朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について④――第7巻から第11巻までの内容
記事:平凡社
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朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について①――尹致昊とはいかなる人物か
朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について②――第1巻から第6巻までの内容
朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について③――日記に記されなかった「空白の9年半」
第1巻~第6巻は反故紙、罫紙、大学ノート等、様々な用紙に記されていたが、第7巻以降は全て市販の日記帳(縦書き形式で1年365日を1冊にまとめたもの。日付・曜日・旧暦等が予め印刷されており、天気記入欄も指定されている)に記されている。第7巻のうち1916年から1918年までは東京民友社発行の『国民日記』を、1919年は積善館発行の『當用日記』を用いている。民友社が徳富蘇峰の設立であることを考えると市販日記帳への乗り換えが蘇峰の影響下になされたものであることはほぼ疑いない。
1916年1月1日に再開された日記はテニヲハ(에、로等)と基本用言(하시다等)にハングルを用いている他は全て漢字から成る毛筆縦書きである。第6巻までが流麗な英語横書きペン字だったのとは一変して、まるで別人の日記の感がある。
1月5日になって初めて英語が混じる。しかし基本はハングル漢字混交体の縦書きである。以後、英語が多くなると横書きにし、暫くすると再びハングル漢字混交体縦書きに逆戻りするということを繰り返しながら、同年5月初旬になって筆記用具が毛筆からペン(万年筆)へと変わり、以後、ペン字横書き英文主体の日記が徐々に定着するようになる。この文体の変遷こそ3年間の服役生活から日常生活へと復帰するためのリハビリの軌跡そのものであり、ハングル漢字混交体縦書きは服役中に彼に加えられた親日化・洗脳教育の痕跡であろう。
一方、実生活における尹致昊は公的生活(YMCA、韓英書院)すべてと縁を切り、尹家の家長としての役割に専念する。ソウル典洞の本宅、忠清南道牙山の郷宅、松都(開城の旧名)の別宅、この3つが主たる生活圏である。彼の行動には監視者がいた。鍾路警察署(典洞宅の管轄署)の署長・刑事。松都警察署長。御用新聞関係者(徳富蘇峰・阿部充家・山縣五十雄)。さらには在韓日本人キリスト教関係者(日本組合教会の渡瀬常吉・村上唯吉・山本忠美、日本メソジストの丹羽清次郎)。自分が取るべき行動に関して可否の判断がつかない場合、彼らに助言を求める必要があった。
そんな彼に公的生活への道を開いたのは総督寺内である。寺内はそれまで米国人が独占してきた朝鮮中央YMCA総務を引き受けるよう尹致昊に要請する。迷いに迷い1カ月ほど多くの人々の意見を求めたが、最後に徳富の意見に従って引き受けることを決断した。彼が総務になると同時に3人の日本人が特別理事に就任し、朝鮮Y日本化の第一歩となった。
こうして釈放後1年にして公的生活の第一歩を踏み出したが、“総督府の手先”、“チニルッパ(親日派)”というレッテルが付きまとう。3年後に勃発した3・1独立運動には朝鮮Y総務として真っ向から反対し、運動参加者からはもちろん一般キリスト教徒からも反発と怨みを買った。だが、祖国独立のために死をも恐れず運動に参加する青年男女の姿、これに対する日本官憲の残虐な仕打ちを目の当たりにして尹致昊の心に変化が生じる。強者に対する弱者の抵抗精神の重要性に気づいた彼は、次第にかつての批判精神を取り戻し、それまで日本人を礼賛していた日記には日本人批判の文章が頻出するようになる。
