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朝鮮近代史の第一級史料『尹致昊日記』(全11巻)について② 第1巻から第6巻までの内容

記事:平凡社

木下隆男訳注『尹致昊日記』(平凡社刊)
木下隆男訳注『尹致昊日記』(平凡社刊)

①はこちらより

 ②では、『尹致昊日記』にはどのようなことが書かれているかを簡単に紹介することにする。ただし、何分にも膨大な量なので、ここでは彼の前半生に書かれた日記(第一巻~第六巻)に限定することにする。

第1巻(1883年1月1日~1889年12月31日)

 第1巻前半は日本滞在中の日記から始まる。当時、尹致昊は朝鮮初の日本留学生として英語の初歩を学び始めていた。彼が横浜駐在オランダ領事館書記官から英語を学んでいた1883年4月、たまたま初代駐韓米国公使として赴任途上にあったルーシアス・フートが横浜に立ち寄った。朝鮮語通訳を必要としていた彼は日本の外務卿井上馨に斡旋を依頼した。井上は予て面識のあった尹致昊を紹介し、尹致昊はこれを快諾してフート公使の通訳として2年ぶりに帰国する。  

 帰国後の彼は韓国初の英語通訳として一躍、時の人となり、米国公使と国王夫妻の連絡役を一手に引き受ける。米国公使の後ろ楯を得た彼は国王夫妻の寵愛する所となり、得意絶頂の時期を過ごす。

 しかしフート公使の着任により俄かに開化の雰囲気が高まった韓廷はこれに反発する守旧派と開化派に分かれて主導権争いが始まり、遂には甲申政変へと発展する。政変前から尹致昊は金玉均・朴泳孝一派の会合に出席していたが、クーデタ計画については一切知らされなかった。恐らく金玉均ら首謀者は尹致昊が事情を知れば、必然的に彼を通じてフート公使および国王夫妻に情報が洩れると考えて一切伝えなかったものと思われる。事件の発端となった12月4日の郵政局祝宴にフート公使のお伴をして出席した彼はこの日初めてクーデタ計画を知ることになる。以後彼はクーデタに批判的な立場から政変の推移を観察し詳細な記録を残しているが、金玉均一派がクーデタに失敗して日本に亡命すると、守旧派から彼らの一派と見なされて激しく弾劾され、遂に国外亡命を余儀なくされる。

 後半は1885年に亡命した上海の中西書院(米国南メソジスト経営のミッションスクルール)での生活記録が主になるが、注目すべきは彼が如何にしてキリスト教に入信したかの経緯である。祖国を離れたった一人異郷で暮らす孤独感、生まれて初めて両親や長上者(金玉均・フート公使・国王夫妻)の庇護監督から解放された自由感、青年期における性への誘惑、等々のために自分自身をコントロールする自信がなくなったことが大きかったのではないかと思われる。

1882年、日本滞在中の尹雄烈・尹致昊父子
1882年、日本滞在中の尹雄烈・尹致昊父子

第2巻(1890年1月1日~1892年12月31日)

 第1巻の最後の1年から米国留学時代の記録が始まり、第2巻はその続きである。すなわち米国南メソジスト系のヴァンダービルト大学(1888年11月~1891年6月)の2年半、および同じく南メソジスト系のエモリー大学(1891年9月~1893年6月)での2年弱。この間に尹致昊は膨大な量の英書を読み、その英語感想文を詳細に日記に記すことにより、英米人に匹敵する英語力を獲得する。そして既に述べたように彼の日記は英語で記されるようになる。

