朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について③――日記に記されなかった「空白の9年半」
記事:平凡社
記事:平凡社
*前回の記事はこちら
朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について①――尹致昊とはいかなる人物か
朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について②――第1巻から第6巻までの内容
『尹致昊日記』第1巻~第6巻がカバーする時代は1883年1月から1906年7月までであり、李朝末期から大韓帝国末期に該当する。一方、第7巻~第11巻がカバーするのは1916年1月から1943年10月までで、日韓併合後の朝鮮総督府統治下に属する。このことを以て前者を『尹致昊日記』前期と呼び、後者を『尹致昊日記』後期と呼ぶこともできる。
日韓併合を分岐点として「前期」、「後期」に分かつこの呼び方は単に韓国・朝鮮にとってのみならず実は尹致昊自身にとっても意味ある区別である。既述の内容からも分かるように、第6巻と第7巻の間には9年半ほどの空白があり、この間の日記原本は現在もその存在が不明である。その9年半における尹致昊の動静に関しては第6巻の訳者解説に「第Ⅱ部 空白の9年半」と題して再構成を試みているのでそちらをご覧いただきたいが、第7巻以降の尹致昊を理解するためにはこの「空白の9年半」における彼の動静、彼の身に起ったことを知っておくことが必要不可欠である。そこで第7巻の内容に入る前に簡単に「空白の9年半」に触れておくことにする。
1905年11月18日、当時、大韓帝国の外部協弁(外務次官)だった尹致昊は外相朴斉純が第二次日韓協約(いわゆる日韓保護条約)に調印したことを知る。外交権が日本に奪われた以上、外部協弁の職にとどまることは屈辱以外のなにものでもない。そう考えた彼は直ちに辞表を提出した。だが皇帝高宗はじめ慰留する者が多く実現は遅れ、同年12月、漸く辞任することを得た。
以後、彼は一介の民間人として韓英書院(米国南メソジストが開城に設立したミッションスクール)初代校長、皇城基督教青年会(朝鮮中央YMCAの前身)副会長等、在野キリスト教徒の実力養成運動の指導者として活動を開始する。
一方、1907年2月に米国から帰国した安昌浩(民族主義による反日運動の指導者。朝鮮西北部を拠点とする)は民族精神の養成を目的に1908年9月、平壌に大成学校を設立し校長に尹致昊を招聘した。キリスト教徒以外の青年にも実力養成運動を拡大する必要を認めた彼はこの要請を受け入れた。翌1909年6月に大成学校内の学生が中心となり相互研鑽組織「青年学友会」を設立する。やがて同会は大韓毎日申報社の主筆梁起鐸等を通じて平壌を中心とする韓国西北部とソウルを中心とする韓国中央部の反日独立運動指導者を結集した組織に変貌し(同年8月)、会員の獲得と組織の拡大に乗り出した。
だが直後の1909年10月26日、安重根による伊藤博文暗殺事件が発生し事態は一変する。統監府・日本政府は日韓併合のためには事件の背後関係を徹底的に究明する必要を認め、明石元二郎を旅順(安重根裁判の地)に派遣するとともに警務総監部に命じて韓国内の反日要注意人物のブラックリストを作成させた。その結果、安重根の背後組織として安昌浩を中心とする西北学会(朝鮮西北部の反日運動者の組織)が浮上した。
伊藤暗殺直後の1909年12月、韓国総理李完用が暴漢に襲われるという事件が起こる。幸い李は軽傷で命に別状なかったが、犯人李在明は平壌出身でキリスト教徒(長老教)だった。伊藤暗殺の安重根もキリスト教徒(カトリック)であり、1908年3月にサンフランシスコでスチーブンズ(韓国外部顧問、保護条約の成立に尽力)を暗殺した 張仁煥もキリスト教徒だった。
こうして伊藤暗殺の背後勢力として安昌浩を中心とする西北学会とキリスト教徒が浮上する。キリスト教指導者(中央YMCA副会長)にして安昌浩と密接な関係を持つ尹致昊がその中心人物として疑われたのは自然の成行きであった。
1910年7月23日、日韓併合の実現を託された寺内正毅が第三代韓国統監としてソウルに着任。これに先立って明石元二郎が駐韓国憲兵警察司令官として着任して(6月22日)、日韓併合を混乱なく迎えるための準備作業に着手した。8月19日、明石は当分の間、政治集会もしくは野外に於ける多人数の集会を禁ずる命令を発し、「違反するものは拘留又は科料に処す」とした(小森徳治『明石元二郎』)。その結果、青年学友会は活動を停止せざるをえなくなったため、梁起鐸、安泰国等は活動の拠点を国外(南満州西間島)に移すべく、ソウル西大門外の梁の家に集まり計画を練った(他に林蚩正・玉観彬、金道煕と彼の教え子である金九・朱鎮洙等が参加した)。会議の結果、参加者は各自故郷に戻り西間島移住者を募集することになった。
