、行って子どもたちの姿に目をやり、
 南に学会あれば、行って専門家の講演を聞き、
 西に先進的な自治体あれば、行って教育委員会の人に会い、
 北に面白い授業をする先生あれば、行って「先生の授業のコツを本にしませんか」と言う。

 偉そうな顔をしてコーヒーを飲むのは、それらの仕事が済んでからだ。
 編集者と教育関係者のあわい。「出版社」と「教育関係企業」の狭間でフラフラしている人。自己紹介をするならば、そんな感じか。「編集者によるリレーエッセイ」なんてこそばゆい。

「出版業界」とは、どこのことか

 ジュンク堂書店池袋本店で言えば4階「人文 教育 心理」。エスカレーターで上がってぐるりと回り込んだ先の一番奥に、教育書の棚はある。
 一番右から「教育書新刊」という棚があり、ずらりと面陳。隣に、「児童福祉・家庭福祉」「児童虐待 いじめ」「不登校 ひきこもり」「教育読物 教育時事」「海外教育事情」……と棚が続いていく。裏面に回って左から順に「教員養成」「学校経営」「教育法規」「障害児読物 障害児保育 障害児教育一般」……と続いて、振り向けばまた右から順に「算数科教育」「理科教育」「社会教育」「英語・外国語教育」「国語科教育」。
 丸善丸の内本店なら3階、角にあるシフォンケーキがおいしいcafé1869の向かい、「芸術・人文・教育・保育」。新学期になれば、教員用の手帳が、各社面陳(※時間割を書き込めたりプリント類が貼り付けたりすることができるように、たいていの場合判型が大きく、教卓にベタッと広げて置くことができるのが特徴。「コデックス装」という)。
 紀伊國屋書店新宿本店も3階。「ビジネス/社会/人文書」すみっコの「教育・保育」ゾーン。各教科の指導法や学級の運営に関する書籍が大半であった教育書というジャンルだが、近年は教員の働き方やメンタルヘルスに関する書籍が増えてきた。あるいは、理不尽な校則を学生自らが検討して変えていくアクションやこれまでの膠着化していた教育のあり方を問い直す学校や自治体の改革の記録など、学校を子どもの権利が守られる民主的な場にしていこうと提案する書籍がどんどん増えてきたのもこの2〜3年の特徴。ある書店員の方に「その流れをつくったのは御社ですよね」と、言われたときにはとてもうれしかった。
 現在は改装中のため仮店舗となっている三省堂神保町本店なら5階。絵本などの「児童」ジャンルと赤本等の「学参(学習参考書)」ジャンルを通り過ぎた、やはりすみっコ。

 ここでは都内に限定したが、これら、全国にあるいわゆる「大型書店」の片隅で、静かにしのぎを削っているのが教育書だ。駅前にある書店や、近年増加傾向の独立系書店に置いてある可能性は極めて低い。あっても、専門外の人でも読める時事的なトピックを扱った書籍のうち、厳選された数冊といったところか。

 こんなふうに、私が身を置く分野は初対面の人に長めの説明を要することになる。それが編集者相手であっても他分野、特に「一般書」といわれる分野の人であれば無慈悲にも「へえ、ちょっとそういう棚は気にしたことがなかった」などと言われる。教育書がどこに置かれていて何部売れていようが、そもそも彼らにはあまり見えていないから。
「出版」や「編集」と呼ばれる現場において、自分が日々やっていることなどカウントされていないのではなかろうかという恨み節が、常に私には眠っていて、だらだらと残業した会社の帰り道、入った深夜のコンビニで、セール品コーナーに置かれた「すみっコぐらし」グッズを目にし「こいつらは私のことだ!!」と胸打たれたりしている毎日なのである。

 しかしこういった各「ギョーカイ」をめぐるある種のコンプレックスというのは、専門書編集者固有のものなどではもちろんなく、極めて平均的な「あるある」と言えるのではないか。

 その年の話題書を編集して、充実しているかのように見える友人の編集者は、紀伊國屋じんぶん大賞のベスト10はおろかランキング30にも入っていなかったと嘆いて、自分など「ジンブンショギョーカイ」からはお呼びでないのだと、えらく落ち込んでいたし、私と同じくニッチな業界の専門書を編集している友人は、オリジナリティのある企画を精力的に立てているというのに、転職しようにも他の出版社にアピールできるような明確な「実績」が自分には無い、などと嘆く。