 米国留学における最大の収穫は、米国がアジア諸国以上に人種差別の激しい国であることを実感したことである。1888年10月、彼は米国留学への途次、横浜に寄港した際に新島襄を訪ねて米国留学に対する助言を仰いだ。新島の助言は、「米国において君は東洋におけるよりも更にひどい悪を目にすることだろう。だが、よい点だけ学んで悪いものは捨てなさい」というものだった。新島の予言どおり、米国はアジア諸国に勝る人種差別の大国だった。彼ら米国人の言う、「人は生まれながらにして自由かつ平等である」というその「人」とは白人のことであり、黒人・インディアン(現在のネイティブアメリカン)・アジア人は含まれていないことを知った。5年間の米国留学により彼はキリスト教の様々な教理を学び、多くのキリスト教指導者たちと友好関係を築き、帰国後はキリスト教により祖国を復興することを心に誓った。だがその一方で、彼の心の奥底では、白人(欧米人)の言う「人間」にはアジア人が含まれていないという冷徹な認識が生涯消え去ることがなかった。後になって1919年の3・1独立運動に彼が反対したのも同じ理由による。運動の主導者たちは米国大統領ウィルソンの提唱する民族自決の原則が朝鮮にも適用されるものと信じ、パリ平和会議に朝鮮民族の代表を送って独立支持を訴えれば独立が叶えられると主張した。これに対して尹致昊はウィルソンの言う「民族」の中にはアジア人が含まれていないことを確信していたのである。残念ながら、当時の朝鮮にあって彼の考え方が受け入れられる余地は皆無であった。

第3巻(1893年1月1日~1894年12月31日)

 前半は5年間の米国留学を終えて(1893年6月)米国から上海に帰還する(同年11月中旬)までの記録。この間、注目すべきは上海への出港地バンクーバーへ向かう途中、9月下旬から10月中旬までシカゴに滞在し、同地で開催されていた「シカゴ万国宗教会議」を1週間ほど傍聴した傍聴記録である。この会議はキリスト教が中心になり世界各地の宗教界代表者に呼び掛けて開催されたこの種のものとしては初めての大規模なもので、アジアからは仏教・儒教・イスラム教・ヒンズー教・ジャイナ教・神道その他の代表が参加した。日本からは釈宗演(臨済宗)、土岐法竜(真言宗)、蘆津実全(天台宗)、八淵幡竜(浄土真宗)、柴田礼一(神道)、小崎弘道(キリスト教)その他が参加した。正式の会議録とは別に、アジアの一青年が綴った個人的にして且つ率直な傍聴記録は、この分野に関心のある研究者にとって大いに参考になると思われる。

 後半には上海帰還後、尹致昊が中国人女性(キリスト教徒)馬秀珍と結婚したこと、日本から訪れた金玉均が暗殺された事件、次いで勃発した日清戦争に対する中国メディアの反応等が具体的に記録されている。興味深いのは当時の中国メディアが、日米戦争下に日本の大本営が発した情報を鵜呑みにした日本の新聞が惨敗を大勝利と報道しつづけたのと同じことをしていることである。

第4巻(1895年1月1日~1896年12月31日)

 前半は10年ぶりに帰国した朝鮮の内政事情が記される。最大の事件はいわゆる「閔妃暗殺事件」である。日本が三国干渉を受け入れた後、韓廷の日本離れ・親露化が進み、それまで内政改革を取り仕切ってきた井上馨公使が改革続行を断念して三浦梧楼新任公使と交替する。情勢挽回を謀った三浦はクーデタを起こして親日政権を樹立させるが、やがて国王派・親露派がアンチクーデタ(ロシア公使館への国王移御事件)を起こして再び韓廷は親露派に牛耳られる。その間、尹致昊は韓国政府内のアウトサイダー(甲申政変の亡命派にしてキリスト教徒だった)として、かつて日本留学時代の親友だった兪吉濬(尹致昊は彼が王后暗殺事件の朝鮮側共謀者と見る)の行動ぶりをつぶさに記録し、また閔妃暗殺事件当日に国王の使者として尹致昊を訪れた義和宮(事件当時、王宮内にいた)が語って聞かせる生々しい王后暗殺の情景を驚きと怒りとともに詳細に記録している。事件現場に直接居あせた者の話を記録したものとしては最も早い記録である。 