寺内・長谷川2代にわたり続いた“武断統治”は3・1独立運動により退陣を迫られ、新たに斉藤実総督の“文化政治”が始まった(1919年9月)。かつては軍服に酷似した制服を着し腰にサーベルを下げた役所の官吏、官公立学校の教員が一般市民・学生・生徒を威圧していたが、帯剣を止め普通の制服を着るようになった。私立学校において宗教教育が認められるようになり、また、御用新聞(『京城日報』、『毎日申報』、『ソウルプレス』)しかなかった現地紙に新たに朝鮮人経営の民族紙(『東亜日報』、『朝鮮日報』、『時事新聞』)の発行が認可され、言論出版の自由も大幅に改善された。さらに悪名高い憲兵警察制度(総督府警務総監部の指揮の下、憲兵警察が朝鮮全道を一括管理)が廃止され、警察権は朝鮮八道の地方長官(道知事)に移管され道ごとに執行されることになった。
以上のように武断統治は大幅に改善されたものの、何故か尹致昊は文化政治に批判的だった。理由の一つは元来彼が保守的で規律と秩序を好む性格だったことにある。文化政治がもたらした開放的な風潮は若者の台頭と共産主義の流行、そして類似宗教の叢生をもたらした。その結果、中等学校における学生ストが頻発し尹致昊が経営に関わる松都高普(韓英書院の後身)も数度にわたり学生ストに見舞われ、スト学生に突き上げられた彼は不快な思いを味わわされた。さらに宗教を否定する共産主義と人々の無知に取り入る類似宗教はキリスト教にとって大なる敵・障害と見えたのも当然である。
もう一つの理由はこの時期に税金が高騰したことである。1912年8月に施行された土地調査令により大韓帝国時代には曖昧だった個々の土地の面積・形状・生産力・権利関係を明確にする事業が始まり、1918年11月に終了した。終了後、個人所有の土地は全て役所に登記され、登記された台帳を基に総督府は地税制度を確立し、さらに地税に合わせて所得税・間接税等々を整備することで近代的徴税制度を確立させた。たまたま斉藤総督の治政がこの徴税制度の実施時期に重なったため、増税はあたかも斉藤新総督の政策であるかのような印象を多くの朝鮮人に与えたのだった。
大衆示威運動からテロリズムへ
武断統治を文化政治に替えたことは3・1独立運動の成果だった。だが当初の目的である独立を達成できなかったことは人々に挫折感をもたらす。合法的な大衆示威運動の限界を知った人々の一部は一転してテロリズムへと向かった。1919年9月2日、新任斉藤総督に対する投弾事件が起きた。1921年2月16日、東京滞在中の閔元植(親日同化派の代表的な存在)を梁槿煥が刺殺した。翌22年3月28日、義烈団による陸軍大将田中義一暗殺未遂事件が上海で起こる。1923年12月27日、難波大助による摂政の宮狙撃事件(虎の門事件)が起こると、直後の24年1月5日、義烈団員金祉燮が皇居二重橋で警邏中の警官、皇居正門前の歩哨に手榴弾を投げつけるという事件(二重橋爆弾事件)が起こる。同じ24年4月28日には昌徳宮の金虎門で斉藤総督と間違えられた総督府官吏(佐藤虎次郎)が宋学先に刺されて重傷を負う事件(金虎門事件)が起きた。
弱小民族・植民地研究
共産主義、類似宗教、学生スト、増税に次ぐ増税、さらにはテロの頻発。文化政治の実態は尹致昊にとって圧政からの解放ではなく、むしろ無秩序・混乱・生活破壊に思えた。このような不満は尹致昊をして弱小民族と植民地の比較研究に向かわせた。世界史上に現れた弱小民族と植民地を研究することで将来の朝鮮の姿を見極めようとした。アイルランドを筆頭に、トルコ領内におけるギリシャ人・シリア人・アルメニア人、オーストリア支配下にあったボヘミアのチェコスロバキア人、ロシアおよびプロシャにより占領された過去を持つポーランド、英国支配下にあるエジプト・デンマーク、スウェーデン支配下にあったノルウェー、スペイン統治から米国統治下に移ったフィリピン等々、実に様々な民族、国家の歴史を学習している。そこから彼が引き出した結論は、強大民族が弱小民族を同化することは不可能であるというものだった。
本巻も概ね斉藤総督治政下に属す(1927年12月~1929年8月の2年弱は第4代山梨半造総督。以後1931年6月まで第2期斉藤総督)。1920年に南山山頂に建設が始まった朝鮮神宮は1925年10月15日に鎮座式が挙行された(祭神は天照大神と明治天皇)。翌26年1月、朝鮮総督府庁舎が南山倭城台から景福宮内に移転した。その結果、それまでソウル南部に集中していた日本人居住区は次第に(景福宮のある)北へ北へと漸進し(“日本人の北進”)鍾路界隈(ソウル居住朝鮮人の砦と言われた)にまで迫るようになった。こうしてかつて王宮があったソウルの北の要衝に総督府が陣取り、南山山頂には朝鮮神宮が威容を誇る形となり、一気に日本化が進んだ。朝鮮は“朝鮮人のための朝鮮”ではなく、“日本人の、日本人による、日本人のための朝鮮”に改造されつつあるというのが尹致昊の批判だった。