 彼女らの言葉に「あなたはいつも素晴らしい仕事をしているのに!」と、私の心の中のすみっコ達は、励ましの雄叫びをあげる。
 みんな、どこかに存在するであろう出版業界を設定して自分なんて「“そこ”にはいないのではないか」と思い悩んでいる。共感する一方で、じゃあその「ギョーカイ」ってのは具体的に一体どこにあるのさ?と、自問自答する。

見えてこない日常のなかで

「編集者」はこそばゆいとして、では「教育関係者」というのは、実際どうだろうか。本当にそのように名乗れるのかといえば、当然、口が裂けてもそんなことは言えない。

 今の会社に入社してしばらく文部科学省の月刊誌の担当をしながら、あるいは単行本の編集しながら、全国津々浦々の小学校を中心に取材・見学して回る日々を過ごしてきた。

 私は見たことがある。小さな学校の教室で行われている算数の授業が、今まさに社会で実際に起きている出来事につながっていることが実感できるような光景を。
 私は見たことがある。地方の山奥にある公立小学校で、子どもたちが互いを指名し合いながら発言し、教員は子どもたちの発言内容を黒板に懸命に書き留め必要最低限の相槌を打ち、彼らの言葉の掛け合いだけで学びが成立している授業を。
 私は知っている。当日45分間の授業の裏側で、教員がどれほどの教材研究をし、同僚たちと議論を重ねているかを(言うまでもないが「授業準備が5分間」という教員に私は出会ったことがない [注1])。職人技とでも言うべき姿を目の当たりにすれば、とてもじゃないが自分を教育の関係者であると名乗るなど、やっぱりなんだかおこがましい。
 これまで見てきた教育現場では、テレビのニュースや身近な会話などで出くわす「最近の学校って」「近頃の教育現場って」という教育評から感じるものからは、異なる景色が時として広がっていた。
 だからどう、という話ではない。
 多くのメディアの使命は、事件や社会課題を報じることが第一なのであって、それ以外の教育現場のささやかな毎日について取り上げる理由は少ないわけであるから、どうしても人目に触れる機会は限られるものである。
 あるいは日常においても、いろいろな学校を見学する機会など普通はなく、皆自分の子ども時代の経験をもとに教育について論ずるのが自然なわけだから、仮に現在の現実からは認識に多少のズレが生じたとしても、それは仕方のないことだ。
 だからこそ、「教員の傍らで現場を見つめ、支えること」を標榜している我々のような会社は、「今ここ」にある学校の日常を発掘し発信していくことが使命なのである。

 しかしながら、グッドプラクティスを紹介することだけが、教育書の版元がやるべきことかといえば、そうとも限らないだろう。
 教育現場により近い距離で仕事をしている我々だからこそ、教員から聞き出せる本音があり、学習指導要領や文部科学省の月刊誌を刊行し、行政とも密に仕事をする会社だからこそ、現場の役に立てることがあるのではなかろうか。
 現場のことがわかっていない巨大な悪の組織として嫌悪されることの多い文部科学省だが、その内部に、子どもの学びの担保のため懸命に働く職員が存在することを、やはり私はこの目で見て、一緒に仕事をして、どうしても知ってしまっている。
 現場の教員が困っていることや、構造的に変えなければならない仕組みがあるならば、書籍を刊行することを通してアピールし、行政で働く人の目にも止まるようにしたい。現に、新しく書籍を刊行すると、「現場の声を教えてくれてありがとう」という旨の連絡をもらうことが度々ある。
 教員との仕事と、行政関係者との仕事。行ったり来たりを繰り返すことで、少しでも橋渡しをすることができれば、学校と行政のあいだを私が漂っている価値もあるかもしれない。双方が上下のような構造ではなく、役割分担として補い合えるような状態を望んでいる。
 主たる軸がないとも言えるが、そんな気持ちで、いたって真面目にフラフラしてきた。