 後半では1896年5月にモスクワで開催されたロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に閔泳煥が特派大使として派遣された際に、尹致昊もその随員としてロシアに赴いて5月下旬から8月下旬までの3カ月をモスクワおよびペテルブルグに滞在する。盛大な戴冠式の模様、ニコライ2世との接見、閔泳煥とロシア外交官との間に進められた韓露密約交渉等々が詳細に記録される。8月下旬以降は閔泳煥一行と別れて単身パリに赴き、3カ月間フランス語の個人教授を受けたのち上海(妻子がいた)に帰還する。

第5巻(1897年1月1日~1902年12月31日) 

 1895年に帰国してから2年あまりは朝鮮政界のアウトサイダー的存在であったが、ロシアから帰国した後の彼は徐載弼とともに独立協会の指導者として韓国政界の表舞台に登場する。この運動は韓国近代史上初の市民運動との評価があり、後の105人事件、3・1独立運動の出発点ともされる重要な事件である。当初尹致昊は徐載弼(米国市民権を持つ)を補助する立場にあったが、国王の怒りを買った徐載弼が1898年5月に米国に去った後は彼が事実上の最高指導者(会長)となる。会長尹致昊の下に協会員は民主主義的な手続きにより次々に政府に改革を突き付け一定の成果を得た。しかし、成功に酔った若手過激派の協会員(李承晩・梁弘黙等)が反対勢力(国王派・守旧派)と武力衝突を繰り広げる事態となり、遂に国王により解散を命ぜられ、運動は挫折する。

 挫折後、彼は徳源(元山)監理(地方長官)として左遷され(1889年1月)、以後1904年まで地方官吏(元山・鎮南浦・天安等)としての生活が続く。地方長官は中央政府の閣僚と異なり立法・行政・司法の三権を兼ねた独裁君主である。結果として尹致昊は官吏となって初めて自分が思うとおりの理想的な政策を実行することができた(悪徳警察官の罷免・日本人居留民の横暴を阻止等々)。ために彼が各地域の長官を辞するに際して、地元住民は中央政府に対して彼の辞任を撤回させるための嘆願運動を起こし、それが叶えられないとなると、涙を流して尹致昊との別れを惜しんだ。左遷とはいうものの尹致昊にとっては貴重な経験となった。

第6巻(1903年1月1日~1906年7月3日) 

 1904年2月10日、日本はロシアに対して宣戦布告した。それから1カ月後の3月12日、尹致昊は再び外部協弁(外務次官)に任命され、5年ぶりに中央政界に復帰する。開戦にともない韓国に対する日本の圧力が強まることを予想した韓廷が、日本に人脈のある尹致昊を予め外部に据えておくことが便利と考えたのであろう。事実、彼は1904年8月22日、第一次日韓協約の締結に当たり、外部大臣李夏栄が前日突如仮病を使って職務を免除されたため、急遽、彼に代わって日本公使林権助と交渉することを命ぜられた。意に反して外部大臣代理となった彼は第一次日韓協約の調印者として歴史に名を残すことになった。

 一方、戦況の方は05年1月に旅順が陥落すると、以後、日本有利に展開した。3月上旬には奉天会戦における日本の勝利、5月下旬の日本海海戦においてバルチック艦隊が壊滅すると日本の勝利は決定的となった。勝利を目前にした日本が韓国に対して高圧的になることを予想した高宗は日本懐柔の一策として、日本の優れた政治制度を学ばせるためと称して日本使節団の派遣を決める。尹致昊も一員に選ばれ、同年7月中旬から8月下旬まで日本に滞在した。使節としての役割も大方済ませた彼が帰国の準備にとりかかっていると、本国政府からハワイの朝鮮人移民視察のために日本から直行せよとの命令が届く。直ちにハワイに直行してハワイの島々を駆け足旅行した。9月初旬から10月初旬まで1カ月余りをかけて各地に分散して就業する朝鮮人5000人余りの実態を調査した。