南北地域対立
このような世相の中でキリスト者にして朝鮮屈指の大不在地主だった尹致昊は朝鮮YMCAによる農村改良運動に加わる。1918年の米騒動以後、日本国内の米不足が社会不安の一大要因となったため、これを解消すべく日本政府と総督府は「朝鮮産米増殖計画」を実行した。朝鮮産米の収穫量を飛躍的に増大させることにより朝鮮内の食糧自給を達成するとともに余剰米を日本に移出することが目的だった。だがそれはあくまで建前で、朝鮮農家はもっぱら日本移出用のために米を作り、それを売った代金で麦、粟、稗を買って食うというのが実態だった。その米価も年によっては豊作のために大暴落した。
総督府の産米増殖計画と並行する形で朝鮮YはYMCAニューヨーク本部から5名の指導員を派遣してもらい南北5つの地域で農業改良事業を開始した(1926年4月)。しかし1929年の大恐慌発生により指導員を減員せざるを得なくなるや、どの地域の指導員を減らすかを巡って平壌YとソウルYの対立となる(1930年5月)。対立は農村改良事業にとどまらず、民族紙『東亜日報』(南部)と『朝鮮日報』(北部)の対立、独立運動の主導権を巡る安昌浩一派(同友会)と李承晩一派(同志会)の対立へと波及して遂には朝鮮を南北に二分する一大党派争い(西北派対畿湖派)となった。この地域対立の最中に満州事変が勃発したため、中央Yの農村改良運動は有耶無耶になり、斉藤実に代わって新総督となった宇垣一成の軍国主義の時代へと突入してゆくことになる。
本巻は第6代総督宇垣一成の治政下(1931年6月~1936年8月)にすっぽり含まれる。赴任直前、宇垣は次のような朝鮮現状認識を持っていた。⑴富が一部に集中し貧富の差が拡大しつつある。⑵中小農が漸次土地を失い富者に併有されつつある。⑶田舎の住民が都会生活に憧れ市街地に集中しつつある。⑷以上の結果、農村が著しく疲弊しつつある(『宇垣一成日記』803頁)。
このような現状認識から、赴任前の拝謁において朝鮮統治の2大目標として「内鮮融和」と「朝鮮人に適度にパンを与えること」を天皇に奏上した(同前805頁)。だがソウル着任2カ月後に満州事変が勃発したため、2大目標中の後者は変わらなかったが、前者の「内鮮融和」は満州事変後の戦争拡大を想定した準戦時体制作りの様相を呈したものとなった。日記の中には次のような軍国主義的な記事が頻出する。
満洲戦場からの帰還兵士歓迎会(32年4月)。満州事変勃発一周年記念行事(32年9月。以後毎年恒例化)。大規模防空訓練(33年6月)。国民精神作興週間(同11月)。朝鮮軍所属戦没兵士の追悼式(同前)。平成天皇誕生祝いの提灯行列(同12月29日)。鍾路退役軍人会年会(34年4月)。東郷元帥哀悼集会(同6月)。愛国婦人会(同9月)。第一高普・第二高普に軍事教練を導入(同12月)。朝鮮人の募金で製造した国防飛行機の献納会(35年1月)。陸軍記念日に鍾路で模擬戦実施(同3月10日)。海軍協会朝鮮支部の結成(同4月)。
満州事変とその後の急激な軍国主義化に対し当初尹致昊は批判的だったが、次第に日本の満州進出を肯定するようになる。理由は、⑴満洲には100万とも言われる朝鮮人移民がおり、彼らの生活の安全を託すには中国人よりも日本人の方が確実であること。⑵日本はかつて欧米列強がやったことを真似しているだけで、国連を始めとする欧米列強に日本を批判する権利などないという、欧米列強に対する反発心が強かったこと。
一方、宇垣が天皇に約束した「朝鮮人に適度にパンを与えること」に関しては斉藤総督時代の朝鮮産米増殖計画の弊害を指摘して廃止する方向に向かい、農村の疲弊(とりわけ小作農の窮乏化)を解決する手段として農村振興・自力更生運動を展開する一方で、朝鮮農地令(小作令)の立法化を強行した。小作令の立法化は日本内地でも試みられながら未だに実現していないことを考えれば画期的な出来事だった。朝鮮屈指の大不在地主だった尹致昊は小作人とのトラブルが増加することを恐れ、法令施行直前に父から譲り受けた2つの大農園(鎮安・和順)を手放した。残りの農園の多くもその後数年かけて順次手放した。農地令の成立は尹致昊の生活基盤をも変えた一大事件だった。