これは「外野のヤジ」なのか

 2022年に刊行した『教室マルトリートメント』という書籍は、特別支援学校で教員として勤務する著者による、教員の不適切な指導についてその内容や予防法、改善策を述べた書籍である。
「マルトリートメント」という概念は、海外ではチャイルド・マルトリートメント( child maltreatment )という表現で広く知られており、mal(マル=悪い)+treatment(トリートメント=扱い)で、マルトリートメント。「不適切な養育」「避けたい関わり方」「行われるべきでない指導」などの意味で、主に親子関係の養育において扱われる概念である。
 これを教室という空間に援用し、違法行為の一歩手前のレベルの行き過ぎた指導から、これまでは当たり前に行われていた指導だけれども、改めて考えると子どもの心を傷つける要素をもつ指導まで、幅広く「教室マルトリートメント」と名付けて整理した。
 一見すると子どもたちが静かになり、何も問題が起きていないように感じられるからこそ見えていなかった、指導のグレーゾーン――それは例えば、頭ごなしの強い叱責や威圧的・高圧的な関わり、主体性を妨げるような関わり、締め付けが強いルールの設定、連帯責任を課すような関わり、見捨てるような言葉――教育の名の下に、心理的虐待やネグレクトに類するような関わりを看過してきてはいなかったか、と問いかけた一冊だ。
 加えて、それらが発生してしまう要因として、教員の労働環境や職員室での人間関係など、教育界の抱える構造的な問題に着目をしている。もう子どもたちの心が傷つくことがあってはならないのだと、祈るような気持ちで編集した書籍だった。

 本書は、共感の声や自身を省みるような声など、予想を上回るほど大きな反響をいただいた。一方で、書籍を紹介した記事についたコメント欄やSNS上ではごく一部ではあるものの、「“現場”のことをわかっていない」という旨の声も寄せられた。曰く、体罰やわいせつ行為などの違法行為以外のことまで「不適切だ」と指摘されたら、“指導”ができなくなってしまう、とのこと。
 本書では、「指導」だと誤認されてきた不適切な関わりが、子どもにとってどのようなトラウマを残し、のちの人生にまで影響しうるかというところまで詳細に述べているため、私は「“指導”ができなくなってしまう」という言い分には一切同意しない。しかし、ただでさえ労働時間の長さや業務量の多さから過酷であると「外野」から取り沙汰され、抑圧されることの多い現場にとって、本書のように何らかの問題提起を行う本が、「現場へのダメ出し」だと仮に受け取られた場合、その体験はその人にとって新たな傷つきや負荷となる可能性もある。
 直接読者と近い立場で相対する機会の多い我々のような出版社にとって、現状への課題を提示するスタンスの書籍を出すことは、「本当に、わかって書いてるんだろうな?」という、よりシビアな目線で判断されるという意味ではスリリングであり、他の版元から刊行するよりも特有のハードルもあると感じている。

例えば1冊の本を編集するにあたって、いろいろな関連書籍や論文などを読むことになる(写真は、『教室マルトリートメント』編集時)。
例えば1冊の本を編集するにあたって、いろいろな関連書籍や論文などを読むことになる(写真は、『教室マルトリートメント』編集時)。

 日本語ラップというジャンルを開拓しその地位を向上させたヒップホップグループRHYMESTERによる『ウワサの真相 featuring F.O.H』という一曲は、2001年にリリースされた2枚目のシングルで、「日本人がラップすること」を揶揄してくる声に対する渾身のアンサーが聴きどころの傑作だ。
 神田錦町にある社屋まで出社するために、とぼとぼ歩きながら流すこの曲のなかで、何度聞いても魂が震えるのは宇多丸のこんなバース。

この「現場」以外に「本場」なんてのは存在しない
外野のヤジは聞くにほとんど値しない
コンプレックス マジ脱したい? 
なら他人の評価なんてのは それこそ時代次第
てめえにしか 託せねえだろプライドは 
ワケがあんだよ このデカい態度は
モニターに浮かぶ文字とかよかずっと確かな 
オレの過去 そして明日だRHYMESTER『ウワサの真相 featuring F.O.H』(一部抜粋)

 先述したような出版業界を彷徨う「すみっコ」としては励まされることばかりの歌詞なのだが、ここでいう「外野のヤジ」が、編集者としての自身のあり方に突き刺さる日もある。

 私が編集する本は、教育現場にとって所詮「外野のヤジ」であっただろうか。
 数年前に担当したあの本はどうだったんだろう、これから編集するあの本は?
しょんぼりしていたら、本を読んでくれた教員からメールが届いた。

