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朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』が東洋文庫で刊行スタート――【前編】尹致昊とはいかなる人物か

記事:平凡社

木下隆男訳注『尹致昊日記』(平凡社刊)
木下隆男訳注『尹致昊日記』(平凡社刊)

ユン致昊チホとはいかなる人物か?

 このほど平凡社の東洋文庫から『尹致昊日記』全11巻が筆者訳・訳注付きで刊行されることになった。しかし日本では作者の尹致昊についても、また『尹致昊日記』そのものについても恐らく殆ど知られていないのではないかと思う。そこで尹致昊とはいかなる人物で、また彼の書いた日記がどのような性格を持つものであるかをこの場をお借りして紹介してみたい。

 尹致昊(1865-1945)は19世紀後半の韓国近代史に登場し、1945年8月の日本の敗戦により韓国が日本支配から解放されるまで60年あまりにわたって激動の韓国近代史の中心にあり続けた人物である。大雑把に言って、その前半生(1882~1910)は金玉均等の開化党の一員、1896年に創設された独立協会の会長、1903年に設立された皇城基督教青年会の理事・副会長、1906年に設立された大韓自強会の会長、等々として韓国の近代化、民族の実力養成運動のために尽力した指導者として肯定的に評価される場合が多い。

 これに反して日韓併合後の彼の後半生(1915~1945)は総督府に協力した“親日派の大物”として嫌忌されるのが相場である。韓国語で“親日派チニルッパ”とは日本の支配者に協力した“民族の裏切り者”とほぼ同義である。とりわけ親日派としての彼の悪名を不動のものにしたものが二つある。一つは、第7代朝鮮総督南次郎統治下の1938年に創設された国民精神総動員朝鮮連盟の委員となり日中戦争遂行のために朝鮮人の全面協力を呼びかけたこと。二つ目は同じ南総督が1940年に始めた創氏改名運動に協力し、率先して日本名「伊東致昊」を名乗ったことである。

 客観的に言えば、彼は生涯の前半と後半においてその評価が真っ二つに分かれる人物である。しかし人の生涯はその最後によって決まる。“尹致昊は民族の裏切り者”というのが現在韓国における定説である。

 人生の前半において韓国近代化の指導者、民族実力養成運動の指導者だった彼が、それでは何故、その後半生において“チニルッパ”と呼ばれるようになったのか?

なぜ彼は“チニルッパ”となったのか?

 1895年いらい尹致昊は一貫して政府のなんらかの役職に就いていた。学部(文科省)あるいは外部(外務省)の協弁(次官)としての役職が多かった。1905年11月に締結された第2次日韓協約(いわゆる日韓保護条約)締結当時、彼は外部協弁だった。しかし、なぜか締結4カ月前から日本およびハワイに出張を命ぜられて条約締結の準備交渉から外された。4カ月におよぶ海外出張から彼が帰国すると(11月6日)、4日後に伊藤博文がソウルに入城した。入城後の伊藤は皇帝および政府大臣に日韓保護条約の調印を迫った。脅迫にも等しい彼の督促に負けて11月18日未明、遂に外部大臣朴斉純と日本公使林権助の間に日韓保護条約が調印された。

 調印された条約を見た尹致昊は、韓国が事実上、日本に外交権を剥奪されたことを知り、外部協弁としての自己の無力さと屈辱感のあまり直ちに辞職を願い出た。だが、条約締結後の内閣処置を考えた伊藤博文は、条約締結に功績のあった外部大臣朴斉純を総理大臣に格上げし、空席となった外部大臣のポストに尹致昊を据えることを高宗(韓国皇帝)に助言した。伊藤の言葉に従わざるを得なかった高宗は尹致昊の辞職願を受け付けない。だが尹致昊の決意は固かった。意に反して外部大臣代理に任命された(11月28日)ものの彼は再び辞職願を出す。 12月13日になり、李完用が外部大臣代理に任命され、ようやく彼の辞職願が受け入れられた。

 かくして10年間におよぶ官吏生活と決別した彼は一民間人となり、これまでとは一転して政府の外における改革運動に没頭した。皇城基督教青年会(韓国中央YMCA)の副会長となり、また米国南メソジスト系ミッションスクール「韓英書院」を設立しその校長としてキリスト教による民族再興の運動に専念した。キリスト教外の活動としては大韓自強会の会長を引き受け、安昌浩が平壌に設立した民族精神養成のための私学「大成学校」の校長も引き受けた(1908年)。1906年から日韓併合の1910年にいたる5年間は、尹致昊の生涯で最も反日精神の旺盛な時期であり、民族自立運動の指導者として広く韓国全土に知られることになった。だが、そのことが却って彼の運命を狂わせることになった。