参加者の一人金九は移住希望者募集のために故郷の黄海道信川郡安岳邑に戻った。たまたま、同じ安岳に安重根の従弟安明根がいて、日韓併合に反対する暴動を計画し、その資金調達を目的に邑内の富豪を襲う準備中だった。同計画に加わることを求められた金九は喜んでこれに応じた。計画は諸種の事情により未遂に終わったが、憲兵警察の探知する所となり、まず安明根が平壌駅で逮捕された(1910年12月29日)。続いて金九も安岳邑内で逮捕され(1911年2月3日)、両名ともにソウルに護送されて警察の取り調べを受けることになった(両事件とも安岳邑で起こったために、合わせて「安岳事件」と呼ばれている)。
安、金両名の自白により安明根一派および梁起鐸一派全員が逮捕され、裁判の結果、安明根一派は強盗及び強盗未遂罪を以て懲役15年~7年の実刑となり、梁起鐸一派は保安法違反(無断国外移住)の罪を以て前者より軽い懲役2年~6カ月の実刑を宣告された(1911年7月22日)。だが事件はこれで終わらなかった。
安明根一派による強盗及び強盗未遂事件、および梁起鐸一派による保安法違反事件の捜査はいずれも警務総監部の国友尚謙警視が陣頭指揮を執った。国友は金九が両事件に関わっていたことに注目し、梁起鐸一派も単に西間島移住計画のみならず日韓併合に反対する運動を画策していたのではないかと疑い捜査を継続した。すると新たな事実が次々に判明した。
梁起鐸宅で西間島移住計画が話し合われたのと併行して近接する林蚩正宅でも青年学友会員による集まりがあった。林蚩正は大韓毎日申報社の会計係であるが、彼の家は同社の会計事務を担当していた姜文秀からの借家だった。その姜文秀は1890年代から尹致昊の使用人をしてきた人物で、申報社へは尹致昊の紹介で入社した。彼が林蚩正に貸した家は尹から無償で貸与されたものであることも判明した。“反日要注意人物の大物”尹致昊が具体的な姿で国友の前に登場した瞬間である。
スチーブンズ暗殺、伊藤暗殺、李完用暗殺未遂。これらの凶悪事件の背後には安昌浩と尹致昊がいるのではないかとの疑いは警務総監部、総督府幹部の共有する所である。梁起鐸宅秘密会議と平行して林蚩正宅でも秘密会議が行われ、西間島移住計画とは別の凶悪事件が謀議されていたことを立証できるならば、一連の凶悪事件の背後関係は自分の手によって一挙に解明できる!! 国友の野望は一気に膨らんだ。
国友はまず憲兵補助員(朝鮮人)を使って、林蚩正宅で総督暗殺謀議が行われたという情報を得た(捏造した)。次いで、姜文秀を強要して林蚩正宅で行われた総督暗殺謀議に尹致昊とともに自分も出席したとの自白を引き出した(捏造した)。さらに林蚩正宅の召使(門番)である李致根を脅して、林蚩正宅の謀議に尹致昊が訪れた際に彼が主人に取り次いだこと、主人と尹致昊の他に梁起鐸・安泰国・李昇薫・玉観彬・姜文秀が来会して深夜まで謀議をこらしていた等々の証言を引き出す(捏造する)ことに成功した。
国友作成の警察調書によれば、この林蚩正宅秘密会議において尹致昊、梁起鐸は近く総督が平安南北道を巡視するのでこの機会を利用して、京義線沿線の各駅(平壌、宣川、新義州、定州、その他)に新民会員を配置して総督暗殺を実行せよとの命令を出したことになっている。逮捕はまず京義線宣川駅で総督暗殺を企図したとする信聖中学校(長老派のミッションスクール)の生徒・教職員から始まり(1911年秋と言われる)、拷問により彼らから引き出した“自供”を根拠に、次には平壌の大成学校および崇実学校(長老派のミッションスクール)の生徒・職員を逮捕し、さらに彼らの“自供”を基にソウルの尹致昊およびYMCAの学生を逮捕することを以て終わった。
警察作成の訊問調書は拷問と恐喝により容疑者から引き出した“虚偽の自白”からなっていた。にも拘らず一審で起訴された123名中105名が有罪となった。このような無理が通ったのには次のような理由があった。⑴当時の裁判では物的証拠より“自白”に重きが置かれていたこと。⑵伊藤博文暗殺後、その背後関係を明らかにすることが至上命令となっていたこと。⑶これが最大の理由である。反日独立運動に関わる朝鮮人にはキリスト教徒が多く彼らは米国人経営の教会、ミッションスクール、YMCA等を拠点とした。併合以前、米国人には治外法権があり彼らが所有する施設に警察が立ち入ることができなかったからである。だが併合とともに朝鮮は日本の支配下となり米国人の治外法権は消滅した。にも拘わらず併合後も米国人所有の施設を拠点に反日独立運動に従事するキリスト教徒が絶えなかった。とりわけ今回事件には多くの米国人宣教師が朝鮮人凶徒を使嗾し幇助しているとの“自白”があった。初代総督寺内はこの現状に不満を募らせ、日韓併合成った今、米国人を帝国の支配に服させるのは総督の任務であると考えたこと。