1936年、1937年の日記は現存しない。その間、1936年2月12日に実母全州李氏が死去(享年92歳)。母親想いの尹致昊にとって大きな痛手だった。8月9日、ベルリンオリンピックのマラソン競技で孫基禎優勝とのラジオ実況放送に朝鮮全土が歓喜の渦に包まれる。その中心にいたのが朝鮮体育会会長の尹致昊だった。孫を称える民族紙(『東亜日報』等)の記事が「日章旗抹消事件」を引き起こす。抑えつけられていた朝鮮人の民族意識が一気に爆発した。だが直後(8月26日)に着任した新総督南次郎により民族紙は停刊に追い込まれた。歓喜の高まりは急速にしぼんだ。
翌1937年7月、盧溝橋事件が起り満州事変に端を発した日中戦争が本格化する。日本は戦時統制経済に入り10月には国民精神総動員中央連盟が結成された。
日記が再開する1938年の南にとって国民精神総動員運動(以下、「精動」と略す)を朝鮮に導入することが急務となった。同年6月、尹致昊は韓相龍、崔麟等の親日朝鮮人とともに精動朝鮮連盟の設立準備委員に選ばれる。数次にわたる委員会の中で理事長に選ばれそうになるが、彼が西大門警察署に逮捕される可能性があるという日本人委員がいたため辛うじて免れた。
同年7月7日、盧溝橋事件一周年記念の日、ドシャ降りの雨にも拘わらず京城運動場で精動朝鮮連盟の結成大会が開かれた。朝鮮各地に結成された700余りの支部、約3万人が集結した。大会の最後、壇上に上がり〝天皇陛下万歳〟三唱の音頭を取ったのは尹致昊(73歳)だった。降りしきる雨の中、天皇陛下万歳を三唱する白衣白髪の彼の姿は“チニルッパ尹致昊”のイメージを決定づけた。
親日協力者としてさらに尹致昊を取り込むために総督南は一計を案じた。同年3月、延禧専門学校内に設立された「経済研究会」の会員が共産主義思想を学んでいるとの嫌疑で次々に逮捕され、取調の過程で1925年3月に結成された「興業倶楽部」なる組織が浮上し、同倶楽部の会員が一網打尽となった。倶楽部の表向きの目的は朝鮮人の福利向上・産業振興にあったが、その実、李承晩系「同志会」の下部組織だった。尹致昊はその実態を知らずに会の看板として会長に担がれていたのである。
南はこの事実を利用して、尹が倶楽部の実態を知りながら会長になったと認めるならば彼を無罪とし、他の会員たちも「転向声明書」を書くのと引き換えに釈放するともちかけた。尹は逮捕された会員達を早期に釈放することができるならと考えてこの取引に応じた。結果的にソウルの反日的朝鮮人の大多数がこの取引により親日協力者となった。
以後総督南と尹致昊の奇妙な関係が始まる(南は尹致昊と“君と僕”の関係になりたがっていた節がある)。悪名高い南の“創氏改名”制度の実施に対して、当初尹致昊は「なぜ朝鮮式姓名のままでは皇国臣民になれないのか?」と抵抗した。受け入れられないと分かると施行日を半年遅らせるように迫った。だがこれも断られるや、門中会議(親族会議)を開き海平尹氏一門挙って「伊東氏」を名乗ることを決議して南の希望に応じることになった(1940年8月)。取るに足りない抵抗と言えばそれまでであるが、彼なりの抵抗だった。だが、抵抗らしい抵抗もこれが最後で、以後はなし崩し的に親日協力者の道を歩むことになる。それに呼応するかのように1941年になると日記も飛ばし勝ちになり、1年のうち7カ月が空欄になった。
1941年12月8日早朝、“西太平洋上デ遂ニ英米ト交戦”との号外が出た。それまで精彩を欠いていた日記がこの日から一気に息を吹き返し日米戦を白色人種に対する黄色人種の戦いであるとする日本礼讃の文章が続く。だが年末になると再び精彩を欠く日記に逆戻りして、翌1942年の日記は現存しない。
同年5月に南に代わり小磯国昭が総督になる。翌43年1月1日から日記が再開されるが、小磯については伝聞記事のみである。南と異なり小磯は尹致昊に興味がなかったらしい。以後、総督府との関係は急速に薄れ、また1943年4月には白梅麗夫人が他界したこともあり、78歳の老境に入った尹致昊は次第に政界から遠ざかり、隠遁者としての生活に入っていった。