 1909年10月、伊藤博文がハルビンで暗殺された。犯人の安重根は平壌出身のカトリック教徒だったため、背後関係者としてまず安昌浩が疑われて逮捕された。安昌浩との関係で尹致昊も疑われた。おまけに彼には前統監伊藤博文の強い推挙を無視して官界を去ったという前歴がある。以後彼は要注意人物として国内にある時は統監府の監視下に、国外にある時には日本政府(および海外公領事)の監視下に置かれることになる。

 併合後の1911年秋、総督府警務総監部警務部長の明石元二郎は併合後も反日運動の拠点となっている朝鮮YMCAおよび各地のミッションスクールと民族学校に一大打撃を加えるべく、「朝鮮総督謀殺未遂事件」(後に「105人事件」と呼ばれるようになる)をでっち上げた。平壌を中心とする朝鮮西北部のキリスト教徒および民族主義者数百名が芋づる式に逮捕された。拷問によって彼らから得た自白を元に、警務総監部は事件の最高指導者として尹致昊を逮捕した(1912年4月)。裁判の結果、実刑6年を言い渡されて服役した彼は1915年2月に特赦(昭憲皇太后死去による)で釈放されるまで3年間、刑務所生活を送る。その間、徹底した親日化の洗脳教育を受けたらしく、出所後の彼は日本人に会うと東海道五十三次を諳んじ、神武天皇いらい歴代の天皇の名を諳んじでみせたという。

1912年8月12日付けの京城監獄から白夫人への葉書
1912年8月12日付けの京城監獄から白夫人への葉書

 釈放後1年が経過した1916年3月、彼は時の総督寺内正毅に呼び出されて朝鮮中央YMCAの日本化に協力するよう要請される。1カ月ほど宣教師をはじめ様々な人物に相談して考えぬいた末に、彼は寺内の要請を受け入れることを決意した。それまで朝鮮中央YMCAの総務は米国人宣教師が独占してきたが、彼が朝鮮人初の総務となると同時に3名の日本人理事が就任することになった。かくして彼の“チニルッパ”としての後半生が始まった。

 しかし後半生の『日記』を読むと、釈放後、彼が一貫してチニルッパだったわけではない。変化は3・1独立運動後にあらわれる。当初、彼は中央Y総務として運動に反対の立場を明確にした。だが運動の過程で、プロの扇動者とは異なり、無名の朝鮮人や若い青年男女(とりわけ学生)が、民族の独立のためには逮捕も恐れず、時には死をも覚悟して示威運動に参加する姿を目にして感動する。同時に、朝鮮人の要望には一切耳を傾けず力で抑えつける一方の日本人に怒りを覚え、次第に日韓併合以前の自分を取り戻してゆく。国民精神総動員朝鮮連盟や創氏改名への協力も彼なりに考えた結果であることが分かる。彼はどのように考えて日本に協力することにしたのか?

日本と米国と韓国との間

 彼が考えたのは日本人、米国人(とりわけ宣教師)、そして朝鮮人、この三つの民族の関係である。1881年から1883年まで約2年間、日本に留学した経験のある彼は、日本人の優秀性を高く評価していた。福沢諭吉、中村正直、新島襄、内村鑑三らを輩出した明治日本は逸早く西洋文明を取り入れて近代化に成功した。日清、日露、二つの戦争により日本は韓国を清国支配から解放し、次いでロシアの支配から解放した。しかしその解放は韓国を解放するためではなく、日本自ら韓国を支配するためだった。日本人の優秀性は韓国のようなアジアの弱小民族にとって学ぶべき手本であるとともに自らが過ちを犯さないための反面教師としての面を併せ持つものであることを知る。

 一方、米国は人民主権の共和国として自由と平等を宣言し、アジア各地に宣教師を派遣して現地の人々にキリスト教の博愛精神を説き、教育と医療、文明の普及に貢献してきた。にもかかわらず、青年期の5年間、米国に留学して現地のキリスト教を学び、その指導者と親交を結んだ彼は、米国人の言う“自由と平等”は白人にのみ適用されるものであり有色人種には適用されないことを身に染みて思い知らされていた。彼らには有色人種に対する根深い蔑視がある。朝鮮におけるキリスト教系諸機関の運営権は米国人により独占され、朝鮮人は彼らの命令に従うばかりである。米国人もまた模範と反面教師の両面を持つ。

 最後に朝鮮人はどうか? 1876年の日朝修好条規の締結以来、近代化をめざしたものの、日韓併合にいたる過去の歴史は朝鮮人が独立を達成することはきわめて困難であることを示している。では日本統治下にある朝鮮人の自分はどうすればよいか?