 ところがハワイ視察中にまたもや本国政府から電報が届き、今度はメキシコ半島に直行してメキシコ在住の朝鮮人移民を視察せよとのことである。幸い、この命令は旅費の都合で取りやめになったが、ハワイから日本を経由して彼が帰国を果たしたのは出発いらい既に4カ月近くが経過した11月6日だった。

 それから先、日韓保護条約締結のことについては既に書いたので省略する(「なぜ彼は“チニルッパ”となったのか?」を参照)。それにしても外交権の剥奪という国家の一大事が浮上しつつある時に、なぜ韓国政府は肝心要の外務次官を4カ月もの間、国内不在にさせたのか? もし費用の工面さえついていたならば保護条約が締結される頃、尹致昊は遥か祖国を離れたメキシコにいた筈である。保護条約締結交渉の間、尹致昊を意図的に外したとしか考えられない。

 保護条約締結に関して尹致昊は蚊帳の外に置かれた。しかし条約の調印事情に関しては貴重な事実を日記に記録している。現在、韓国近代史の研究者には日韓保護条約の締結を無効とする意見が多く、その根拠の一つとして、1905年11月23日付けの『チャイナ・ガゼット』が次のように報じたことを挙げている。即ち、調印に用いられた韓国外部の公印は、日本公使館の外交官補沼野安太郎が、「〔韓国外部の庁舎において〕其官印ヲ奪ヒ宮中〔慶運宮=徳寿宮〕ニ帰リ紛擾ノ末同一時半、日本全権〔林権助駐韓公使〕等ハ擅マニ之ヲ取極書ニ押捺シ其調印済トナリタル事ヲ內閣員ニ宣言」したと。

 要するに調印に用いた韓国外部の公印は、日本公使館外交官補沼野安太郎が外部から奪い取って日本公使林権助に与えたものであるから、それを用いて調印した条約は無効であるというのである。

 しかし『尹致昊日記六』1905年11月18日の記事によれば、韓国外部の公印を慶運宮の閣議室に持って行ったのは同部の「申主事(Shin Jusa)」であり、彼は閣議室から外部宛てに電話をして官印を持ってくるようにと指示した外部大臣朴斉純の命令に従ったまでであることが明確に記されている。

 『チャイナ・ガゼット』の記事が11月23日付けであるのに対して尹致昊の記事は11月18日付け、即ち保護条約が調印された当日の記録である。『ガゼット』の記事を覆すために尹致昊が意図的に捏造したものでないことは明らかである。韓国近代史の研究者が『尹致昊日記』のこの記事をこれまで一切問題にしてこなかったのは、大韓民国国史編纂会編纂の現行『尹致昊日記六』の11月18日付けの記事に決定的な誤りがあったためにその重要性に気が付かなかったからである。

 即ち、現行国史編纂版『尹致昊日記六』は、日本公使館外交官補「沼野安太郎」を意味する Numano を2度にわたって Numans と誤読している。Numans とあれば誰しも西洋人だろうと考える。ところが Numans とは実際には Numano、即ち「沼野」を誤読したものであった。そして、『尹致昊日記』に記された彼の役割は、韓国外部に出張して、宮中からの連絡に応じて外部職員が確かに「印櫃」(外部の公印が入った櫃)を閣議室に運んで行くのを確認する役割を果たしているだけである。『チャイナ・ガゼット』の報ずる所とは全く異なる。
現行の国史編纂版『尹致昊日記六』にもしこのような重大な誤りがなく正しく解読されていたならば、現在流布している「日韓保護条約無効説」もその重要な根拠の一つを失っていた筈である。

1905年11月18日付け、保護条約調印の事情を記す日記
1905年11月18日付け、保護条約調印の事情を記す日記

 以上のように、今回刊行の東洋文庫版『尹致昊日記』にはこれまで韓国近代史において流布してきた定説を覆すような発見が少なくない。従来、『尹致昊日記』が研究者により十分に利用されてこなかった理由は、彼が「チニルッパ」であったからというよりも、寧ろ現行国史編纂版『尹致昊日記』にあまりにも解読ミスが多く、正しく理解されなかったためであるというのが筆者の考えである。

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