「河合さんは『現場ファースト』の編集者さんですね。だからこそ現場に影響のある素晴らしい本を作ってくださるのだと思います」。

 誰がどのように「教育現場」を表現しようとも、それらは常に、一側面の切り取りに過ぎず、「現場とはどこのことなのだろう」という問いを前に、私はやはり立ち尽くしてしまう。
「『現場ファースト』の編集者さんですね」
「現場のことをわかっていない」
かけられた言葉は、どちらもその人の真実なのだと思う。

 元小学校教員で、現在は大学の教育学部で教員養成の仕事に就く研究者(傍ら、小学校で引き続き授業も行っている)の書籍を編集した際、「教育現場の先生方のために」「現場の先生だからこその視点を」などと繰り返す私に、その人は言った。

「その『教育現場』っていう言い方があんまり好きじゃないんですよ。だってみんなそれぞれが働いている現場が『現場』でしょう? 教員養成をしている大学の現場だって、教員養成という教育の『現場』ですよ」。

大義を貫けるか

 2024年5月、『教師の自腹』という書籍を刊行した。
 教員の経済的自己負担の存在は、関係者間では昔から周知の事実であったが、これまで、具体的な調査が行われたことはほとんどなく、「確実に存在はするが、実態はよくわからない」という性質のものであった。
 本書では、公立小・中学校に勤務する教職員(教員・事務職員)1,034名に対してウェブ調査を実施することを通して、それらの数値的な可視化と、論点の整理、どんな意見があるのかを分析し、解決策を探ることを目指した。
 具体的には「授業」「部活動」「旅費」「弁償・代償」「その他」のカテゴリに分けて、2022年度の1年間で自腹があったかどうか、また、あった場合にはその名目や金額、頻度、経緯などを尋ねた。
 企画・オファーしたのは『教室マルトリートメント』を刊行して数ヶ月経った2022年秋のことで、そこから、調査を開始するための約40問ある「調査票」の設計、調査の実施、結果の分析、執筆、校正……と、刊行まで足掛け3年の月日を要した。

 見えてきたのは、「自腹」の多種多様さである。
 授業を実施するために使用する教材や家庭訪問のための自家用車のガソリン代、顧問を担う部活動での大会を審判するための資格取得費用、各家庭からの徴収金(教材費等)の未納分の立て替え、修学旅行下見のための交通費……。
 例えば上記のようなものが自腹の事例として報告されたが、それらの背景としては「手続きが不要で気軽(※「授業に関わる自腹」の最多理由)」「校内に『自腹』を当然とする雰囲気がある(※「旅費に関わる自腹」の最多理由)」などの理由があった。
 一方で、自分のスキルを上げるためならば身銭を切って自己投資すべきという声、あるいは、納得して自腹しているならメリット(※自身の裁量の確保)もあるのだから、あまりうるさく言わないでほしい、といった当事者の声にも出会うことになった。
 この本に限らないことだが、それまで「暗黙の了解」となってきたことをわざわざ調査まで実施して表沙汰にすることは、相応のリスクを伴う。
 こちらが仮定や予測をしたことは、蓋を開けてみれば当事者としては受け止めが異なることもあるから、最初から課題だと決めつけて論を進めることには慎重になったほうがよいだろう。
 本書では、上記のような声も踏まえ、「自腹は、そもそも『問題』なのかどうか」という根本的な問いから議論を始めることを心がけた。けれど、慎重になりすぎるあまり、やはりだんだんと私は怖くなっていった。

“私が企画した書籍は、教員にとって「外圧」になるのだろうか――?”