一方、在韓宣教師の間には、起訴された朝鮮人容疑者が有罪となれば、次は米国人宣教師に逮捕の手が及ぶのではないかとの不安が広がった。
信聖中学校生徒職員が逮捕されてしばらくすると、被逮捕者の多くが拷問を受け、中には獄死した者もいるとの噂が出回る。さらに被逮捕者の多くがキリスト教徒だったために今回事件は総督府が朝鮮キリスト教を迫害することが目的であるとの見方も出てきた。11月以降になると宣教師およびその家族の中には米国宣教本部に陳情書を送る者、或は総督に会見して誤解を解こうとする者が現れた。
これに対して米国キリスト教界は事態を重視して駐米日本大使館を訪問して善処を求めた。尹致昊逮捕(1912年2月4日)の直後(2月22日)に新駐米大使として赴任した珍田捨巳は当時、西海岸を中心に日本人移民排斥運動が激しさを増していたため、朝鮮における今回事件が日米関係を悪化させることを恐れて(当時は日米開戦必至との世論もあった)、本国外相(内田康哉)を通じて総督寺内に対して事件には慎重に対応するよう注意を喚起することを要請した。
本国外相の助言に接した寺内は迅速に対応した。次期首相の座を狙う彼としては日米関係を悪化させた張本人との汚名は避けたい。1912年2月下旬には早くも「宣教師捕縛の如きは何ら根拠なし」と内田に報告し、一審公判開始直前(6月10日)には総督府としては「宣教師団中此の陰謀と関係を有し又は之を予知し居たる者ありとの疑念は毫も懐き居ら〔ず〕」と外国通信員を通じて公にした。
この軌道修正を円滑に遂行するために寺内は一審開始直前に東京から小川平吉を弁護人として招聘した。小川はいわゆる対外硬派の雄、1907年に初渡韓して以来、日韓問題に専念し、寺内とは統監時代からの関係で文書を通じて早期の併合を促していた。一審開始2日前にソウルに到着した小川は16名から成る弁護団中、唯一人東京から来た弁護士として弁護団の中心的存在となり尹致昊の弁護を担当した。一審も半ばを過ぎた第13回公判(7月17日)になって、彼は弁護団の意見をまとめて「裁判官忌避の申し立て」を断行する。被告の無罪立証のために多くの証人喚問、証拠物件の採用を申請したにも拘わらず、一、二の例外を除き全て裁判官が却下したことは、裁判官は最初から被告が有罪であるとの前提で裁判を行っていると考えざるを得ず、そのような裁判官の下に公判を続けることを拒否するというのである。被告の弁護団が裁判官を忌避するのは朝鮮裁判史上初の画期的な出来事で、被告とその家族にとって小川弁護士は救世主に見えた。
だが、この申し立ては結局却下され、一審の結果は既述のようになった。しかしそれは二審において大転換を導入するために巧妙に計画された伏線だった。一審で有罪を宣告された105人が控訴した二審において裁判官は一新され、新たな裁判官は拷問により虚偽の自白を強いられたという被告の主張に丁寧に耳を傾け、弁護人が申請した証人喚問、証拠物件のほとんどを採用した。加えて一審判決書の中で朝鮮人凶徒に総督暗殺を教唆し、時には謀議の首謀者として登場した米国人宣教師が2審の判決書の中から一切消えた。公判から宣教師が消えたことにより、宣教師が関わったとされる全ての謀議が証拠不十分で成立しなくなり、残るは林蚩正宅秘密会議に出席したとされる人物6名(尹致昊・梁起鐸・林蚩正・安泰国・李昇薫・玉観彬)のみが有罪となった。6名はこの判決をも不満とし2度にわたって上告したがいずれも却下されて、2審判決が最終判決となった。
起訴された被告123名中、最終的に有罪となったのは僅か6名。この屈辱的な結末に寺内が満足した訳では決してない。1審判決(1912年9月28日)後、東京から帰任した寺内は10月9日、総督官邸に小川平吉、徳富蘇峰、吉野太左衛門を招いて晩餐を饗した。徳富は併合後、寺内の要請で総督府の御用新聞(『京城日報』、『毎日申報』、『ソウルプレス』)3紙の監督となった人物。吉野は徳富の部下で『京城日報』、『毎日申報』の主筆兼社長である。席上彼らが何を話したかを知る記録はない。だがその後の経緯を見れば、4者が今次裁判の最終判決が出た後の対策につき話し合ったことはほぼ確実である。裁判終結を以て役目が終わる小川に代えて寺内はその後の処理――尹致昊以下の有罪者をいかに利用するか――を徳富、吉野に託した筈である。彼らは御用新聞を通じて総督府の主張を擁護し、釈放後の尹致昊をキリスト教対策の切り札として利用することになる。釈放後の尹致昊を総督府のために利用することは寺内以後の歴代総督に暗黙裡に引き継がれたものと思われる。
④では、第7巻~第11巻まで各巻の内容を紹介します。