 恐らくこの疑問に対する確たる答えを尹致昊は持っていなかった。ただ日本の強圧に対して抵抗するには米国人宣教師の存在が有効であることだけは確信していた。米国との外交関係を悪化させないために日本人が宣教師に対して慎重な態度を取らざるをえないことを彼は知っていた。従って、アジア人に対する米国人の蔑視の問題は正面から問題にすることはなく、在韓宣教師との友好関係を維持することを優先させた。彼のこの方針は日本と米国の関係が良好である間は有効だった。

 問題は日本と米国とがあからさまに対立するようになった時、日本統治下にある彼が日本を捨てて米国を取ることが不可能だったことである。南次郎総督の時代がまさにそれであった。

『尹致昊日記』が韓国で正当に評価されない理由

 1945年8月の朝鮮解放から3カ月あまりした12月6日、尹致昊は80歳でその生涯を閉じた。生前の彼が開化いらい総督府時代末期にいたるまで詳細な日記をつけていたことは解放後の韓国においても多くの人に知られていた。しかし解放後の混乱、朝鮮戦争などのために、長らく彼の日記が日の目を見る機会は訪れなかった。彼の死後30年近く経った1970年代になって漸く彼の日記を刊行する計画が持ち上がり、1973年に大韓民国文教部国史編纂委員会から『尹致昊日記』第1巻が刊行された。その後、順次続巻が刊行され1989年に最終巻第11巻が刊行された。

 しかし刊行された日記がこれまで十分に利用されたとは言いがたいように思う。日記の前半部分(1883~1906年)に関しても『梅泉野録』、『大韓季年史』、『陰晴史』、『續陰晴史』などに比べて『尹致昊日記』を史料とした研究は少ない。また日記の後半部分(1915~1943年)である総督府時代の韓国史に関して『尹致昊日記』以上に詳しい日記は他にないと思われるにもかかわらず、その引用数・言及数は決して多いとは言えない。

 その理由は様々に考えられるが、尹致昊が“親日派の大物”という烙印を押されていたことを先ず挙げうるであろう。解放後の韓国では1919年に成立した「上海臨時政府」を支持する立場が優勢であり、これに反対した尹致昊の日記など韓国の正史を語るに不適切と見なされるのが常識であった。

 次いで韓国には世界に誇るハングルという文字がありながら『尹致昊日記』の大半が英語で書かれていることである。表記言語により『尹致昊日記』全巻を分類すれば次のようになる。
 1882年 7月29日~1887年11月24日 漢文(5年あまり)
 1887年11月25日~1889年12月 7日 ハングル(2年あまり)
 1889年12月 7日~1943年10月 7日 英語(34年あまり)
英語で書かれた部分には途中なんらかの原因で逸失した部分や怠惰のために日記を書かなかった時期があり足かけ54年のうち20年ほどが現存しないので、英語部分は実質的に34年ほどになる。しかしこの部分だけでも大韓民国文教部国史編纂委員会版のテキストで10巻、4236頁になる。膨大な量の英語日記である。

 韓国人が韓国人の歴史(日記)を記録するのに敢えて母国語であるハングルを使わずに生涯、英語で記録しつづけたことに対して、不信感とは言わないまでも違和感のようなものを感じるのは当然であろう。おまけに人名・地名・役職名・団体名等の固有名詞が英語で表記されているために、具体的な歴史上の実在と同定(identify)させることがきわめて困難である。しかもそれらの固有名詞にはしばしば略号が使用されていた(例えば「朴泳孝」はP.Y.H.となる)から尚更のことである。

 だが、それ以前になによりも日記原文は、達筆ではあるが尹致昊独自の癖がある筆記体の英語で書かれている。国史編纂委員会の解読者も解読にずいぶん苦労したようであるが、活字にされた英語には多くの解読ミスがある。結果として、大まかな意味は分かりながらも、不明確な部分が多すぎて歴史史料として引用するには不適切であると判断されたであろう。

 恐らく、以上のような理由で『尹致昊日記』はこれまで韓国近代史の研究において十分に活用されてこなかった。

《後編に続く》

後編では、『尹致昊日記』にはどんなことが書かれているか、第1巻~第6巻まで紹介する。

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