 また「現場のことをわかっていない」と言われるだろうか。
“外野”から「こんな状況はおかしい」と圧をかけて、なり手不足が著しい現在の教育現場の評判をさらに下げ、足を引っ張るだけの本になるのではないか。これまでお世話になってきた周囲の教員から、「教育現場を散々見て回ってきたお前が、結局はこういう本を世に出すのか」と、思われるのではないだろうか。私は、書籍の進行が進むごとに、この本を出すのが怖くなった。

 だからそのまま著者たちに伝えることにした。
 もうすでにじゅうぶん疲弊しているであろう教員にとって、さらなる負荷をかける本になってしまうかもしれないこと。当事者に傷つき体験を与える書籍になってしまうかもしれないこと。それを私は心配していること。

 黙って聞いていた著者の一人が口を開いた。
「結局、河合さんはこの本を出してどうしたいんですか?」

 企画はすでに走り出してしまっているのに、「どうしたいのか」なんて、そんなこと、今まで改めて著者に訊かれたことなどなかったものだから、背中に汗が流れた。どうしたいんだっけ。
 企画書を著者陣に送って、オファーをしたときの動機を思い返し、私は答えた。
「教職を、持続可能な職業にしたいんです。だから、この本を出します」。

エキストラはどこにいる

“「就職おめでとう! 学校の先生になったんだって?」。いつもどおりの反応。ここからお決まりの対応がはじまる。
「先生じゃないんだけど、学校で働いているの。学校事務職員っていってね、事務室の先生とも呼ばれてはいるんだけど……」
「やっぱり先生なのか?」
「うーん、だから……」
 毎度のことながら、事務職員の仕事内容を説明するのはひと苦労。”

(栁澤、2016、p.28)

『教師の自腹』は3名の共著によるものだが、そのうちのお一人、「結局どうしたいんだ」と私に訊いてきた栁澤靖明さんは、埼玉県の中学校で働く現役の学校事務職員である(もうお二人の著者は、教育行政学の専門家である福嶋尚子さんと、教育社会学と障害児教育を大学院で研究中の古殿真大さん)。
 栁澤氏の著書『本当の学校事務の話をしよう:ひろがる職分とこれからの公教育』(太郎次郎社エディタス、2016)は、その仕事内容をなかなか想像できない学校事務職員がどんなことをしているのか、手を変え品を変え説明する一冊。
 同書では、学校財務に代表される事務職員の標準的な職務内容に加えて、「事務室だより」の発行などによる就学援助制度の周知徹底[注2]や保護者からの徴収金を軽減する取組などを紹介することを通して、これからは事務職員がその職務を積極的に広げていくことが提案されている。

『教師の自腹』という一冊を、現場への単なる「外圧」で終わらせぬように、あるいは大規模な予算の拡充という社会的コンセンサスが必要なマクロな提案だけで終わらせぬように、むしろ現場で実現可能な策――つまりそれは事務職員による学校財務マネジメントの確立ということになろう――として「手に取れる出口論」の執筆を、栁澤氏には担ってもらった。

 “事務職員は「縁の下の力持ち」とたとえられることが多いが、子どもを中心に考えたら、教職員は全員「縁の下の力持ち」であると考えている。縁の下のさらに影にある仕事をクリアにしていき、教職員や子どもたち、保護者、地域住民とともに、事務職員も中身が見える仕事をしていき、公教育維持のためにともにがんばりたいという考えである。”

(栁澤、2016、p.33 注35)

 本のタイトルは企画書の段階から『教師の自腹』と名付けて、著者陣にプレゼンしていた。「自己負担で成り立つ公立学校」というサブタイトルをつける案もあったけれど、タイトルはとにかく潔いのが勝ちパターン。『教師の自腹』なら語呂も良いし、文字数も少ないので読者も「#」をつけてSNSに投稿しやすいだろう。これだけは譲れない!といった風情でダメ押しのメールをして、特に反論もなかったので良しとしていたのだけれど、制作ももうすぐ終了という段階になって、私は、はたと気がついたのであった。自分が「教師以外」を排除したタイトルをつけたことに。
 現に、本書の調査対象は公立小・中学校の教員と事務職員であって、学校財務を担う立場の事務職員までもが自己負担を少なからずしているということも、その結果から明らかになっていた。
 例えば、授業のための高機能製品を試しに買って使用させたいために自腹、自家用車での銀行周りのためガソリン代を自腹(月30〜40km)、壊れたパソコンの弁償、といった具合に。

 この本の正式なタイトルは『教師の ・・・自腹』ではなく『教職員の・・・・自腹』であるはずであったのだ。

 常々、編集者である以前に、男性たちのご機嫌を損ねることのないように立ち居振る舞うことが暗に要求され続ける社会で吹けば飛ぶような暮らしを強いられている一市民として、あらゆる排除に敏感でありたいと心がけているはずなのに、編集技術としての「わかりやすさ」の前で、私は他者の立場を透明にした。

 些細なことだと思うだろうか。しかし、この極めて瑣末で日常的な存在の軽視の蓄積こそが、人のエネルギーを緩やかに奪い続けることを、私は体感として知っている。
 今さら気づいたのだけど、と栁澤氏にメールしたところ、下記のような返信が来た。

 “正直、うれしいです。
 事務職員としての発信をずっとがんばってきたから、今回の出会いもあったし、このコメントをいただけたと思っています。
 学校文化に事務職員を根付かせる──
 事務職員が学校文化をよくする可能性も発信しつづける──
 そして、もし自腹本2が出るような社会状況が続いたら、
 そのときは胸を張って「教職員の自腹」でいこう! といってもらえるように今後もがんばります。”


 とある地方都市にある、不登校支援で知られる学校を見学した際に出会ったスクールカウンセラーの女性のことを思い出す。
 スクールカウンセラーという職業は、カウンセリングルームにたどり着いた子どもたちの悩み、あるいは悩み以前のまだ言語化されない想いに寄り添い、それだけでなく、学校に勤務する大人(教職員)へのケアも担う。
 全国各地から入学希望者や視察者が引きも切らないその学校の魅力は、子どもの「できないこと」を嘆くのではなく、「できること」を認め合うという創立当初からの理念であるが、言うまでもなく、この理念を標榜するだけで終わらず全ての場面で矛盾なく全うするためには、裏側に教職員らの血の滲むような努力がある。
 プライバシー保護が極めて重要な職業だ、彼女は一つひとつの言葉を丁寧に選びながら、可能な範囲で仕事の様子を教えてくれた。時折訪れる逡巡による静寂に、対人援助職の壮絶さが滲んだ。
 校長先生は、私に彼女を会わせる際、「エキストラではなく、学校職員として一緒に働いている私たちの同僚です」と言って紹介した。

 今年3月、東京都が非正規公務員として働くスクールカウンセラーのうち、契約更新を希望した250名について再任用拒否をしたことが報じられた。
 2020年度から、東京都のスクールカウンセラーは「会計年度任用職員制度」が導入され、1年ごとに任用される職員となった。制度の導入以前から勤めていて契約更新の上限に達したスクールカウンセラーは、継続して働くために公募試験に合格しなければならない。
 このことは事前に周知自体はされてきたものの、再任か不再任か、それまでの勤務実績は加味されず、選考基準が不透明であることなどが問題視され、日本公認心理師協会はその雇用形態の見直しを求める声明を発出した[注3]。

 10年半、私は「学校=子ども」で、「学校=教員」だと思って仕事をしてきた。
 子どものためにこそ、出版活動を通して教員の仕事をサポートするのが私の仕事であるのだと思ってきた。それは別に、決して間違いではない。これまで、私の編集した書籍を自分のバイブルだと言ってくれる教員の読者と、かけがえのない出会いをいくつも重ねてきた。
 しかし、私は見落としていた。
 学校には、事務職員がいた。学校には、養護教諭がいた。学校司書がいて学校用務員がいて給食調理員がいて、スクールカウンセラーがいた。大学で、未来の教員を養成している教員がいた。そうして学校は成り立っていた。
「現場」は、ありとあらゆる場所に、あったのだ。

***

 私は小さな出版社に勤める編集者で、同時に教育関係企業に勤める会社員だ。私が編集している本は専門的で、大型書店のみんながあんまり行かないすみっコのコーナーに置かれている。
 本の企画書を書いたり教員の研究会に参加したり、大学教授と議論したり、帯文を考えたり、小学校に取材に行って授業を見たり子どもたちの写真を撮ったり、一緒に計算のプリントを解いたり、教室で給食をご馳走になったり、新刊書籍のプレスリリース文を書いたり、文部科学省関係者と会議をしたり、子どもが図画工作科でつくった立体作品を雑誌の表紙用に道端で撮影して道ゆく人からジロジロ見られたり、デザイナーからの請求書を経理部に回したり、先生が国語の授業で活用する漢字ワークシートのマス目の大きさを何ミリにするか同僚と話し合ったり、大学の教育学部で使うテキストを編集したり、もう二度と会うことはないであろう子どもからお花の形の折り紙をお土産にもらったりしている。
 どれをしているときもしっくりきていないし、仕事内容はいつだって入り乱れていて「説明するのはひと苦労」で、何もかもできなくてはいけないのに何もかも一向に上達はせず、専門的な領域に身を置いているのに「専門家」ではもちろんなく、自分が結局何をしている人であるのか、胸を張れるものは別段ないけれど、これがどうしようもなく、私の毎日だ。

「現場」とは、どこのことか。

 現場とは、つまり、私のことだ。
 現場とは、私のことであり、あるいはそこのあなたのことだ。
 その地味で、誰に褒められることもない、何をやっているのか、誰の役に立っているのかもよくわからない、取るに足らない(ように見える)その仕事を日々営む、あなた自身のことであり、あなたが名前すら知らない、あの人のことだ。

 人文書とは、その無数にある現場を映し出す鏡だ。
 それら一つ一つは、やはり断片に過ぎないのだが、これまでその存在すらも見落とされてきた現場があるのなら、私はそこに行って話を聞いて、それを本にしたいと思う。
 大きな書店のすみっコにささった本が、一人でいい、まだ見ぬ誰かの心の真ん中にささる日を夢見て、私は私の現場を生きる。
 てめえにしか託せねえだろプライドは。

次回の編集者は

 次のバトンは、集英社の岸優希さんに渡します。
 今年文庫化された武田砂鉄さんによる『マチズモを削り取れ』は、日本の公共空間にはびこる男性優位社会の芽を、担当編集のKさんが問題提起し、武田さんがそれに応答する形で、共に街へ繰り出し実態を取材し考察するという、趣向を凝らした労作です。
 単行本が刊行された2021年当時、私は、これまで日常的に当たり前に経験してきた性別を起因とする理不尽に、「そういうものだ、とずっと我慢してきた“あれ”や“これ”や“それ”は、本当は怒ってもよいことだったのではないか」と感じ始めていた頃で、読了後、「本を閉じたら世界が変わって見えて、読む前の世界にはもう戻れない」という経験を確かにしたのでした。
 毎度、武田さんに“檄文”――文庫版で小説家の金原ひとみさんが補足している通り、あれは檄文というより、女性たちが日常で感じ、そして飲み込んでいる“嘆き”ですが――を寄せる「担当編集のKさん」が、岸さんなわけですが、読み物として端的に面白い上に、読者の心を救済するという大事業を両立させたこの稀有な一冊を、同世代の編集者が編んだという事実に、大変励まされたことを覚えています。
 お目にかかったことすらない岸さんですが、「素敵な本を世に出してくれてありがとう」という3年越しの感謝を込めて、この見えないバトンをつなげることができればと思います。


[注1]埼玉県の公立小学校で月に平均60時間の時間外労働をしたのに、労働基準法が定める残業代を支払わないのは違法だとして、男性教諭が県に約240万円の支払いを求めた裁判で、東京高裁の判決は、1コマにつき5分間の授業準備を労働時間として認めるものとした。また、教材研究は労働時間として認められなかった。中日新聞(2022.10.7)「教員訴訟 東京高裁判決に疑問の声 『教師の仕事の核は授業』」https://www.chunichi.co.jp/article/559176 を引用・参照。
[注2]保護者の所得が一定水準に満たない場合、学校教育法第19条の規定に基づいて、学校給食費や修学旅行費等を自治体が援助するのが就学援助制度。しかし、その存在が、必要な人のもとに情報として届いていないことがあるため、窓口が申請をただ待っているのではなく、積極的に発信することが重要になる。
[注3]スクールカウンセラーの雇い止め問題について、詳細は下記を引用・参照。
・東洋経済ONLINE (2024.3.14)「都の学校カウンセラー『250人雇い止め』の衝撃」https://toyokeizai.net/articles/-/740327
・東洋経済education×ICT編集部(2024.6.22)
「都のスクールカウンセラー雇い止めに波紋、子どもの継続支援に必要な視点」
https://toyokeizai.net/articles/-/762083
・日本公認心理師協会(2024.3.7)「東京都公立学校スクールカウンセラー不再任問題に際して」
https://www.jacpp.or.jp/news/wp-content/uploads/2024/03/statement_on_SC_recruitment.pdf

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